第14話 トライデントと湖底への拉致
「回復魔法は使えるか?」
オレは眼前の状況を即座に判断し、震えるメイドたちに問いかけた。悠長に自己紹介をしている暇はない。すぐ近くでは、エリスが銀色の剣閃を走らせ、異形のモンスターどもと渡り合っている。獣の咆哮と、激しい剣撃の音、火花と共に散る金属音が、冷たい空気をビリビリと震わせている。一刻も早くこの場を離脱しなければ、エリスの負担が増えるだけだ。
黒髪ロングのメイドが、不安げに揺れる瞳を一瞬伏せた後、意を決したように唇をきゅっと結んでこくりと頷き、震える手をそっと挙げた。
「は、はい……。わ、私が使えます」
か細いが、芯のある声だった。
「よし、なら話は早い。オレがトライデントを抜く。抜いたらすぐにヒールを頼む」
オレは迅速に対応方針を告げる。
「で、ですが、あれには『返し』が……。無理に抜けば激痛と出血がさらに酷くなります!」
黒髪ロングのメイドが悲鳴に近い声を上げる。トライデントの穂先は、一度刺さると抜けにくい構造になっている。それを力ずくで引き抜けば、傷口は無惨に広がり、耐え難い痛みと制御不能な大出血を引き起こすだろう。彼女の懸念はもっともだ。
「分かってる。だから抜く前に止血する。いいか、抜いたら間髪入れずに頼むぞ!」
オレは強い口調で念を押す。老人はオレたちのやり取りを聞き、これから訪れるであろう激痛を想像したのか、顔面蒼白になりながら固く目を閉じ、歯を食いしばってその時に備えている。冷や汗がこめかみを伝うのが見えた。
「ダメよ! おじいさまが痛がるじゃない! ひどい!」
ローゼが泣き顔のまま、オレに掴みかかろうとしてきた。その小さな手には、祖父を想う必死さが込められている。
(くっ、時間がないのに!)
この子の気持ちは痛いほど分かる。だが、今は感傷に浸っている場合じゃない。エリスがオレたちを守るために一人で戦ってくれているんだ。早くしないと!
「悪いが、この子を押さえててくれ。邪魔しないように」
オレは胸の奥で疼く躊躇いを押し殺し、非情に徹することにした。金髪ショートのメイドに低い声で指示を出す。
「なっ!?」
ローゼが信じられないという顔でオレを見上げる。金髪メイドは一瞬、オレの指示と少女への同情の間で揺れたように見えたが、すぐに状況を理解したのだろう。黒髪ロングのメイドも、何か言いたげに口を開きかけたが、周囲の緊迫した状況とオレの有無を言わせぬ雰囲気に言葉を飲み込んだようだ。
「……お嬢様、申し訳ありません!」
金髪メイドはローゼを後ろから羽交い締めにした。
「離して! イヤァ! おじいさまをいじめないで! この人殺し!」
ローゼは必死に手足をばたつかせて抵抗し、泣き叫びながらオレを罵る。その幼い声が、針のように胸に突き刺さる。
(すまない。今はこうするしかないんだ。恨むなら、いくらでも恨んでくれ)
オレはローゼの悲痛な声から意識を逸らし、右手を虚空にかざす。収納庫から太いロープを取り出した。
「なっ!? どこから……!?」
黒髪ロングのメイドが驚きの声を上げるが、今は構っていられない。オレはそのロープで、老人の太ももの付け根――傷口よりも心臓に近い部分――を、ロープが肉に食い込むほど力いっぱい縛り上げた。老人は苦悶の息を漏らし、額にはさらに脂汗が滲んだ。簡易的な止血だが、やらないよりはマシなはずだ。
「よし……」
止血を確認し、オレはトライデントの冷たい柄を右手でしっかりと握った。すぐ隣で、黒髪ロングのメイドもすぐさま老人の傷口に両手をかざし、いつでもヒールを発動できるよう神経を集中させている。老人は相変わらず目を固く閉じ、全身を石のように硬直させて痛みに備えている。
「抜くぞ!」
オレは短く声をかけ、意識を集中し、収納魔法を発動させた。
次の瞬間――老人の太ももに深々と突き刺さっていた禍々しいトライデントが、音もなく一瞬で消え失せた。まるで最初からそこには何もなかったかのように。
「え?」
「消えた……?」
老人も黒髪ロングのメイドも、そしてローゼを押さえていた金髪メイドまでもが、目の前で起こった信じられない現象に、呆然と声を漏らした。
「ヒールを!」
オレは即座に黒髪ロングのメイドに叫んだ。彼女ははっと我に返ると、慌てて回復魔法を発動させる。
「い、癒しの光よ、ここに! 《ヒール》!」
詠唱と共に、彼女の両手から陽だまりのような温かい光が溢れ出し、トライデントが消えてぽっかりと開いた傷口を柔らかく包み込んだ。光の中で、裂けた筋肉がみるみるうちに繋がり、皮膚が再生していくのが目に見えるようだった。幸い、止血はうまくいっていたようで、トライデントが消えた後も、新たな出血はほとんどない。
「い、痛くない……。あの槍はどこへ……? 一体、何が……?」
血の気の引いていた老人の顔にみるみる赤みが戻り、大きく安堵の息をついた。だが、痛みがないことと、刺さっていたはずの槍が消えたことに混乱し、驚きと感謝、そして信じられないものを見るような複雑な眼差しで、オレをじっと見つめている。
傷が完全に塞がったことを確認し、オレは縛っていたロープを素早く解いた。
「説明は後です! 立てますか?」
オレは老人を促す。
◇
黒髪ロングのメイドのヒールは思った以上に効果が高かったようだ。老人の顔色にはすっかり赤みが戻っている。彼は傍らに寄ってきたメイド二人に支えられ、まだ少しふらつきながらも、なんとか自分の足で立ち上がった。
「ありがとう、ハンター殿……。君がいなければ、わしは……」
老人が感謝の言葉を口にする。
「おじいさま!」
ローゼも、祖父が無事なことに安堵したのだろう。涙は止まっていたが、まだ潤んだ瞳の奥に、オレに対する拭いきれない不信感――あるいは、得体の知れないものを見るような怯えの色を浮かべ、硬い表情のまま、少し距離を取ってこちらを見ていた。まあ、仕方ないか……。
「動けるなら、すぐにここから避難してください。エリスが……オレの仲間が敵を引きつけてくれているうちに!」
オレは、感傷に浸る間もなく一行を促した。湖畔の戦闘はまだ終わっていない。近くではエリスが一人で奮闘してくれているはずだ。黒髪ロングのメイドが「あ、あの、お名前だけでも……!」と尋ねてこようとしたが、それを遮るようにオレは続けた。
「早く!」
「う、うむ……すまない」
老人は頷き、メイドたちに支えられながら、ローゼと共に岩陰から出て、林道へと急いだ。そのおぼつかない足取りを見送りながら、オレは息をつく。
これで一安心だ。あとはオレもエリスの援護に……。そう思った、まさにその時だった。
「セリカァーー!」
湖畔に響き渡ったのは、ラウルの、魂を絞り出すような絶叫だった。
◇
一瞬の安堵から、再び奈落の底へ突き落とされたような衝撃。
オレはすぐさま声のした方へ視線を向けた。
そこには、数匹のレイク・リザードに囲まれ、鬼のような形相でグラディウスを振るうラウルの姿があった。そこにセリカの姿はない。彼とセリカが、いつの間にか分断されていたことに、オレは今更ながら気付いた。
(セリカは? どこだ?)
さらに視線を動かす。湖面の、大きく割れた氷の裂け目近く。
そこに、ぐったりとしたセリカの姿があった。彼女の両腕は、二匹のレイク・サハギンにがっしりと掴まれ、暗く冷たい水の中へと、まさに引きずり込まれようとしていた。
「しまっ……!」
オレは咄嗟にスリングショットを構え、セリカを掴むレイク・サハギンの一匹を狙って弾を放つ。
当たれっ!
だが、距離と焦りから、狙いは僅かに逸れた。放たれた弾は、レイク・サハギンの鱗に覆われた腕をヒュッと掠め、硬い鱗に弾かれて水面に落ちただけで、ほとんどダメージを与えるには至らなかった。レイク・サハギンは一瞬こちらを見たが、すぐに興味を失ったようにセリカを引きずり込む動きを再開する。
そして――無情にも。
セリカの姿は、二匹のレイク・サハギンと共に、暗く冷たい湖水の中へと完全に引きずり込まれ、消えてしまった。
「うぉおおおおお! セリカーーー!!」
レイク・リザードを薙ぎ払いながら、その一部始終を目撃してしまったラウルの、絶望に満ちた叫び声だけが、凍てつくような風が吹き抜ける静寂の湖畔に、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。