第21話 迷宮の第一歩、震える心
固い決意を胸に、オレたちはついにレギーナムトの迷宮へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が肌を刺す。外とは明らかに違う、淀んだ空気だ。カビと湿った土の匂いが混じり合い、鼻腔を不快に刺激してくる。どこからか滴り落ちる水滴の音が、静寂の中で不気味に反響していた。壁に埋め込まれた蒼光石が放つ頼りない青白い光だけが、唯一の光源。それは弱々しく揺らめき、オレたちの足元に歪んだ影を作り出す。奥へと続く暗闇は、まるで巨大な獣の口のようにも見えた。
「……っ」
覚悟を決めて入ったはずなのに、足を踏み入れた途端、背筋に悪寒が走る。四年前の記憶――あの時の絶望的な音、鼻につく血の匂い、肌で感じた恐怖――その断片が、脳裏にこびり付いたタールのように蘇りかけてくる。
(……大丈夫だ。オレは、あの時とは違う……!)
必死に自分に言い聞かせる。あの時のような無力なオレじゃない。隣には、エリスがいる。彼女の存在が、暗闇の中で唯一の確かな支えになってくれている。
オレの緊張を敏感に感じ取ったのだろう、隣のエリスが何も言わず、そっと背中に手を当ててくれた。じんわりと伝わる確かな温もりが、強張っていた心を解きほぐしていく。それだけで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
「行こう、タクマ」
「……ああ」
エリスに促され、オレは頷き、迷宮の奥へと歩みを進めた。
四年前と変わらず、第一層は比較的単純な構造をしている。狭い通路が続き、時折、少しだけ開けた空間が現れる。それでも、閉塞感は拭えない。オレは片手剣の柄を握りしめ、警戒を怠らず周囲を見渡し、エリスは持ち前の鋭い感覚で、モンスターの気配を探る。自然と、エリスが前衛、オレが後衛という形で、互いの死角を補いながら進む連携を取っていた。
しばらく進むと、前方の暗がりから、カサカサという音と共に、複数の影が現れた。
「来たな」
現れたのは、単眼のコウモリのようなモンスター、モノアイと、蛇のような姿をしたペインスネークの群れだ。どちらもF級からE級程度の、迷宮の浅い層によく出現するモンスターだ。数は十匹ほどか。
「エリス、頼む!」
「うん!」
エリスは短く応じると、腰の剣を抜き放ち、流れるような動きで敵の群れへと突っ込んでいく。その剣閃は鋭く、的確にモンスターの急所を捉え、次々と地に伏させていく。特段派手な魔法は使っていない。おそらく、この先の戦いに備えて魔力を温存しているのだろう。それでも、その強さは圧倒的だった。
そして、オレもただぼおっと見ているわけじゃない。
一匹のペインスネークが、エリスの死角から緑色の毒液を吐きかけた。
オレは意識を集中させる。手を伸ばす必要はない。視界に捉えた毒液を収納庫に収納して受け止める。
シュン、と軽い音を立てて、毒液はエリスに届く前に、虚空へと消えた。
(よし、できる……!)
入口でのエリスの氷矢を防いだ時と同じ感覚。ちゃんとコントロールできている。
さらに、別のモノアイが石つぶてを投げてくる。それも同様に、視界に捉え、非接触収納で防ぐ。
「タクマ、ナイス!」
エリスが、戦いながらも嬉しそうに声をかけてくれる。
守るだけじゃない。オレは、訓練場で掴んだもう一つの可能性を試す。収納庫から、さっき収納したモノアイの石つぶてを取り出す。ベクトル操作――狙いは、エリスと戦っているペインスネーク!
(いけっ!)
意識を向け、射出!
だが、放たれた石つぶては、明後日の方向へと飛んでいき、カツン、と虚しく壁に当たって跳ね返った。
「くっ、まっすぐ飛ばねぇ……」
やっぱり、まだベクトル操作による照準は難しい。方向を変えることはできても、狙った場所に正確に当てるのは至難の業だ。なにか、良いコツとかないものだろうか……。
それでも、偶然にも壁に当たって跳ね返った石が、別のモノアイの注意を引きつけた。その一瞬の隙を、エリスは見逃さない。鋭い突きがモノアイの単眼を貫き、絶命させる。
「でも……今の、ちょっと役に立ったかも」
結果オーライ、というやつかな。制御はできなくても、攪乱や牽制には使えるかもしれない。オレはモノアイの石つぶてやペインスネークの毒液を、収納しては、ベクトル操作で敵に向けて取り出してみる。狙いはめちゃくちゃだが、壁や地面に当たって飛び散る石や毒液は、モンスターたちの注意を散らすには十分役に立った。
その間に、エリスが残りのモンスターを手際よく片付けていく。
戦闘が終わり、束の間の静寂が訪れる。
「ふぅ……。タクマ、すごかったよ! あの、触らずに攻撃を防ぐやつ!」
「はは……ありがとう。でも、あっちはまだまだ全然ダメだな」
オレは苦笑しながら、ベクトル操作で射出した石ころが転がっている方向を指さす。
「ううん、そんなことないよ。敵が混乱してたもん。すごいすごい!」
エリスは満面の笑みで、尻尾をぱたぱたと振りながら褒めてくれる。その素直な賞賛が、少しだけオレの心を軽くしてくれた。
その後も、オレたちは慎重に第一層を進んでいった。コボルトの小集団に遭遇したり、狭い通路で背後から別のモンスターに襲われかけたりもした。その度に、四年前の悪夢の断片――薄暗い通路、背後からの足音、突き飛ばされた瞬間の感覚――がフラッシュバックしそうになる。
(違う……! オレはもう、逃げない……!)
だが、その度にオレは歯を食いしばり、隣にいるエリスの存在を強く意識することで、トラウマの残滓を振り払った。入口で決意したじゃないか。オレは、過去を乗り越えるためにここに来たんだ。
以前よりは、悪夢の残像を制御できている気がした。
何度目かの戦闘を終え、少し開けた場所で小休憩を取ることにした。壁際の湿った場所に腰を下ろす。
「エリス、水はいるか?」
「うん、ありがとう、タクマ」
エリスがこくりと頷くのを見て、オレは収納庫から水筒を取り出し、彼女に手渡した。エリスは嬉しそうにそれを受け取り、こくこくと喉を潤す。ふと、壁際に目をやると、蒼光石の淡い光を受けて、青白く発光している植物が目に入った。
「ん? なんだこれ……」
近付いてよく見ると、それは迷宮の奥深くで稀に見つかるという、回復効果の高い薬草の一種だった。確か、高値で取引される貴重品のはずだ。
「これは……取っておこう」
オレは、薬草を傷つけないように、そっと手を伸ばしかけ……いや、待てよ。
(非接触での収納なら、傷つけずに取れるか?)
試してみる価値はある。オレは薬草に視線を向けたまま意識を集中し、非接触で収納を発動させた。ふわり、と薬草がその場から消え、収納庫に収まった感覚が伝わってくる。
「お、できた」
我ながら便利な能力だと感心していると、隣で見ていたエリスが、不思議そうな顔で首を傾げた。
「ねぇ、タクマ。今収納したのって、薬草よね?」
「ああ、珍しいやつでさ。回復薬の材料になるんだ」
「それって、植物よね? 生物……よね?」
「え? まあ、確かに植物で、生物……なのか?」
言われてみれば、そうだ。植物も生物の一種だ。
「前にタクマ、生物は収納できないって言ってなかった?」
エリスの言葉に、ハッとする。そうだ、ハンターになる前に読んだ古い文献には、収納魔法は生物、つまり生きたものは収納できない、と書かれていたはずだ。オレ自身も、ずっとそう思い込んできた。
「……ああ、本で読んだ知識だとそうだな。昔の収納魔法使いはできなかったらしい」
「その人って、タクマみたいに触らずに収納できたのかな?」
「……いや、接触が基本だって書いてたな。……あれ?」
オレの収納魔法は、文献にあった「普通の」収納魔法とは違うのだろうか?
「もしかして、タクマの収納魔法って、その人のとはちょっと違うんじゃない?」
エリスも、同じようなことを思ったらしい。
「そう……なのかな……?」
エリスは、さらに思い出したようにポンと手を打った。
「そういえばさ、湖畔でのワカサギ釣りで、釣り餌の赤虫、収納してたよね? あれも、生きてたよね?」
「………………え?」
湖畔での記憶が、鮮明に蘇る。そうだ、あの時、ラウルが用意した釣り餌の赤虫を、他の荷物と一緒に、何の気なしに収納庫に入れていた。あの時は、ただの「荷物」としか認識していなかったが……あれは、間違いなく生きていたはずだ。
(まさか……生物も、収納できる? 赤虫は小さかったからか? いや、でも……薬草も? オレの魔法は、本当に……?)
確信はない。だが、自身の収納魔法に対する疑問と、未知の可能性が、頭の中で渦巻き始めるのを感じた。もし、本当に生物を収納できるとしたら……?
考え込んでいるオレの隣で、エリスは「やっぱりタクマはすごいね!」と、また尻尾を振って喜んでいる。
(……まあ、今は深く考えても仕方ないか)
オレたちは休憩を終え、再び迷宮の探索を再開した。第一層は、思ったよりも広かった。つまり、四年前の記憶はあまり当てにならないってことだな。それでも、昔の記憶を頼りに、いくつかの分岐路や行き止まりを経て、ようやく第一層の最奥部らしき場所にたどり着く。
そこには、下層へと続く石造りの階段があった。
階段の入口から漂ってくる空気は、第一層と比べて明らかに冷たく、重くなっていた。気の所為か、闇も一層深まっているように感じる。壁や蒼光石の様子はさほど変わらないように見えるが、肌で感じるプレッシャーは段違いだ。先ほどまでとは比較にならないほど強く、禍々しいモンスターの気配が、階段の奥からひしひしと伝わってくる。
ゴクリ、と生唾を飲み込む。ここから先が、本当の戦いだ。
オレとエリスは、無言で視線を交わす。互いの目には、緊張と、それでも揺るがない覚悟と信頼の色が宿っていた。
オレたちは、一歩、また一歩と、暗く冷たい石の階段を、慎重に下りていった。第二層には、一体何が待ち受けているのだろうか……?




