第17話 岩場の秘密特訓と、まさかの賭け
湖畔での騒動から数日が過ぎた。アスターナの街はいつもの活気にあふれ、凍てつくような冬の空気も、日増しに和らいできているように感じられる。けれど、オレの心の中は、まだどこか落ち着かなかった。
あのピクシー騒動の最中、偶然発見した収納魔法の新たな可能性――運動エネルギーを保持したまま物体を収納し、取り出す際にその方向を操作できる力。それは、今までただ「便利」なだけだと思っていたオレの唯一の魔法が、使い方次第では強力な武器になるかもしれない。その可能性を示唆していた。
(この力……もっとちゃんと理解して、制御できるようにならないと……)
エリスを守りたい。仲間たちの力になりたい。そして、もう二度と「お荷物」だなんて言われたくない。心に刻まれた悔しさが、未知の力への渇望へと変わり、オレを突き動かしていた。
問題は練習場所だ。ギルドの訓練場は、先日のピクシー騒動と、その前のラウルの円月輪暴走事件で、多額の修繕費を請求されたばかりだ。さすがに、また壁や的を壊すわけにはいかない。
誰にも迷惑をかけず、この手の練習ができる場所と言えば……。
「なあ、エリス。ちょっと付き合ってくれないか?」
「うん! もちろん! で? どこか行くの?」
オレたちは連れ立って、アスターナの街を出た。目指すは、街から半刻ほど歩いた先にある岩場だ。昔、まだ駆け出しのハンターだった頃、エリスと二人で薬草を探したり、スリングショットの練習をしたりした、少しだけ懐かしい場所だ。ごつごつとした岩が点在し、背の高い枯草が風に揺れるだけの、人気のない開けた土地だ。ここなら、多少派手にドンパチしたとしても、誰にも文句は言われないだろう。
◇
目的地に着くと、オレは早速、収納庫に意識を集中させた。取り出すのは、雪山で収納したスノウボアの氷矢。あの時、鋭い殺意と共にオレに向かって飛んできた、運動エネルギーを宿した氷の塊だ。
(まずは、これを狙った的に当てる練習だな)
少し離れたところにある、人の頭ほどの大きさの苔むした岩を的に定める。一度深呼吸し、意識を研ぎ澄ます。収納庫内の氷の矢を選択し、その内部に保存された運動エネルギーを感じながら、取り出す際の方向を、脳内で慎重に目標の岩へと向けるイメージを描く。
(いけっ!)
心の中での掛け声と共に、右手を前へ突き出す。シュンッ! という短い音を残し、氷の矢が手元から放たれる。だが、その軌道は狙いから大きく逸れ、的の手前の地面にザクリと突き刺さり、乾いた土煙が小さく舞い上がった。
「くっ! イメージ通りにいかねぇ!?」
いや、焦るな。落ち着け。もう一度だ! 今度はもっと慎重に……ベクトルを……こうか!?
シュンッ! ドゴンッ!
放たれた氷の矢は、今度は全く見当違いの方向へ飛び、近くの切り立った岩壁に激突した。けたましい音と共に、岩の破片がパラパラと飛び散った。
「うわっ!?」
思わず身をすくめる。
「タクマ、危ないよ! 大丈夫?」
少し離れた場所で見守ってくれていたエリスが、心配そうに声を上げる。彼女の大きな黒曜石のような瞳が、不安げに揺れていた。
「だ、大丈夫だって! ちゃんとコントロールしてる……つもりなんだけどなあ……」
オレは悪態をつきながら、何度も挑戦する。だけど、結果は同じ。芳しくない。氷の矢はまるで意思を持っているかのように、オレのイメージ通りには飛んでくれない。狙った場所とは全く違う場所に着弾するか、あるいは元々収納時に勢いが落ちていたらしく途中で失速してしまう。
(ダメだ……。全然、制御できないじゃないか……)
ベクトル操作。その可能性に気付いた時は興奮したけど、実際にやってみると想像以上に難しい。まるで、暴れ馬に無理やり乗ろうとしている気分だ。力の方向を定める、その繊細な手綱さばきが、今のオレには全くできていない。
「あー、もう弾切れか……」
ついに、収納庫にストックしてあったスノウボアの氷矢を使い果たしてしまった。練習の成果はというと、ほぼゼロに等しい。オレはがっくりと肩を落とし、その場にへたり込んだ。
「もう、タクマったら。そんなに落ち込まないの!」
ずっとオレの練習を見守ってくれていたエリスが、いつの間にか隣に来てポンとオレの背中を叩いて励ましてくれる。
「私が新しいの、作ってあげるから!」
そう言うと、エリスは両手を前にかざし、冷気を集中させる。みるみるうちに、彼女の手のひらの上に、白く鋭い氷の矢が次々と生成されていく。
「はい、これで練習し放題だよ!」
エリスは得意げに胸を張り、生成した氷の矢をオレの足元近くの地面に、そっと置いていく。
「サンキュー、エリス。助かるよ」
オレは感謝しつつも、エリスが作った氷の矢を手に取り、まじまじと眺めた。
「……なあ、エリス。これ、なんだかちょっと歪んでないか? ちゃんと真っ直ぐ飛ぶのかな?」
「むぅ! 失礼な! ちゃんと愛情込めて作ったんだから、大丈夫だもん!」
エリスがぷくーっと頬を膨らませて抗議する。その仕草が可愛くて、オレは思わず笑ってしまった。
「はは、悪い悪い。よし、じゃあ、これで……」
オレは気を取り直し、エリスが作ってくれた氷の矢を収納しようとした。だけど、それは『静止した』氷の矢だ。ベクトル操作の練習には、動いている状態のものを収納する必要がある。
「……なあ、エリス。悪いんだけど、もう一つ頼みがあるんだ」
「ん? なあに?」
「練習のために、オレに向かって氷の矢を撃ってくれないか? それを収納する練習と、ベクトル操作して撃ち出す練習に使いたいんだ」
オレの言葉に、エリスは一瞬、目を丸くした。
「えっ!? わ、私が、タクマに向かって!? だ、ダメだよ! そんなの危ないよ!」
「大丈夫だって! スノウボアの時だって、ちゃんと収納できたんだ。それに、エリスなら、オレに当たらないように撃てるだろう?」
オレは真剣な目でエリスを見つめる。この練習は、自分の身を守る防御の練習にもなる。どうしても必要なんだ。
エリスはしばらく逡巡していたが、やがて意を決したように、こくりと頷いた。
「……分かった。でも、絶対に無理しないでね? 危ないと思ったら、すぐにやめるんだからね!」
「ああ、わかった。約束する」
エリスは深呼吸すると、オレから少し距離を取り、氷の矢を構えた。その表情は真剣そのものだ。
「いくよ、タクマ!」
「来い!」
ヒュンッ!
鋭い風切り音と共に、氷の矢がオレに向かって放たれる。速度はスノウボアが撃ってきたものとほぼ同じくらい。雪山の洞窟脱出の時に見たものと同じ魔法だろう。そして、狙いは寸分違わず、オレの体のほんの少し右側を掠める軌道。さすがエリスだ。
「よしっ!」
オレはタイミングを合わせ、飛んでくる氷の矢に右手を伸ばし、接触! シュンッ! 氷矢が収納庫へと吸い込まれる。
「もう一回!」
「うん!」
エリスが次々と氷の矢を放ち、オレはそれを的確に受け止め、収納していく。繰り返すうちに、最初はぎこちなかった動きが、徐々にスムーズになっていくのを感じた。飛んでくる矢の速度、タイミング、そして接触する瞬間の感覚。体が、この新しい動きを覚え始めている。接触収納の練度は、確実に上がっていた。
(よし、だいぶ慣れてきたな。これなら……)
収納庫に運動エネルギーを持つ氷の矢のストックがある程度溜まってきたのを確認する。
(そうだ、これ、受け止めてすぐに撃ち出すことができれば、エリスとの連携技になるんじゃないか? 少しトリッキーなフェイント攻撃にもなるかもしれないな)
オレは新たな戦術を思いつき、エリスに合図を送った。
「エリス、今度は受け止めたらすぐに撃ち返してみる!」
「え? うん。分かった!」
再びエリスが氷の矢を放つ! オレはそれを右手で接触して収納し、間髪入れず左手からベクトル操作して前方の的に向かって撃ち出す。
シュンッ! ドスッ!
……やはり的からは大きく外れ、地面に突き刺さる。だけど、受け止めて、撃ち出す、という一連の流れはできた。
「エリス、疲れてないか? 大丈夫か?」
「全然平気! ブーストに比べれば全然! 丸一日だって続けられちゃうよ! タクマは? 大丈夫なの? 湖の水はかなり大変だったみたいだけど」
「あれに比べれば余裕だな。多少の疲労感はあるけど、街を歩くのとたいして変わらないよ」
エリスの「丸一日続けられる」はさすがに冗談だろうが、練習に付き合ってもらえるのは本当にありがたい。彼女の厚意に甘えさせてもらい、オレは反復練習を続けた。
受けて収納する動作は、もうほとんど無意識に近いレベルでできるようになった。問題は、やはり撃ち出す際のベクトル操作だ。こればかりは一朝一夕にはいかないらしい。
「うん! すごいよ、タクマ! どんどん上手くなってる!」
エリスも嬉しそうに手を叩く。その笑顔に励まされ、オレはさらに調子に乗ってしまったのかもしれない。
「よし! エリス、もっと速いやつ、頼めるか? もっと速い攻撃にも対応できるようになりたいんだ! 自分の限界を知りたいんだ!」
オレの言葉に、エリスの笑顔が一瞬、凍りついた。
「えっ!? も、もっと速いの……? で、でも、それは本当に危ないよ……?」
「大丈夫だって! エリスのコントロールなら、絶対にオレには当たらないって信じてるからさ!」
オレは自信満々に胸を張った。
……後から振り返ってみると、このときのオレは少し調子に乗り過ぎていたんだと思う。
エリスはしばらく迷っていたが、オレの真剣な眼差しに負けたのか、あるいはオレの言葉を信じてくれたのか、やがて覚悟を決めたように、深く頷いた。
「……分かった。でも、本当に、ほんの少しだけだよ? もし危ないと思ったら、すぐにやめるからね?」
「ああ!」
エリスはさらにオレから大きく距離を取り、氷の矢を構える。さっきまでとは明らかに違う、ピリピリとした緊張感が漂う。彼女の瞳に、強い集中の光が宿る。
「いくよっ!」
「来い!」
ヒュゴォォォッッ!!
放たれた氷の矢は、今までのものとは比較にならないほどの速度で、鋭すぎる風切り音と共にオレに迫った。
――それは、もはや矢というより、光の筋。
(なっ!? は、速すぎ――!)
予想を、いや、想像を遥かに超える速度。視認したと思った瞬間には、もう目の前だ。手を伸ばして接触しようなんて思考は、一瞬にして恐怖に塗り潰された。体が勝手に動く。咄嗟に、両腕を顔の前で交差させる、最も原始的な防御姿勢を取っていた。
(やばっ! 避けきれな――!)
まさにその瞬間。恐怖心からか、あるいはただ生き残りたいという本能的な叫びだったのか。オレは防御姿勢のまま、眼前に迫る超高速の氷の矢を、網膜に焼き付けるように見据えながら、無意識に叫んでいた。
「――収納ッ!!」
シュンッ……
……え?
覚悟していた衝撃は、永遠に来なかった。顔の前で固く交差させた腕の隙間から、オレは目の前で氷の矢がフッと消えるのを確かに視認した。あの超高速の氷の矢は、跡形もなく消え去っていた。そして、オレの収納庫には、確かに今、氷の矢が入った感覚がある。
「今……触ってなかった……よな……?」
オレは呆然と、自分の両手を見つめた。顔を守っていたこの手は、氷の矢には全く触れていないはずだ。
「タクマ、今の……?」
エリスも、何が起こったのか理解できないという顔でこちらを見ている。
その時ふと、脳裏に湖畔での記憶が鮮明に蘇った。あの莫大な量の湖の水を収納した時……そうだ、最後のほうは、もう水面に手は届いていなかったはずだ。それでも、水は吸い込まれるように収納庫へと収納されていった……。
(まさか……。直接、触らなくても……収納できるのか!?)
心臓が、早鐘のように打ち始める。もし、それが本当なら……。
逸る気持ちを抑え、オレは試しに、少し離れた場所にある、手頃な大きさの岩に意識を集中した。(収納!)と脳内で強く念じる。
ゴッ!
確かな手応え。岩が丸ごと、空間から切り取られるように消え、オレの収納庫へと吸い込まれた感覚。視線を向けると、そこには岩があったはずの窪みだけが残っている。
「う、嘘だろう……」
(やっぱり、触らずに収納……できた)
全身の血が沸騰するような、凄まじい興奮がオレを襲う。震える手で、さらに試してみる。足元に転がっていた、親指ほどの大きさの小石。それを非接触で収納し、今度は自分の手元ではなく、数メートル離れた地面の上に出現するように念じてみる。
ポトリ。
空中から、まるで手品のように小石が現れ、乾いた音を立てて地面に落ちた。
「……マジか。取り出すのも、手元じゃなくてもいいのか……」
思わず、乾いた笑い声が漏れた。信じられない。考えもしなかった。オレの収納魔法に、こんな途方もない可能性が眠っていたなんて。
だが、なぜ今まで気付かなかった? これほど便利な力なら、もっと早く気付いてもおかしくないはずだ。
……それとも、何かがきっかけになって、最近になって能力が進化した? だとしたら、そのきっかけは? スノウボアの時の、運動エネルギーを持つ物体の収納? それともサイクロプスを収納した時の、規格外の質量への挑戦? ……そういえば、あのサイクロプスの亡骸の収納は、最初は強い抵抗があったのに、途中から急に抵抗感が消えて軽くなったっけ。もしかして、あの時か……?
いや! そんな過去の詮索なんてどうでもいい! 今はこの事実だ! 直接触らずに、離れた場所の物を収納して取り出せる!
このとんでもない力が手に入ったという事実が、全身を駆け巡る興奮で満たしていた。
応用範囲は無限大だ! これまで想像していたよりも、遥かに、遥かに多くのことができるはずだ! 全身の血が沸騰しそうなくらいの期待で胸が張り裂けそうだ。
「すげぇ、すげぇ、すげえ! これならもっと効率よく収納できるじゃないか! 一度にたくさんとかもいけるのか!?」
オレが子供のように拳を握りしめ、興奮のあまり叫んでいると、エリスも目をキラキラさせて駆け寄ってきた。状況はまだ完全に理解できていないだろうが、オレが新しい力を手に入れたことは分かったらしい。
「タクマ、すごい! 今の、新しい力だよね! やったね!」
彼女は自分のことのように喜び、オレの手を取ってぶんぶんと振った。
二人で手を取り合って、しばし子供のようにはしゃいで喜びを分かち合った。
少し落ち着いてから、早速、非接触での収納・取り出しの能力を試してみる。どのくらいの距離まで可能なのか? 壁のような障害物の向こう側は? 見えていない物でも対象にできるのか? 一度に収納できる数や質量に限界は? 試したいこと、確かめたいことが、次から次へと、とめどなく湧き上がってくる。
(これは……とんでもない力かもしれないな……!)
興奮が全身を駆け巡る。だが同時に、頭の片隅では冷静な自分もいた。非接触で出し入れできるようになったとしても、肝心のベクトル操作が未熟なままでは、結局、宝の持ち腐れだ。下手をすれば、以前よりもっと危険な暴発を引き起こす可能性すらある。
(やっぱり、練習あるのみだよな……。この新しい力と、ベクトル操作。どっちも完璧に使いこなせるようになるまで……)
見えた光明と、その先に続く長い道のり。オレは新たな目標を胸に刻み、ぐっと拳を握りしめた。
◇
日が傾き始め、岩場の特訓を終えたオレたちは、アスターナへの帰り道を歩いていた。心地よい疲労感と、新たな発見への興奮が入り混じった、不思議な感覚だった。
「それにしても、非接触収納か……。驚いたな」
「うん! タクマ、どんどんすごくなるね!」
エリスが嬉しそうにオレの腕に自分の腕を絡めてくる。その温もりと信頼が、オレの決意をさらに強くする。
ふと、湖畔での出来事を思い出した。
「なあ、エリス。ラウルとセリカ、あの後どうなったんだろうな?」
オレが疑問を口にすると、エリスは待ってましたとばかりに、ふふん、と得意げな笑みを浮かべた。
「私はもう、時間の問題だと思うけどな!」
「いやいや、あの二人に限ってそれはないだろう! いつもケンカばっかりしてるじゃないか」
「それがいいんじゃない! ケンカするほど仲がいいって言うし!」
「そんなことわざ、聞いたことないぞ」
「じゃあ、賭ける?」
エリスが悪戯っぽく、キラキラした瞳でオレを見上げてくる。その展開は、どこかで経験したことがあるような気がした。
「望むところだ! 絶対にありえないって!」
「ふふふ、じゃあ決まりね! 負けた方は、勝った方の言うことを、なーんでも一つ聞くこと!」
「な、何でも!?」
「そう! な、ん、で、も♪」
エリスは意味深な笑みを浮かべ、楽しそうにオレをチラ見する。その視線に、オレは顔が熱くなるのを感じた。
(な、何する気だ……!?)
賭けの内容よりも、エリスが何を要求してくるのかの方が気になって仕方がない。
「あーあ、楽しみだなあ。タクマに何してもらおっかなあ♪」
エリスは鼻歌交じりに、オレの腕にさらに強く絡みついてくる。その無邪気な(ように見える)姿に、オレはただ赤面するしかなかった。
夕暮れの空の下、二つの影が寄り添いながらアスターナへと続く道を歩いていく。新たな力の予感と、甘酸っぱい賭けの行方。オレたちの日常は、また少し、色を変えて動き始めていた。