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第19話 眠れる母と、少女の決意

 オレたちが神話の絵に見入っていると、テラスの奥から、やわらかな足音と共に二人の人物が現れた。先代フラウリンド伯爵、ヴェルナー様と、その孫娘のローゼちゃんだ。


 ヴェルナー様は、湖畔でお会いした時の衰弱した様子が嘘のように、背筋をシャンと伸ばして、威厳に満ちた佇まいを見せていた。その深い瞳には、長い年月を生きてきた者だけが持つ知性と、穏やかながらも確かな力が宿っている。


 ローゼちゃんは、淡い薄紅色の、たくさんのフリルがあしらわれた可愛らしいドレスに身を包み、綺麗に結い上げられた金髪が陽光を浴びてキラキラと輝いている。まるで物語から抜け出してきたお姫様のようだ。


「ようこそおいでくださった、ハンター諸君。先日は誠に世話になった。改めて礼を言う」


 ヴェルナー様が、穏やかだが威厳のある声で、深く頭を下げられた。貴族、それも先代とはいえ伯爵様からこれほど丁重に扱われるなんて、経験のないオレたちは恐縮するしかない。


「こ、この度は、お招きいただきありがとうございます、ヴェルナー様」


 セリカが代表して、少し緊張しながらも完璧な淑女のお辞儀カーテシーで応える。ラウルも慌ててぎこちなく頭を下げている。オレとエリスも、見様見真似でなんとかそれに倣った。


 ローゼちゃんも、ヴェルナー様の隣で小さくお辞儀をする。その仕草は洗練されていて、育ちの良さを感じさせた。だが、オレと目が合うと、プイッと顔をそむけてしまう。……やっぱり、あのとき少々邪険にしてしまったこと、まだ許してもらえてないらしい。


 ヴェルナー様に促され、オレたちはテラスに用意された白いテーブルに着席した。ガラス越しに広がる庭園は、冬の終わりを感じさせながらも美しく手入れが行き届いている。


 すぐに、ナディアさんと、もう一人の金髪ショートのメイドさんが、銀のポットから香り高い紅茶を、見たこともないような美しい花柄のティーカップに注いでくれた。金髪ショートのメイドさんは、確か湖畔でローゼちゃんを押さえていてくれた人だ。


「わたくしはクララと申します。以後お見知りおきを」


 クララと名乗った金髪ショートのメイドさんは、そう言ってにこやかに微笑んだ後、なぜかオレに向かって、少し頬を染めながら続けた。


「あの時のタクマ様、トライデントを消し去った魔法、本当にすごかったです! とてもかっこよかったです!」


「え? あ、いや、その……ありがとうございます……」


 突然褒められて、オレは戸惑ってしまう。そんなオレを見て、隣に座るエリスが「ふーん、よかったねぇ……」とにやにやしながら、オレをからかうような視線を向けてくる。


(な、なんだよ、その目は……! オレは別に……)


 内心で冷や汗をかいていると、ナディアさんが「クララ、お客様に失礼ですよ」と、穏やかながらもピシャリと窘めた。クララさんは「大変失礼いたしました」と素直に頭を下げつつも、オレに向かって、オレにだけ見えるように、ぺろりと小さく舌を出した。ナディアさんの手前、殊勝な態度を取り繕いながらも、その表情には悪びれることはなく、むしろこの状況を楽しんでいるかのようだ。


 テーブルの上には、次々とお菓子が並べられていく。焼きたてのスコーンやマフィンからは甘く香ばしい匂いが立ち上り、艶やかなチョコレートケーキや、層になったミルクレープ、そして瑞々しいフルーツの盛り合わせが、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。庶民のオレには、目の前の光景が現実のものとは思えないほどだった。


「ささ、遠慮なさらず。まずは、ゆっくりとお茶を楽しんでいただきたい」


 ヴェルナー様の言葉に、オレたちは恐縮しながらも、勧められるままに紅茶やお菓子に手を伸ばした。オレもひとまず紅茶を一口含んだ、その時だった。


「そう言えば……」


 世間話の流れで、ナディアさんが口を開く。


「タクマ様とエリス様は既にご一緒にお住まいとか。幼馴染でいらっしゃるとは伺いましたが、それはそれは……ご結婚なども近々で?」


 まるで、そばで取り皿をサーブしていたクララさんにでも聞かせるかのようにそんなことを尋ねてきた。


「ぶっ!?」


 オレは飲んでいた紅茶を吹き出しそうになり、激しくむせた。


「け、けけ、結婚!?」


 オレは思わず動揺してしまったが、エリスのほうは一瞬きょとんとした顔でオレとナディアさんを見比べ、すぐに無邪気としか見えない笑顔で答えた。


「いえ、私たちは幼馴染でルームシェアしているんです」


 しかし、そう答えるエリスの頬は、ほんのりと赤く染まっているようにも見えた。ナディアさんはその様子から何かを察したのか、「……あらあら。それはそれは大変失礼を」と意味深な微笑みを浮かべていた。一体何を察したのか、非常に気になってしまう。


 その一連のやり取りを目の当たりにしてか、テーブルの向こうではラウルとセリカが顔を真っ赤にして俯き、慌ててティーカップに口をつけていた。……分かりやすすぎるだろう、お前らは。


 お茶会は、ヴェルナー様を中心に和やかに進んだ。ヴェルナー様は、ハンターの仕事について色々と興味深そうに質問し、オレたちは知っている範囲で答えた。例えば、最近アスターナ近郊に出没するようになったという少し変わったゴブリンの話や、雪山でのスノウボアの生態、迷宮探索の苦労話などなど。ラウルは相変わらず少し空回り気味に武勇伝(?)を語ろうとして、セリカが「ちょっと、ラウル! それは言い過ぎよ!」と呆れながらも絶妙なタイミングでフォローを入れている。


 ローゼちゃんは、エリスとセリカにはすっかり懐き、目を輝かせながら女性ハンターの活躍ぶりについて熱心に尋ねていた。


「エリス様もセリカ様も、本当に素敵ですわ! まるで物語に出てくる女騎士のようです!」


 その純粋な憧れの眼差しに、エリスもセリカも嬉しそうに、そして少し照れくさそうに微笑んでいる。


 ◇


 和やかな雰囲気は、しかし、ローゼちゃんの言葉をきっかけに一変した。


「でも、ハンターのお仕事は、本当に危険も伴いますのよね……」


 ローゼちゃんのその言葉を受けて、セリカが頷きながら、先日の実体験を口にした。そこにはきっと、貴族の子女に現実を教える意味も込めていたのだろう。


「ええ、そうね。油断すれば命を落とすこともあるわ。先日の湖畔の一件だって、実は私、死にかけて……」


「まあ!」


 ローゼちゃんとナディアさん、クララさんが同時に驚きの声を上げる。ヴェルナー様も心配そうに眉をひそめた。


 セリカは続ける。


「でも、エリスの《ヒール》はすごいの! 死にかけてた私を助けてくれたんだから!」


「《ヒール》を……。その話、詳しく聞かせていただけますか!?」


 ローゼちゃんが、身を乗り出すようにしてセリカに詰め寄った。その瞳には、先ほどまでの憧れとは違う、切実な光が宿っているように見えた。エリスの《ヒール》に、何か特別な希望を見出したかのようだった。セリカは「え? えっと……」と少し戸惑いつつも、湖でレイク・サハギンに引きずり込まれ、エリスの回復魔法ヒールで一命を取り留めた経緯を簡単に説明した。


 セリカの話を黙って聞いていたヴェルナー様が、重い表情で口を開いた。


「……エリス殿の《ヒール》がそれほど強力であるならば、一つ、頼みがあるのだが……」


 ヴェルナー様は、娘ソフィー――ローゼちゃんの母親であり、現伯爵夫人――について語り始めた。ソフィー夫人は、二年半もの間、原因不明の深い眠りについており、どんな高名な神官の回復魔法をもってしても、目覚めることがないのだという。テラスの空気が一変し、重苦しい沈黙が流れた。


 ヴェルナー様は、これが単なる病ではなく「呪い」である可能性が高いことを示唆した。


「《神水》というものをご存知かな? わしも実物は見たことはないのだが、全ての病も怪我も、そして強力な呪いさえも解く力があるという、まさに神から与えられし聖なる水だとか……」


 最後の望みとして《神水》を探しており、ハンダーギルドにかなりの報酬での依頼を出していることも語ってくれた。


(そうか。ギルドで二年以上貼られているあの《神水》の依頼元は、伯爵家だったのか……)


 伯爵家ならば、あの法外な報酬額も納得である。


 その時、ナディアさんが補足するように言った。


「最近、『紅い風』と名乗るクランも、その依頼について探りを入れてきたようでございますが……。高額な報酬ですから、注目も浴びましょう。どなたが見つけてくださっても、こちらとしてはありがたいのですが。しかし、依頼を出して二年以上経ちますが、いまだに有力な手がかりすら……」


 紅い風……アーロン……。その名が再び脳裏をよぎり、オレは微かに眉をひそめた。


 ローゼちゃんは、涙をぐっと堪え、小さな拳を握りしめ、強い意志を宿した瞳で宣言した。


「ですから、私、決めたのです! 私がハンターになって、私自身の手で、お母様のために、《神水》を見つけてみせますわ! どんなに危険な場所へだって行きます! そして必ず!」


 母を救いたい一心。その健気な言葉と、悲痛なまでの決意に、エリスは強く心を打たれていた。「ローゼちゃん……」と呟き、その瞳には深い同情の色が浮かんでいる。


 そのローゼちゃんが、今度はエリスの前に進み出て、その手を強く握った。


「エリス様、お願いがあります! 神官様でもダメだったと伺いました……でも、セリカ様を助けたというエリス様の《ヒール》ならもしや……! どうか一度だけでも、私の母にも試してみてはいただけませんでしょうか!? お願いいたします!」


 必死の懇願。藁にもすがる思いなのだろう。その小さな手は、強く、強くエリスの手を握りしめていた。


 エリスは明らかに戸惑っていた。呪いに《ヒール》が効くとは思えない。期待させて、結局ダメだった時のローゼちゃんの落胆を思うと、軽々しく引き受けることはできない。だが、目の前で涙を浮かべて懇願する少女の姿を見て、断ることなどできるはずもなかった。エリスは助けを求めるようにオレと視線を交わす。オレも、無言で頷くしかなかった。「やってみるしかない」と。


 ◇


 エリスはローゼちゃん、ヴェルナー様、ナディアさんと共にソフィー夫人が眠る部屋へと向かった。オレたちは、重い空気の流れるテラスで、ただ待つことしかできなかった。ラウルもセリカも、心配そうに、そして祈るように、部屋へと続く扉を見つめていた。


 ◇ (三人称視点) ◇


 案内された部屋は、広く、豪華な調度品で飾られていたが、どこか静かで、時が止まったような空気が漂っていた。部屋の奥、柔らかな光が差し込む窓際に置かれた天蓋付きの豪華なベッドには、一人の美しい女性が静かに横たわっていた。ソフィー・フラウリンド。ローゼの母であり、現伯爵夫人。艶やかな黒髪が枕に広がり、白い肌は陶器のように滑らかで、整った顔立ちは眠っているだけのように見える。だが、その表情には生気がなく、まるで精巧に作られた美しい人形のようだった。


 ローゼはベッドに駆け寄り、母の手をそっと握りしめた。「お母様……」と呼びかける声は小さく震え、大きな瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちる。その小さな肩が、悲しみに震えていた。


 エリスはその光景に胸を締め付けられながら、ベッドサイドに立った。これほどまでに深く、長く続く呪い。自分の力が通用するとは思えなかった。それでも、目の前で悲しみにくれる少女のために、できる限りのことをしてあげたい。


 エリスは深呼吸し、両手に意識を集中させる。彼女の中に眠る、膨大な力を最大限に引き出し、ソフィー夫人の上にそっと手をかざした。


「癒しの光よ、ここに! 《ヒール》!」


 眩いほどの温かな光がエリスの手から溢れ出し、ソフィー夫人を優しく包み込む。部屋全体が、まるで朝陽のような、神聖な光で満たされた。


「……すごい」


 ナディアが、思わず感嘆の声を漏らした。


「そうなの? すごいの? ナディアより?」


 ローゼが、涙を浮かべたまま、小さな声で尋ねる。


「私の《ヒール》など、エリス様の足元にも及びません。こんなに神々しいまでの《ヒール》を、私は見たことありません。感動すら覚えます」


 ナディアは感動で目に涙を浮かべながら、エリスの放つ光を見つめていた。


 ローゼは息を呑み、祈るように母を見つめる。ヴェルナーも固唾を飲んで見守る。


 しかし……光が収まっても、ソフィー夫人に変化はなかった。


 エリスは諦めなかった。もう一度、さらに力を込めて。さらにもう一度、心の底からの祈りを込めて、《ヒール》を繰り返す。だが、結果は同じ。ソフィー夫人の眠りは、エリスの全力の《ヒール》を以てしても破ることはできなかった。やはり、これは単なる病ではない。エリスの力を以てしても解けないほどの、強力で、悪意に満ちた呪いなのだ。


「エリス殿、もう十分です。ありがとう」


 ヴェルナーが、静かに、しかし重々しくエリスの肩に手を置いた。その声には、深い諦観と、エリスへの感謝が滲んでいた。


「そんな……やっぱり……ダメなの……?」


 ローゼはか細い声で呟くと、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。小さな背中が、絶望に打ち震えている。


 エリスは、ローゼの悲しみを目の当たりにし、自分の力が及ばなかったことへの無力感と、この健気な少女をどうしても助けたいという強い想いに駆られた。


(《神水》……それがあれば、きっと……)


 エリスは、強く、強く拳を握りしめた。


 ◇(三人称視点終了) ◇


 エリスが、重い足取りでテラスに戻ってきた。ヴェルナー様とナディアさんも付き添っている。ローゼちゃんは母親の部屋に残ったようで、その姿はなかった。エリスの表情は暗く、俯きがちだが、瞳の奥には以前とはどこか違う、固く、強い決意の光が宿っているように見えた。


 テラスで待っていたオレ、ラウル、セリカも、その様子から結果を察し、かける言葉が見つからなかった。重い沈黙が、その場を支配する。


 エリスは、オレの隣に力なく座り込んだ。すぐにはオレの顔を見ることができないようだった。ローゼちゃんの悲しみ、自分の無力さ、そして《神水》さえあれば、と。様々な想いが、彼女の中で激しく渦巻いているのが、隣にいるオレには痛いほど伝わってきた。


 結局、お茶会は重苦しい空気のままお開きとなった。帰り際、ヴェルナー様は改めてオレたち四人に礼を述べ、何か力になれることがあればいつでも言ってほしいと付け加えてくれた。


 再びフラウリンド家の馬車に乗り込み、自分たちの暮らす庶民街へと戻る。来た時とは打って変わって、車内は重い沈黙に包まれていた。エリスはずっと窓の外を眺め、黙り込んでいる。その横顔は、何か重大な決意を固めようとしているようにも、あるいは、その決意の重さに押しつぶされそうになっているようにも見えた。


 オレはエリスの様子を心配しつつも、声をかけることができなかった。彼女が何を考えているのか、そして、オレたちがこれからどうすべきなのか。答えの出ない問いが、重く心にのしかかる。


 馬車がアスターナの街の喧騒の中へと戻っていく。オレたちの日常は、再び、重く、そして抗い難い運命の渦へと引き寄せられようとしていた。



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