第2話 ハンターの日常と小さな影
雪山のロッジでの、あの甘くて、そしてちょっと現実離れしたような朝から数日が過ぎた。
エリスが「知り合いからロッジを借りられたから、たまにはアスターナの喧騒から離れて二人っきりでゆっくりしよ?」とか言いだして、短い休暇を取っていたんだ。帰り道は幸運なことに天気にも恵まれて、特に危険な遭遇もなく、オレたちは無事にいつもの拠点へと帰ってきた。
ロッジの主には、オレの収納庫に入れていた干し肉やら薬草やらを手土産代わりに渡したら、なんだか妙に喜んでくれたっけな。雪山での出来事は、今ではまるで遠い世界の夢のように感じる。
拠点といっても、オレたちが借りているのは、アスターナの中心部から少し離れた地区にある、古びた木造の二階建ての一軒家だ。家賃が安いのが取り柄だが、その分、壁は薄いし、冬は少し寒い。それでも、エリスと二人で暮らすには十分な広さだ。一階を共有スペースにして、二階の二部屋をそれぞれが使っている。
今日は昼過ぎから、溜まっていた雑用――といっても、ほとんどがギルドへの報告とか換金だが――を片付けるために、久しぶりに街の中心部へと繰り出した。
石畳のメインストリートは、昼下がりでも多くの人々で賑わっていた。パン屋から漂う焼きたての甘く香ばしい匂い、市場の威勢のいい呼び込みの声、露店に並ぶ色とりどりの果物や野菜、そして時々すれ違う、様々な種族の人々のざわめき。尖った耳のエルフの行商人、頑丈そうなドワーフの鍛冶職人、それにエリスと同じ、獣耳や尻尾を持つ獣人の姿も別に珍しくはない。色々な文化と種族が混ざり合って、この街の活気を作っているんだ。
そんな喧騒の中を抜け、オレたちが向かったのは、西門の近くにどっしりと建っている古びた木造の建物――ハンターギルド・アスターナ支部だ。ハンター稼業で生計を立てているオレたちにとって、ここは仕事場であり、情報交換の場であり、そして時には、同じ稼業の仲間たちと酒を酌み交わす憩いの場でもある。
年季の入った重い木の扉を押し開けると、むわっとした熱気と一緒に、ギルド特有の匂いがオレたちを迎えた。汗と土埃、使い込まれた革、手入れされた金属、奥の酒場から漂う酒と油料理の匂い、そして……時には避けられない、微かな血と消毒薬の匂い。お世辞にも上品とは言えないが、それでもオレにとっては、なんだか落ち着く、仕事場の匂いだ。
「うわー、今日もすごい人だね! 全然空いてるテーブル、なさそう!」
エリスが、オレの隣で少しつま先立ちして、人でごった返すギルドホールを見渡す。カウンター席も、壁際のテーブル席も、もう昼間から飲んでいるハンターや、情報交換しているパーティでほぼ満席だ。
彼女のふわふわした白銀のショートカットが、人の流れに合わせて軽く揺れている。その隙間から覗く獣耳は、周りの騒ぎの中から何か面白い話でも聞きつけようとしているのか、興味深そうにピコピコ動いていた。
「まあ、この時間はいつもこんなもんだろう。クエストボードも、朝一でいいのは大抵持っていかれてるしな」
オレは壁一面に貼られた依頼書に目をやる。薬草採取、ゴブリンの偵察、近所の農村への見回り、ホーンベア討伐隊への参加などなど。D級向けの依頼もなくはないが、報酬はどれも雀の涙ほどだ。たまに「おっ」と思うような討伐依頼があっても、推奨ランクがC級以上だったり、もう定員オーバーだったりする。
ホーンベア討伐もそうだ。これはオレたちだけじゃ受けられない。C級モンスターだからな。頭に鋭く曲がった角を生やしていて、オレの倍以上大きいクセに動きは素早いし、パワーもあるという厄介な獣だ。狂暴熊なんて物騒な別名まで付いている。報酬額は結構いいんだが、受けたいならC級以上のパーティーに入れてもらうか、オレたちがC級に上がるしかない。
オレは以前から貼られているクエストの方にもちらりと視線を向けてみた。人探しにペット探し、他の都市への荷物運びに、何故か店の手伝いなんていうのまである。……それは、ハンターの仕事なんだろうか?
そして、その中でも一番上の目立つところに貼られているクエストを見上げた。
(まだ貼られているんだな、コレ)
それは《神水》探しのクエストだ。貼り出されて、もう二年は経つのではないだろうか。
当初は、成功報酬として金貨百枚だった。それでもかなりの大金と言えるのだが、なにせモノは《神水》だ。どんな怪我だろうが病気だろうが、たちどころに治してしまうと言われる幻の聖水。そう簡単に見つかるものではない。
このクエストはオレが知る限り、およそ一年ごとに金貨百枚が上乗せされていき、今では三百枚となっている。金貨三百枚ともなれば、王都じゃ無理かもしれんが、ここアスターナならばちょっとした豪邸が建てられるくらいの金額だ。
もちろん、それでもまだ発見されていないから、いまだに貼り続けられているのだろうが。
(はあ……。やっぱり昼過ぎじゃダメか。朝一か、夕方の追加更新直後を狙わないと、旨いクエストは残っていないな……。早くB級……いや、せめてC級に上がらないと、エリスにだって不自由させてしまう)
そんな焦りが頭をよぎる。自然と顔が険しくなっていたのだろう。隣のエリスが、オレの顔を心配そうに覗き込んできた。
「タクマ? 大丈夫? また難しい顔してる」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと、いいクエストないかなって思ってな」
慌てて表情を取り繕う。こいつには、余計な心配をかけさせたくない。
「私はタクマと一緒なら、どんなクエストだって楽しいよ?」
そう言って、エリスはオレの腕に自分の腕を優しく絡めてくる。その純粋な信頼が、今は少しだけ、重い……かもしれない。
「……そうだな。とりあえず、昨日の獲物を換金してくる。エリスはどうする?」
「んー、じゃあ私、ティアさんとこに寄って、最近の面白そうな噂でも聞いてこようかな!」
「ああ、頼む」
エリスは「いってきまーす!」と元気に手を振り、受付カウンターの方へ駆けていった。その軽い足取りを見送り、オレは一人、ギルドの奥にある査定コーナーへと向かった。昨日、アスターナ近郊の森でやったゴブリン偵察のついでに、少し足を延ばして仕留めたゴブリン数匹の耳を換金するためだ。大した額にはならないだろうが、塵も積もれば、だ。
査定コーナーには、案の定、ギルドの古株査定員、ゴルドさんがふかふかの椅子にゆったりと座っていた。今日も口には年季の入ったパイプを咥え、紫煙をくゆらせている。その煙が、彼の豊かな白い顎鬚をゆっくりと燻していた。
「よう、来たか、収納の坊主!」
カウンターの前に立ったオレに、ゴルドさんはこちらをちらっと見て、いつもの憎まれ口を叩いてきた。
「だから坊主じゃなくてタクマですって! それに、収納の、ってなんですか、収納のって!」
言い返しながらも、オレは収納魔法を発動し、ゴブリンの耳が入った麻袋をカウンターの上に取り出す。
「へっ、違うのか? お前さんの取り柄はその便利な収納魔法だけだろうが。ありがたく思え」
「ぐっ……!」
まただ。このじいさん、絶対わざと言っているだろう。悪気がないのは分かっている。分かっているが、その言葉は的確すぎるほどにオレのコンプレックスを抉ってくる。「便利」。そう、便利なのだ、オレの魔法は。でも、それだけだ。戦闘じゃ、何の役にも立たない……。
(……いや、そんなことはないはずだ。使い方次第で、きっと……何か、できることがあるはずなんだ。オレだけの、この力で……)
「ふん、ゴブリンの耳か。まあ、無いよりマシだな。数も少ないし、状態も並。全部で銅貨……15枚ってところだな」
ゴルドさんの目利きは相変わらず確かだ。予想通りの安い値付けだが、これで今日の二人の昼飯代くらいにはなるか。
「ありがとうございます、ゴルドじい……さん」
「お前のその『じいさん』は、絶対にワシへの当てつけだろうが!」
背後からのゴルドさんの怒鳴り声を聞きながら、オレは受付カウンターの方へ向かった。カウンターの前にはエリスだけでなく、見慣れた男女二人の姿もあった。
オレが近付いてくるのに気付いたのだろう、エリスがぱっと顔を輝かせて、ぶんぶんと音がしそうな勢いで手を振ってきた。
「よう、タクマ! 遅かったなー。ゴルドじいさんにまた説教でも食らってたか?」
そんなエリスの様子には気付かず(あるいは気付いていてからかっているのか)、ラウルがニヤニヤしながら軽薄そうな笑みを浮かべて声をかけてきた。金髪碧眼の、まあ正直言ってイケメンの部類に入る男。オレたちと同じD級のハンター仲間だが、この見た目のせいで女にはモテるものの、本人は「軽薄に見られるのが悩み」らしい。……どこまで本気で言っているのかは怪しいがな。
「ちょっと、ラウル! 人の顔見ていきなり失礼なこと言わないの!」
すかさずラウルの脇腹を肘で小突いたのは、セリカ。彼女もD級ハンターで、燃えるような赤毛をポニーテールに結んでいるのがトレードマークだ。気の強そうな、しかし理知的な瞳をしたしっかり者で、ラウルとは対照的によく言えば堅実派、悪く言えば少し口やかましい。こいつも、なんだかんだで気の合う友人だ。
オレは思わず苦笑した。
「お前ら……は相変わらずだな。いや、ちょっと査定してもらってただけだ。エリス、ティアさん、お待たせしました」
ラウルとセリカ、この凸凹コンビも一緒にティアさんと何か話し込んでいたようだ。手を振ってくれたエリスに軽く頷き、カウンターに並んだ。
「タクマさん。お疲れ様です」
ティアさんが柔らかな笑顔で向き直る。こげ茶色の長い髪は、今日も清楚な黒いリボンで丁寧に結わえられている。ギルドの制服である紺のブレザーとタイトスカートは、彼女の知的な雰囲気を引き立てていた。そして、ぴこんと小さく動く尖ったキツネ耳と、挨拶に合わせて軽く揺れるふさふさの尻尾が、彼女が獣人であることを示している。
「ティアさんもお疲れ様です。何かあったんですか?」
「ええ。今、エリスさん、ラウルさん、セリカさんともお話していたのですが、実はタクマさんにもお伝えしたいことがありまして……」
ちょうどその時、ゴロゴロ……と、遠くで低い音が響いたような気がした。
(気の所為か……? まさか、この季節外れに雷なんて……)
ふとギルドホールの高い天窓を見上げると、さっきまでの晴れ間が嘘のように、いつの間にか厚い灰色の雲が空を覆い始めているのに気付いた。だがティアさんやラウルたちはその微かな音には気付かなかったようで、ティアさんは心配そうに眉を寄せ、少し声を潜めた。
「最近、ギルド内でちょっと物騒な噂が立っているんです。『紅い風』っていう、王都から流れてきた新しいクランのこと、耳にされたことは?」
「紅い風……? いえ、初めて聞きました」
オレが首を横に振ると、ティアさんはさらに声を低くした。
「リーダーはアーロンさんというB級ハンターで、腕は確からしいんですが……どうも、やり方がかなり強引というか、他のハンターとの間でトラブルが絶えないそうなんです。特に、有望そうな新人さんや……その、珍しい魔法を使うハンターに、半ば強引に勧誘を仕掛けているとか……」
ティアさんの視線が、明らかにオレに向けられている。
(珍しい魔法……やっぱりオレのことか……)
面倒事は避けたい。クランなんて、エリスの秘密もあるし、絶対に入れないだろう。B級ハンターに目をつけられるのは、正直言って厄介だ。
「タクマさんたちも、もし絡まれたりしたら、絶対に相手にしないでくださいね? すぐに私か、ギルドマスターに報告してください。いいですね?」
「は、はい。分かりました。気を付けます」
ティアさんの真剣な忠告に、オレは頷くしかなかった。その時、ギルドの外で、さっきよりも近い距離で、バリバリと空気を引き裂くような雷鳴が轟いた。空が急に暗くなり、天窓から差し込む光がほとんど消え失せる。そして、まるでバケツをひっくり返したような、激しい雨音がギルドホールに響き渡った。
――ザアァァァァ……! バシャバシャバシャッ!!
単調で、しかし力強い雨音が、耳の奥で不気味に反響する。途端に、あの日の記憶が、鮮明な悪夢となって蘇る。
――冷たく湿った石の壁。滴り落ちる水音。カビと、鉄錆と、そして……生臭い血の匂い。
『すまない、タクマ……。恨んでくれて構わない……』
苦渋に満ちた、しかしどこか感情の抜け落ちた声。信じていたはずの、優しかったはずの先輩たちの、背中。そして、無慈悲に突き飛ばされ、闇の中へと落下していく、あの瞬間。背後から迫る、巨大な牙を持つ何かの影と、鼓膜を引き裂くような絶望的な咆哮――。
「ッ……! はっ……ぁ……! ひっ……うぐ……!」
息が……できない。心臓が氷の爪で鷲掴みにされたかのように痛い。視界がノイズ混じりに激しくチカチカして、平衡感覚がぐらつく。立っていられない。床が、壁が、ぐにゃぐにゃ歪んで見える。
「タクマ!? しっかりして! タクマ!!」
エリスの悲鳴に近い声が、まるで水の中から聞こえるように遠い。肩を強く掴まれ、激しく揺さぶられる。温かい雫が、またオレの頬を濡らす。……まただ。また、エリスをこんな顔にさせて……。オレは、なんて……!
「だ、大丈夫か、タクマ!?」
ラウルの焦った声。
「しっかりしなさい! 呼吸を整えて!」
セリカの鋭いが、心配の滲む声。
「……はぁっ、はぁっ……! わ、悪い……エリス……。大丈、夫、だから……。心配、しないでくれ……」
必死で浅い呼吸を繰り返し、霞む視界の中で、泣きそうな顔でオレを覗き込むエリスに、震える声でなんとか言葉を絞り出す。彼女の温かい腕にしがみつき、全身の激しい震えを必死に抑え込もうとする。ティアさんも、ラウルもセリカも、心配そうにこちらを見守っている。その視線が、今はただ痛い。
(まずい……。みんなに、こんな無様なところを……。しっかりしろ、オレ! いつまで過去の記憶に縛られているんだ!)
震える足でなんとか立ち上がると、すかさずエリスがオレの体を支えてくれた。オレはエリスの肩を借りて、まるで逃げるようにギルドの出口へと向かった。
「おい、タクマ! 無理すんなよ!」
ラウルの声が後ろから飛んでくる。
「今日はもう帰りなさい。ちゃんと休むのよ」
セリカの声も。
「……ああ。悪い……」
今はただ、この場から立ち去りたかった。
降りしきる雨は、まるでオレの心の弱さを容赦なく暴き立てているかのようだ。ギルドにいた他のハンターたちから注がれる視線が、あの日の、オレを見捨てた奴らの冷たい視線と重なって見える。隣で必死にオレを支えてくれるエリスの温もりと、彼女の短い白銀の髪から漂う優しい香りだけが、かろうじてオレの心を繋ぎとめていた。