第15話 湖底に響く声
「うぉおおおおお! セリカーーー!!」
ラウルの、魂を絞り出すような絶叫が、静かになった湖畔に木霊する。
セリカの姿が、暗く冷たい湖水の中へと消えた。レイク・サハギンに引きずり込まれるようにして。オレが放ったスリングショットの弾は、無情にも奴らを止めることはできなかった。
目の前で起きた惨劇に、息を呑む。だが、呆然としている暇はない。セリカは水の中に引きずり込まれたんだ。人間が水中でどれだけ無呼吸でいられる? 一般的には数分が限界のはずだ。一刻の猶予もない!
「ラウル!」
オレが叫ぶより早く、ラウルはセリカが消えた水面を、怒りと絶望に染まった瞳で睨みつけ、自分の周囲に残っていたレイク・リザードを、憎しみを叩きつけるかのようにグラディウスで瞬く間に切り伏せた。そして、そのまま凍てつく湖へと飛び込もうとする。
「やめろ! ダメだラウル!」
オレは咄嗟にラウルの右腕を掴み、全力で引き止めた。エリスも即座にオレの隣に駆けつけ、ラウルの前に立ちはだかる。
「離せぇ! タクマ!」
ラウルが、今まで聞いたこともないような獣のような声で叫び、オレの手を振りほどこうと激しく抵抗する。その瞳には理性の光はなく、ただセリカを失ったことへの絶望と、敵への激しい憎悪だけが燃え盛っていた。
「ダメだ! 分かってるだろうラウル! オレ達は、水の中ではレイク・サハギンに敵わない。呼吸もできないし、奴らの動きにだってついていけない。しかも凍るような冷たい水じゃ……」
「それが何だ! セリカが連れて行かれたんだぞ。見捨てろっていうのかお前は! 見損なったぞタクマ!」
「違う! そうじゃ……」
「いいからその手を離せぇ! じゃないとお前からぶっ殺すぞ!」
ダメだ。完全に頭に血が上っている。正気を失っているとしか思えない。このまま飛び込ませたら、セリカを追ってラウルまで……。それだけは絶対にさせられない!
オレは必死にラウルの腕にしがみつく。だが、火事場の馬鹿力か、あるいはセリカを想う激情の力か、ラウルの力は凄まじく、オレは引きずられそうになる。
「少し落ち着いて! ラウル!」
凛としたエリスの声が響いた。エリスがラウルの足元、氷が割れた湖面のすぐ手前に、音もなく剣を突き立てた。その銀色の切っ先が、まるで絶対的な境界線のように、ラウルの前進を阻む。
「これが落ち着いてられるか! エリスまでタクマの味方するのか!」
ラウルが、まるで憎しみの籠った視線をエリスに向ける。だが、エリスは揺るがない。
「私はいつでもタクマの味方よ。でも……」
エリスはそこで言葉を切ると、真っ直ぐな瞳でオレを見た。
「セリカを見捨てるようなことはしないでしょ、タクマ?」
その問いかけに、オレは力強く頷き返した。
「当たり前だ!」
そして、いまだ激しく抵抗するラウルを睨みつけ、叫んだ。
「オレに考えがある!」
◇
オレの言葉に、ラウルの動きが一瞬止まった。その隙に、オレはラウルの腕を掴んだまま、力ずくで湖岸から引き離した。
「考えがあるだと……? どうするって言うんだ! セリカは水の中に……」
ラウルの声には、まだ怒りと焦燥が色濃く残っている。だが、わずかに理性が戻り始めているようにも見えた。
オレは周囲を見渡し、他のモンスターや人の気配がないことを確認する。いつの間にかレイク・サハギンやレイク・リザードもほとんどいなくなっていた。主目的だったであろう人間たちがいなくなり、奴らも撤退を始めたのかもしれない。エリスも鋭い視線を巡らせ、オレに向かって小さく頷いた。
ここにはもう、オレたち3人しかいないようだ。
「ラウル。これから見ることは、他言無用だぞ」
オレはラウルの目を見て、静かに、しかし強い意志を込めて告げた。特に、エリスがこれから見せるであろう、常識外れの規模の魔法のことを、他の誰かに知られるわけにはいかない。
「な、何を……」
戸惑うラウルに、オレは作戦を明かした。
「この湖の水を、全て収納する」
「はぁ!? 湖を……収納? 正気かお前!? そんなことできるわけ……」
ラウルが信じられないという顔で絶句する。無理もない。普通のハンターなら、そんな発想すらしないだろう。
「できるよ! だって、タクマができるって言ってるんだから!」
ラウルの言葉を遮るように、エリスが力強く言い切った。その瞳には、オレへの絶対的な信頼が宿っている。
(エリス……)
その信頼が、オレに勇気をくれる。
「オレの収納魔法は、お前たちが思っているよりずっとでかい。できるはずだ」
オレはエリスに向き直り、指示を出した。
「奴らを逃がさないように、湖の底も含めて周囲に氷の壁を作ってくれ」
「分かった!」
エリスは即座に頷くと、湖に向かって片膝をつき、両手を凍てついた大地につけた。目を閉じ、集中力を高める。そして、凛とした声で詠唱を開始した。
「氷よ。全てを阻む、凍てつく氷壁となれ! 《アイスウォール》!」
詠唱が終わると同時に、エリスの両手から凄まじい冷気が放たれ、大地が瞬時に凍り付いていく。
ゴゴゴゴ……!
地響きが起こり、湖全体が激しく揺れる。湖面の厚い氷がメリメリと音を立てて軋み、さらに盛り上がり始める。そして、湖の周囲に、巨大な氷の壁が、まるで意思を持っているかのように急速に形成されていった。それは湖を完全に包囲し、湖底までも分厚い氷で覆っていく、まさに絶対的な氷の檻だった。
「……す、すげぇ……」
ラウルが、目の前で繰り広げられる壮大な魔法の光景に、ただ呆然と呟く。
エリスが氷壁を完成させたのを確認し、オレも覚悟を決めた。氷が砕け、水面が覗く裂け目へと近付き、両手を躊躇なく、凍るように冷たい水の中へと突き込んだ。
(冷たい……。セリカは、今もこの冷たい水の中に……)
歯を食いしばり、精神を極限まで集中させる。内なる収納庫の、そのさらに奥深くにある、自分でもまだ底の知れない『容量』へと意識を繋げる。
「いくぞ……!」
収納魔法、発動!
「……すごい」
エリスの声が、まるで遠くから聞こえるように感じる。
「ん? 何がだ?」
「見えない? タクマの魔力が、信じられないくらい高まってる。全身から魔力が……揺らめいて……すごい。こんなの見たことない」
オレの意識は、今、目の前の湖――その莫大な水量と、湖面を覆う分厚い氷塊――その全てを、収納庫へと引き込むことに集中していた。
「ぐっ……! おおおおぉぉぉ……っ!!」
凄まじい抵抗感。まるで、世界の理そのものに逆らっているかのような、空間が軋むような感覚。莫大な質量が、オレの精神力を、そして魔力を、根こそぎ吸い上げていく。頭が割れるように痛い。全身の血管が浮き出て、破裂しそうだ。
(重い……! だが! やるしか……ない!)
オレは叫び声を上げ、最後の気力を振り絞った。
ゴオオオオォォォ……ッ!!
湖の水が、まるで巨大な口に吸い込まれるかのように、急速に渦を巻きながら下降していく。湖底が徐々に見え始め、表面を覆っていた分厚い氷が、支えを失ってガラガラと轟音を立てて崩落していく。
「う、嘘だろ……湖が……消えていく……」
ラウルは、目の前で起こった天変地異のような光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
数瞬後、湖は完全にその姿を消した。
◇
水がなくなり、エリスが作り出した分厚い氷に覆われた湖底が静かに広がっていた。あちこちで魚が氷の上でぴちぴちと跳ね、水草が氷の中に閉じ込められている。
そして、その氷の上では、突然の環境変化に対応できず、混乱したレイク・サハギンやレイク・リザードたちが、滑ったり転んだりしながらうろたえていた。
「はぁ……はぁ……っ!」
オレは、激しい消耗で立っているのがやっとだった。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、近くの氷壁に手をついて、荒い息を繰り返す。魔力も体力も、ほとんど限界まで使い果たしてしまった。
「いた! あそこ!」
エリスの鋭い声が響く。彼女の指差す先、湖底の中央付近、ひときわ深く窪んだ場所に、数匹のレイク・サハギンがぐったりとしたセリカを囲んでいるのが見えた!
「セリカーーー!!」
ラウルが我に返り、怒りの雄叫びを上げて湖底へと駆け下りる。凍った湖底の斜面に足を取られ、何度か滑りそうになりながらも、セリカの元へと一直線に突進していく。
「エリス……頼む。ラウルを援護して、セリカにヒールを」
オレは、壁にもたれたまま、かろうじて声を絞り出した。
「うん、任せて!」
エリスは力強く頷くと、ラウルの後を追って、まるで氷上を滑るかのように、優雅に、そして驚異的なスピードで湖底へと駆けていった。
◇
氷に覆われた湖底での最後の戦闘が始まった。
ラウルは、滑る足元に苦戦しながらも、セリカを傷つけられたことへの怒りを力に変え、襲い来るレイク・サハギンたちをグラディウスで次々と斬り伏せていく。その動きは荒々しく、焦りから隙も大きいが、気迫だけで敵を圧倒していた。
そこへエリスが疾風のように到着する。彼女の華麗な剣技が閃き、ラウルが苦戦していたレイク・サハギンたちを瞬く間に切り伏せ、セリカへの道を切り開いた。
エリスはぐったりしているセリカの元へ駆け寄ると、すぐに膝をつき、回復魔法を発動させる。
「癒しの光よ、ここに! 《ヒール》!」
温かく眩い光が、冷え切ったセリカの体を優しく包み込む。
その間に、ラウルが最後のレイク・サハギンを怒りの一撃で仕留めた。彼は剣を放り出すと、よろめきながらセリカの元へ駆け寄る。
「セリカ! セリカ! しっかりしろ!」
ラウルはセリカの体を抱き起こし、必死に呼びかける。オレもようやく壁伝いにその場へたどり着き、セリカの手首を取って脈を確認した。
「……脈はある!」
オレの言葉に、ラウルの顔にわずかに安堵の色が浮かぶ。エリスのヒールの光が、セリカの体に吸い込まれるように消えていく。
その時、セリカの睫毛が微かに震えた。そして、うっすらと瞳が開かれる。
「……ラ……ウル……?」
か細い、しかし確かなセリカの声。
その声を聞いた瞬間、ラウルの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「セリカ……! よかった……本当によかった……!」
ラウルはセリカを強く抱きしめ、嗚咽を漏らす。
安堵と、感動と、そして仲間への感謝の気持ちが、凍てついた湖底に、温かい光のように満ちていくのを感じていた。