第13話 湖畔の死闘と邂逅
林道を抜けた先に広がっていたのは、穏やかな陽光を浴びてキラキラと輝く、広大な氷結湖――のはずだった。
湖面は厚い氷に覆われ、まるで巨大な鏡のように冬の青空を映し、湖畔には、ちらほらと人の姿があり、氷に穴を開けてワカサギ釣りを楽しむ者、寄り添って湖を眺める恋人たち、小さな子供たちが歓声を上げながらソリで遊ぶ家族連れ、そして、ただ静かに冬の終わりの散策を楽しむ老夫婦……。アスターナ近郊の、平和で穏やかな憩いの場。それが、本来のこの湖の姿だったのだろう。
だが、オレたちの目に飛び込んできたのは、そんな長閑な光景が蹂躙された、阿鼻叫喚の渦巻く地獄絵図だった。
湖岸のあちこちで分厚い氷が、巨大な爪で引き裂かれたかのように割れ、その仄暗い水面下の裂け目から、緑色の鱗に覆われた半魚人のようなモンスター――レイク・サハギンが、まるで悪夢から這い出すかのように次々と姿を現していた。手には鈍く光る三叉の矛を握り、ぬらぬらと粘液に覆われたトカゲのようなモンスター、レイク・リザードを鎖で従えている。その数はざっと見ただけでも三十……いや、もっと多いかもしれない。
湖畔は一瞬にして完全なパニック状態に陥っていた。さっきまで穏やかな時間を過ごしていた人々が、今は恐怖に顔を引きつらせて逃げ惑っている。子供の泣き叫ぶ声、助けを求める悲鳴、モンスターの耳障りな威嚇音……それらが混ざり合い、平和だったはずの湖畔を悪夢の色に染め上げていた。
「なんだ、この数は!?」
ラウルが愕然とした表情で叫ぶ。
「E級モンスターとはいえ、これだけの数が一斉に現れるなんて……異常よ!」
セリカも青ざめた顔で状況を分析する。
「とにかく、みんなを逃がすのが先決だ!」
オレは叫びながら、即座に収納庫に意識を向ける。次の瞬間、オレの右手にはラウルの剣、左手にはセリカの剣が握られていた。
ラウルの剣は、肉厚で幅広い両刃の剣グラディウス。一般的な剣より少し短めだが、その分扱いやすいので、多少無骨ではあるが男性ハンターにはわりと人気のある剣だ。
セリカの剣は、半円状の大きな鍔が付いた片刃の剣セイバー。サーベルと呼ぶこともあるが、細身で比較的軽いので、こちらは女性ハンターにかなり人気がある。
「ラウル、セリカ! 剣を!」
二人は素早くオレから剣を受け取り、臨戦態勢を取った。
「エリス!」
「うん!」
さらにオレはエリスの剣も収納庫から取り出し、エリスに渡す。
エリスの剣はオレと同じく、ラウルの祖父リオネルさんが作成した両刃の片手用直剣だ。長さや重さ、特に重心などはエリスの好みなどに合わせて微妙に調整してもらっている。言わばエリス専用の剣だ。
エリスは剣を抜き放ち、その大きな黒い瞳に鋭い光を宿す。オレは状況判断のため、ひとまずスリングショットを選択し、収納庫から取り出して構えた。
「行くぞ!」
オレの合図で、4人は一斉に湖畔の惨状へと駆け出した。
◇
戦闘は熾烈を極めた。
氷の裂け目からは、まるで無限に湧き出るかのようにレイク・サハギンとレイク・リザードが現れ、数を減らすどころか、むしろ増えているようにさえ感じられる。
「ラウル、右!」
「おう!」
セリカの鋭い声に、ラウルが即座に反応する。グラディウスを力任せに振り回し、襲いかかってきたレイク・サハギンを薙ぎ払う。肉厚な剣が生々しい音を立てて鱗を砕き、緑色の体液を撒き散らす。その戦い方はやや荒々しいが、持ち前のパワーとスピードで確実に敵の数を減らしていた。
「はあっ!」
ラウルが切り開いた隙に、セリカが踏み込む。セイバーの切っ先が閃き、レイク・リザードの喉元を正確に切り裂く。さらに、逃げようとする別のレイク・サハギンに、素早く詠唱した火の魔法《ファイア》を放ち、その動きを止めた。冷静な判断力と、ラウルとの呼吸の合った連携が光る。
そして、エリス。彼女の動きは、明らかに一線を画していた。
まるで銀色の疾風。逃げ惑う人々の間を縫うように駆け抜け、襲い来るモンスターのトライデントや牙、爪を最小限の動きで、しかし確実にかわしていく。その剣閃は鋭く、ほとんど無駄がない。狙いは常に敵の急所を正確に捉え、最小限の手数で確実に仕留めていく。その動きは洗練されており、それでいて恐ろしいほどに効率的だ。逃げ惑う人々に危険が及ばないよう、常に周囲の状況を把握しながら動いているのが見て取れる。その上で、あの動きなのだから驚異的としか言いようがない。
(エリスの動き、やっぱり桁違いだな……。でも今は助かる。ラウルとセリカも、さすがに場数を踏んでるだけある。オレも足を引っ張るわけにはいかない!)
オレは後方からスリングショットで援護に徹する。以前よりも格段に精度が上がった弾丸が、モンスターの目や関節といった急所を的確に捉え、その動きを一瞬止める。仲間が攻撃しやすいように隙を作り出す。それが今のオレの役割だ。
ヒュンッ!
放った弾が、トライデントを振りかぶったレイク・サハギンの手首に命中し、武器を取り落とさせる。すかさずラウルが飛び込み、グラディウスでとどめを刺した。
「サンキュー、タクマ!」
「ああ!」
だが、敵の数は依然として多い。次から次へと氷の穴から這い出してくる。
「くそっ、キリがない!」
ラウルが悪態をつく。
「まだ湖の中から湧いてくるわ!」
セリカの悲鳴に近い声。
(このままではジリ貧だ。どこかで流れを変えないと……)
オレが新たな弾を装填しようとした、その時だった。
湖畔の少し離れた場所、大きな岩がいくつか転がる影に、まだ避難できずにいる人たちがいることに気付いた。他の人たちは、オレたちの奮闘もあってか、ほとんどが林道の方へ逃げられたはずだ。なぜあの人たちだけが……?
「エリス!」
オレはエリスに合図を送り、二人で警戒しながらそちらへ向かった。ラウルとセリカには、引き続き他のモンスターの対処と、万が一残っているかもしれない人たちの避難誘導を任せる。
岩陰に近付くと、状況が飲み込めてきた。
地面に、一人の老人が倒れ伏していた。年の頃は……七十歳くらいだろうか。仕立ての良い、しかし今は泥と雪で汚れた服を着ている。その顔は苦痛に歪み、浅い呼吸を繰り返していた。そして、その左太ももには……。
「これは……酷いな」
思わず声が漏れた。レイク・サハギンの武器である三叉の矛が、根元まで深々と突き刺さっている。夥しい量の血が流れ出し、周囲の雪を赤黒く染めていた。
その老人の傍らには、十歳くらいの金髪の少女が泣きじゃくりながら必死に声をかけている。高価そうなドレスも今は汚れ、結い上げた髪も乱れていた。
そして、その二人を守るように、二人の若いメイドが立っていた。一人は長い黒髪を後ろで束ね、もう一人は短い金髪を切りそろえている。二人とも、恐怖に顔を引きつらせながらも、必死に毅然とした態度を保とうとしているのが見て取れた。
「君は……ハンターか?」
老人が、か細い声でオレを見上げてきた。その瞳には、まだ諦めないという意志の光が宿っているように見えた。どこかで見たことがあるような顔……そんな気がしたが、今はそれどころじゃない。
「たまたま居合わせたハンターです。それより、立てますか?」
無理だと分かっていながら、そう尋ねずにはいられなかった。老人は力なく首を横に振る。
「この子だけでも……ローゼだけでも、頼む……」
「おじいさま! おじいさま!」
ローゼと呼ばれた少女が、泣きながら祖父にしがみつく。
「イヤッ! おじいさまも一緒じゃなきゃイヤです!」
(このままじゃ埒が明かない。それに、エリスはこの子を見捨てて逃げたりしないだろうしな……治療するしかない)
オレは覚悟を決めた。周囲の戦闘音はまだ止まない。迅速な判断と行動が必要だ。
オレは、老人を守るように立つ二人のメイドに向き直った。
「回復魔法は使えるか?」
オレの問いに、黒髪ロングのメイドが、不安げに、しかし意を決したようにこくりと頷き、小さく手を挙げた。
よし、それなら……!
緊迫した空気が、その場を支配していた。