第16話 二人きりの氷上で
「セリカ……! よかった……本当によかった……!」
ラウルはセリカを強く抱きしめ、嗚咽を漏らす。その肩は小刻みに震えていて、安堵と、おそらくはセリカを失うかもしれなかった恐怖から解放されたことで、感情が堰を切ったように溢れ出しているのだろう。
セリカの方も、まだ少しぼんやりとしてはいるが、ラウルの腕の中で弱々しくもその背中に手を回し、ぽんぽんと優しく叩いている。まるで、泣いている子供をあやすかのようだ。
エリスの回復魔法のおかげで、セリカの命は繋ぎ止められた。冷え切っていた体にも温かさが戻り、顔色もだいぶ良くなってきた。意識もはっきりしているようだ。本当に、間一髪だった。
オレは、湖の水を全て収納するという無茶な荒業で魔力も体力もほとんど使い果たしてしまって、氷壁に寄りかかったまま、その光景を少し離れた場所から見守っていた。正直、今すぐ駆け寄って二人を労いたい気持ちでいっぱいだが、体が鉛のように重くて思うように動かない。
(……間に合って、本当によかった)
心の底から安堵の息を吐く。もし間に合わなかったら……ラウルはきっと、自分を責め続けていただろう。オレだって、後悔してもしきれなかったはずだ。
やがて、少し落ち着きを取り戻したラウルが、名残惜しそうに、しかし優しくセリカの体を離した。
「セリカ。今日はもう帰ろう。無理は禁物だ。俺が家まで送る」
ラウルが、いつになく真剣な表情でセリカに告げる。その声には、有無を言わせぬ強い意志が籠っていた。
「で、でも釣りは……。みんな楽しみにしてたのに……。私のせいで……」
セリカが申し訳なさそうに俯く。確かに、ワカサギ釣りは今日の主目的だった。リオネルさんへの土産もかかっている。だが、今のセリカの状態を見れば、ラウルの判断は当然だった。
「バーカ」
ラウルがセリカの言葉を遮る。
「誰も、迷惑なんて思うわけねーだろ! それより、おぶってやるから早く乗れ!」
ぶっきらぼうな口調だが、その裏にある深い気遣いが透けて見える。ラウルはセリカの前にしゃがみ込み、背中を向けた。
「えっ!? いや、でも……重いし……それに、歩けるわよ、たぶん……」
セリカが顔を真っ赤にして戸惑っている。確かにおぶわれて街まで帰るのは、年頃の娘としてはかなり恥ずかしいだろう。でも、今回ばかりは仕方ない。頭からコートでもかぶって、我慢してもらうしかない。
「ラウル、一人で大丈夫か? オレも一緒に行った方が……」
オレはセリカの体調も、そしてラウルの負担も心配になり、ふらつく体で立ち上がりながら声をかけた。ここからアスターナまでは三時間近くかかる道のりだ。いくらラウルでも、セリカをおぶって歩き通すのはキツいはずだ。交代で……。
だが、オレがそう言いかけた瞬間、隣にいたエリスにそっと袖を引かれた。見ると、エリスは悪戯っぽく片目を瞑り、「今は二人にしてあげるのが一番だよ」とでも言うように、小さく首を横に振っている。
(ああ、そういうことか……)
オレは、ようやくエリスの意図を理解し、口をつぐんだ。確かに今の二人には、二人だけの時間が必要なのかもしれない。
「ラウル、任せて大丈夫だよね? ちゃんとセリカを送ってあげてね?」
「おう! 任せとけ! お前たちは俺たちの分も釣って帰ってこいよ! リオネル爺さんへの土産も頼むぜ!」
ラウルは力強く頷くと、セリカに「いいから乗れって! 落ちないようにしっかり掴まってろよ!」と再度促した。
「う、うん……」
セリカは、まだ恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、意を決したようにおずおずとラウルの背中に身を預けた。その表情には、戸惑いだけでなく、どこか嬉しそうな色が浮かんでいるように見えた。
ラウルはセリカをしっかりと背負うと、一度だけオレたちを振り返り、軽く手を挙げた。そして、エリスが一時的に解除した氷壁の出口から、確かな足取りで帰路についた。
二人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、氷の湖底には、オレとエリスだけが残された。
◇
ラウルとセリカを見送った後、凍てついた湖底には静寂が戻ってきた。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
「さて、と……。このままじゃ魚たちが可哀想だしな」
オレはまだ重い体に鞭打ち、収納庫に意識を集中させた。湖の水を元に戻さないと、空気中に晒された魚たちが死んでしまう。それに、この異常な光景を誰かに見られるわけにもいかない。
収納庫から莫大な量の水を湖へと戻していく。ゴボゴボという音と共に水が湖底を覆い始め、崩落していた氷の塊が水面に浮き沈みする。全収納した時ほどの負荷はないが、それでも消耗した体には堪える作業だ。
「無理しないでね、タクマ」
エリスが心配そうにオレの背中を支えてくれる。その温もりがありがたい。
水が元の水位まで戻ると、湖面は大小様々な氷の塊が浮かぶ、不安定な状態になっていた。
「よし、あとは任せて!」
エリスがパンッと両手を合わせると、氷の魔法を発動させる。彼女の手から放たれた冷気が湖面を撫でるように広がり、バラバラだった氷の塊を繋ぎ合わせ、瞬く間に滑らかで頑丈な一枚の氷原へと変えていく。
「ふぅ、これでよし、と」
エリスが満足げに頷き、指をパチンと鳴らす。それを合図に全氷壁が解除された。これで湖は、見た目だけは元通りになった。
「サンキュー、エリス。助かった」
「どういたしまして! さ、気を取り直して、ワカサギ釣りしよ!」
エリスは、まるでさっきまでの騒動などなかったかのように、明るい笑顔を向けた。
◇
オレたちは湖の中央付近に、改めて釣り用のテントを設置した。
オレが収納庫からテントや椅子、座布団などを取り出し、エリスが手際よく湖面の氷に釣り用の穴を開ける。二人で協力してテントを設営し、風で飛ばされないようにペグで固定する。
「ふぅ……やっと落ち着いたな」
テントの中に椅子を並べて腰を下ろし、オレはようやく一息ついた。魔力も体力もだいぶ消耗したが、少し休めば釣りをするくらいは問題ないだろう。
「うん! これで心置きなくワカサギ釣りできるね!」
エリスも嬉しそうだ。彼女はオレの隣に座り、さっそく釣り糸を準備し始めている。
「ああ、そうだな。リオネルさんへの土産、釣れるといいんだが」
オレもエリスの隣で、釣り糸を垂らす準備を始める。テントは4人が入れる大きさのはずなんだが、なぜか自然と肩が触れ合う距離になる。エリスの体温と、甘い香りがすぐそばに感じられて、妙にドキドキしてしまう。
「大丈夫だよ! きっといっぱい釣れるって!」
エリスは根拠のない自信に満ち溢れた笑顔で、氷の穴に釣り糸を垂らした。オレもそれに倣い、静かにアタリを待つことにした。
◇
テントの中は、街の喧騒とは別世界の静けさだった。時折、氷がきしむ音や、遠くで鳥が鳴く声が聞こえるくらいだ。冬の柔らかな日差しがテントの布地を通して、室内をぼんやりと照らしている。
だが……。
「……釣れんなぁ」
釣り糸を垂らしてから一時間ほど経っただろうか。オレの竿には、ピクリとも反応がない。隣のエリスも同様のようで、退屈そうに氷の穴を覗き込んでいる。
「おかしいなぁ。ラウルからは入れ食いだって聞いてたんだけどな……」
もしかして餌が悪いのか? ラウルが「ワカサギ釣りならコレだ!」って、自信満々に言っていた活きのいい赤虫だぞ?
「ふふっ。まあ、さっきの騒ぎでお魚さんたちも警戒しちゃってるのかもねぇ」
確かに。湖の水を全部抜かれたんだ。魚だってパニックになっているだろう。だとしたら、しばらくは釣れないかもしれない。
「うーん、暇だねぇ……。あ、そうだ!」
エリスが何かを思いついたように顔を上げた。
「タクマ、足、冷たくない? ずっと氷の上に座ってるんだし」
「まあ、少しはな」
厚手の靴下とブーツを履いているとはいえ、さすがに足元からじんわりと冷気が伝わってくる。
「じゃあ、足湯しよ! お湯なら私が魔法で作れるし!」
エリスはそう言うと、オレに収納庫から底の浅い大きな桶を出させ、そこに手際よく綺麗な雪を詰め込み始めた。そして、火の魔法で雪を溶かし、あっという間に温かいお湯を作り出した。
「はい、どうぞ!」
「おお、サンキュー!」
オレはブーツと靴下を脱ぎ、恐る恐るお湯に足を入れる。
「はあぁ……生き返る……」
じわーっと温かさが足先から伝わり、冷え切っていた体が芯から解凍されていくようだ。まさに天国。至福のひととき!
「でしょ? 私も入ろっと」
エリスもブーツと靴下を脱ぎ、オレの隣に座って同じ桶に足を入れた。雪のように白い、きめ細やかな肌をした彼女の足が、すぐ隣にある。
ちゃぷん、とお湯が揺れ、オレの左足の小指と、エリスの右足の小指が、桶の中でそっと触れ合った。
「……っ!」
思わず体がびくりと跳ねる。慌てて足を引っ込めようとしたが、エリスは意に介さない様子で、気持ちよさそうに目を閉じている。その無防備な姿に、オレの心臓がまたうるさく鳴り始めた。
(い、意識しすぎだ、オレ……! ただ足が触れただけじゃないか……!)
必死に平静を装おうとするが、顔が熱くなっていくのが自分でも分かる。少しでも心を落ち着かせようと、オレも目を閉じ、そっと息を深く吸い、そしてゆっくりと吐いた。
何度か静かに深呼吸を繰り返して、気持ちも落ち着いてきた。
そして感じる、この穏やかな時間の心地良さ。
(……なんか、いいよな、こういうの)
周りに誰もいない静かな氷上で、二人だけでのんびりと釣りをしながら、二人で一つの桶に足を入れて暖まる。そんな、ほんのささいなことなのに、とても他愛のない事なのに、なんかエリスと二人ですごく貴重で特別な事をしているような感じがして嬉しくなってしまう。
「……ふふっ」
不意に、エリスが小さく笑った。目を開けた彼女は、楽しそうにオレを見上げている。
「こういうの、なんかちょっといいなって思っただけ」
さっきオレが内心で思ったことと同じようなセリフ。その偶然に、さらにドキドキしてしまう。
「そ、そうか……?」
しどろもどろに答えるオレ。せっかく落ち着いてきたと思ったのに、また顔が熱くなる。まずい、完全にエリスのペースだ、これ。
ぐぅぅぅ~~~……。
その時、静かなテントの中に、間の抜けた音が響き渡った。音の発生源は、言うまでもなくオレの腹だ。
「……あ」
「あはは! タクマ、お腹空いたの?」
エリスが楽しそうに笑う。くそっ、最悪のタイミングで腹の虫が鳴きやがって……!
「そういえば、いろいろあってお弁当食べてなかったよね。せっかく作ったんだし、今から食べようか」
「……ああ、そうだな」
恥ずかしさを誤魔化すように、オレは収納庫から例の二段重を取り出した。エリスは嬉しそうにそれを受け取ると、自分の膝の上に置き、蓋を開けた。
途端に、朝と同じ、甘辛くて香ばしい匂いがテントの中に充満する。
「うわっ、やっぱりいい匂いだ……。で、これは一体……?」
重箱の上段には、茶色い、俵のような形をしたものがぎっしりと詰められていた。見たことのない料理だ。
「『いなり寿司』っていうんだって。これもヤマト料理だよ。油揚げを甘辛く煮て、中に酢飯を詰めてるの」
「へえー、いなり寿司か。美味そうだな。んじゃ早速……」
オレが手を伸ばそうとすると、エリスが「あっ、ちょっと待って!」と制止した。
「ダメだよタクマ。ちゃんと手を拭いてから。はい」
エリスはそう言って、重箱の上に置かれていた濡れタオルを一枚、オレに手渡した。
「釣りの餌、赤虫……だっけ? 触った手でしょ? ちゃんと綺麗に拭かないと、お腹壊しちゃうよ」
「……あ、そうだったな」
危ない危ない。すっかり忘れていた。オレはタオルで指先を丁寧に拭き始める。その間に、手を拭き終えたエリスが、いなり寿司を一つ、白く綺麗な指でそっと摘まんだ。そして……。
「はい。あーん?」
満面の笑みで、そのいなり寿司を、オレの口元へと運んできた。
――っ!?!?
オレの思考が完全に停止した。な、ななな、なに!? あーんって!?
「じ、自分で食べられるって!」
「だーめ」
エリスはぷくっと頬を膨らませる。
「一度してみたかったんだ、コレ。今は他に誰もいないし、いいでしょ?」
うるうるとした上目遣い。それは反則だろ……。
「もし嫌だなんて言ったら、お弁当あげないんだから」
ぐっ……! それは困る。この匂いを嗅いでしまった今、おあずけなんて耐えられない。
エリスは、オレの葛藤を見透かしたように、さらにいなり寿司を近付けてくる。甘辛い匂いが鼻腔をくすぐり、オレの理性を揺さぶる。
(ええい、ままよ!)
オレは意を決して、ほんの少しだけ口を開けた。そこへ、エリスがいなり寿司をそっと差し入れてくる。
口の中に、じゅわっと甘辛い煮汁の味が広がる。油揚げの香ばしさと、ほんのり酸味のある酢飯、そして中に混ぜ込まれた胡麻の風味が絶妙なハーモニーを奏でる。
(う、美味い! 何だこれ、めちゃくちゃ美味いじゃん!)
夢中で咀嚼する。一口では食べきれない大きさだ。
「……どう? 美味しい?」
エリスが、期待に満ちた瞳でオレを見上げてくる。その手には、まだオレが食べかけのいなり寿司が……。
(……仕方ない。これも、エリスの好意だ。無下にはできん)
オレは意を決して、再び口を開けた。
「ん!」
目を閉じて、続きを待つ。
「ふふふ。はい。あーーーん」
エリスの楽しそうな声。そして、再び口の中に広がる至福の味。
むにゅ……。
ん? なんだ今の感触?
恐る恐る目を開けると、オレの唇に、エリスの指先が触れていた。
「もう。ダメだよ。私の指まで食べちゃ」
エリスがくすくすと笑う。
――っ!!!!
オレは顔から火が出るかと思うほど赤面し、反射的に身を引いた。
(は、恥ずかしすぎる……!!)
エリスを直視できず、そっぽを向きながら、口の中のいなり寿司を必死に飲み込んだ。美味いはずなのに、味がよく分からない……。
「私も食べよっと」
エリスは、オレの動揺など気にも留めず、さっきオレの口に入れたのと同じ指で、新しいいなり寿司を摘まんで自分の口に運んだ。
(……間接……キス……!?)
オレの思考が再び停止しかける。
「ん? もう一ついる?」
エリスが小首を傾げる。
「あ、いや! そ、それより、下の段には何が入ってるんだ!?」
慌てて話題を変える。エリスは「ああ、こっち?」と、下の段の蓋を開けた。そこには、彩り豊かなおかずがぎっしりと詰められていた。卵焼き、ソーセージ、鶏の唐揚げ、ブロッコリー、ミニトマト……。
「うわ、こっちも美味そうだ……」
「じゃあ、はい、これ」
エリスはフォークを一本取り出し、オレに手渡した。
「これでいなり寿司は食べちゃダメだよ? 崩れちゃうから。おかず専用ね」
そして、エリスは上段の重箱を左手で持ち、下段の重箱を右手でオレに渡してきた。オレはそれを受け取り、自分の膝の上に置く。
「じゃあ私、卵焼きがいいな」
エリスが、期待を込めた瞳でオレを見上げてくる。
(……やっぱり、そうなるよな)
もう、こうなったらヤケだ。とことん付き合ってやる。
オレは少し顔がにやけるのを自覚しながら、フォークで綺麗な黄色の卵焼きを一つ刺し、エリスの口元へと運んだ。
「ほら、エリス。あーん?」
「あーーーんっ!」
エリスは嬉しそうに、ぱくりと卵焼きを頬張った。その頬が、ほんのりと赤く染まっているように見えたのは、気の所為だろうか?
「んー! 美味しい! 我ながら上手くできたと思うんだ、この卵焼き。でも、それ以上に、さ……」
エリスはもぐもぐと卵焼きを味わいながら、言葉を続ける。
「……タクマに食べさせてもらえると、美味しさが倍増するね!」
そう言って、彼女は花が咲くような、とびっきりの笑顔を見せた。
――っ!!
その破壊力は、どんなモンスターの攻撃よりも強烈だった。オレは完全にノックアウトされ、顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
(だ、ダメだ……。可愛すぎる……)
「うふふふ……。はい、じゃあお返し!」
エリスが、さらに追い打ちをかけるように、いなり寿司を差し出してくる。
(頼むから……。オレの理性が保っているうちに、勘弁してくれ……)
二人きりのテントの中は、甘くて、くすぐったくて、そして心臓に悪い空気に満ちていた。
◇
結局、その日、ワカサギは一匹も釣れなかった。
夕暮れ時、オレたちはテントを片付け、アスターナへの帰路についた。リオネルさんへの土産は手ぶらになってしまったが、まあ、仕方ない。
「結局、一匹も釣れなかったな……リオネルさんには何て言おうか」
オレが苦笑しながら言うと、隣を歩くエリスが、オレの手をぎゅっと握ってきた。
「うーん、釣れなかったのは残念だったけど、でも、私はすっごく楽しかったよ!」
その温かい感触と、太陽のような笑顔に、オレの心もじんわりと温かくなる。
「……まあ、オレも……悪くはなかったかな」
照れ隠しにそっぽを向きながら答える。繋がれた手が、なんだかとても心地よかった。
今日の出来事を振り返る。激しい戦闘、収納魔法の力の片鱗、ラウルとセリカの急接近、そして、二人きりの甘い時間……。色々なことがあった一日だった。
(ラウルとセリカ、どうなるかな)
(オレの魔法、また少し分かった気がする。もっと練習しないと)
(もっと強くならなきゃな。エリスを守れるように)
様々なことを考えながら、二人並んで歩く。遠くにアスターナの街の灯りが見え始めた。それは、オレたちの日常が待っている場所。
穏やかな、しかし確かな絆を感じながら、オレたちは家路を急いだ。次なる冒険への静かな予感を胸に秘めて。