第10話 覚醒の一端と見えざる悪戯
「まあ、見てろって。的くらい、オレが出してやるよ」
オレはラウルたちにそう言うと、右手を前方の、何もない空間に向けて突き出した。自身の内にある異空間――収納庫へと意識を向ける。普通のハンターがアイテムポーチを探るのとは違う、もっと感覚的な作業だ。
収納庫の中には、日用品から予備の装備、ポーション、そして雪山で手に入れた素材――もちろんサイクロプスの亡骸も含む――まで、様々なものが雑多に保管されている。その中から、目的のものを探し出す。
(あった……! スノウボアの氷矢。かなりの数だ)
雪山での戦闘中、無我夢中で収納した氷の矢。冷たく鋭利な氷の塊が、収納庫の中で静かにその存在を主張している。これを「的」として使えば、ラウルのちょいと見苦しい言い訳にも対応できるだろうし、壊れてもなんら問題ない。
(よし、まずは一本、取り出してみるか)
オレは収納庫に意識を向けたまま、いつも通り、取り出したいものをイメージし、それが手元に出現する感覚を思い描く。
次の瞬間――オレの右手のすぐ前から、何かが猛烈な勢いで向かってきた。
ヒュゴッ!!
鋭い風切り音! それは紛れもなく、たった今オレが取り出したスノウボアの氷矢だった。だが、それは手元に静かに現れるのではなく、まるで発射された直後のような速度で、オレの右手を、そしてオレの顔のすぐ横を掠めて後方へと飛んでいった。
「――っ!?」
あまりに予想外のことで、オレは全く動けなかった。右の手のひらと右頬に、鋭い痛みが走った。氷の矢が掠めたらしい。あとほんの数センチでもずれていたら、今頃オレは……。背筋が凍るような感覚に襲われ、心臓がドクン、と大きく跳ねた。
オレを掠めた氷の矢は、勢いを失うことなく飛び続け、訓練場の反対側の壁――分厚い木材で補強されているはずの壁に、ズドドンッ!! という轟音と共に深々と突き刺さった。衝撃で壁が揺れ、土埃が舞い落ちる。
訓練場が一瞬、水を打ったように静まり返った。さっきまでの騒ぎと、今の衝撃で、さすがに残っていた他のハンターたちも呆れたように、あるいは危険を感じたのか、そそくさと訓練場を後にしてしまい、いつの間にかオレたち4人だけになってしまっていた。
「な、なんだ今の!?」
「タ、タクマ! 今の何? 大丈夫なの!?」
ラウルとセリカが、呆然とするオレに駆け寄ってくる。
「タクマーっ!!」
だが、それよりも早く、悲鳴に近い叫び声を上げてオレの元に飛び込んできたのはエリスだった。その顔は血の気が引き、大きな黒曜石のような瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていく。
「だ、大丈夫!? 怪我は!? あ、血が……」
エリスはオレの右手と右頬から流れる血を見て、わなわなと震えながら、慌ててウエストポーチから真っ白なハンカチを取り出して傷口を押さえ、さらに――
「い、癒しの光よ、ここに! 《ヒール》!」
切羽詰まった、しかし凛とした声で詠唱が紡がれる。エリスの手のひらから、温かく柔らかな光が溢れ出し、オレの右手と右頬を包み込んだ。光に触れた瞬間、ピリピリとした痛みが和らぎ、傷口が急速に塞がっていくのが分かる。さすがはエリスのヒールだ。並の回復魔法とは効きが違う。
「エ、エリス、もう大丈夫だから。ちょっと掠っただけだから」
オレは慌ててエリスを宥める。彼女の必死な様子に、申し訳なさと、それ以上に胸が締め付けられるような愛しさを感じていた。こんなかすり傷で、ここまで心配してくれるなんて……。
「で、でも……! 今のは本当に危なかったんだから! もし、もしタクマに何かあったら……」
エリスは涙声で訴え、なおもヒールの光を放ち続ける。その隣で、ラウルとセリカも青ざめた顔で壁に突き刺さった氷の矢を見つめていた。
「おいおい、タクマ……。お前、今、何したんだよ。的を出すって……あんな凶器をいきなり撃ち出すなんて聞いてねぇぞ?」
「そ、そうよ! 心臓が止まるかと思ったわ。一歩間違えたら大惨事よ」
二人の非難めいた声に、オレはまだ混乱する頭で必死に弁解する。
「ち、違う! オレだってこんなことになるなんて思わなかったんだ。ただ、収納庫からスノウボアの氷矢を取り出そうとしただけで……」
そこまで言って、オレははっとした。
ただ取り出そうとしただけ……? いや、違う。何かがおかしい。普段、収納庫から物を取り出す時は、こんな風に飛び出してきたりはしない。静かに、手元に出現するはずだ。
なのに、なぜ氷の矢だけが?
……まさか。
(収納した時……あの氷の矢は、猛スピードで飛んできていた。その『勢い』が……収納した後も、そのまま残っていた……っていうのか?)
背筋に、ぞくりとしたものが走る。それは恐怖だけではない。未知の現象に対する畏れと、そして……ほんの少しの興奮が入り混じった感覚。
(収納魔法は、ただ物を出し入れするだけじゃなかった……? 入れた時の状態……運動エネルギーごと、保存する……?)
もしそうだとしたら、これはとんでもない発見だ。使い方次第では、強力な武器にもなり得るかもしれない。だが、ちゃんと確認する必要がある。今のままでは、ただの暴発する危険物だ。
「……タクマ? 大丈夫? 顔色悪いよ?」
エリスが心配そうにオレの顔を覗き込む。彼女のヒールのおかげで、傷はもう完全に塞がっていた。
「あ、ああ……大丈夫だ。ありがとう、エリス」
オレはエリスの頭を軽く撫でると、もう一度、壁に突き刺さった氷の矢を見た。そして、意を決して、再び収納庫に意識を向けた。
(オレの収納魔法。そしてオレの収納庫。もっと理解する必要がある。もっとちゃんと……)
オレはゆっくりと目を閉じ、呼吸を整え、精神を集中させた。意識を、自分の内にある収納庫の奥深くへと沈めていく。そこにある無数のアイテム……その一つ一つを感じ取るように。そして、再び、スノウボアの氷矢に意識を合わせた。
(確かに……感じる。この氷の矢には、他のアイテムにはない『力』が宿っている。前に進もうとする強い『力』……、これが、このアイテムの運動エネルギー……。そして、この力は、収納庫の中では弱まることも、失くなることもない。まるで、凍りついたように、入れた時のまま……)
深く、さらに深く意識を潜行させる。まるで、収納庫そのものと対話するように。このアイテムの『力』を、この危険なエネルギーを、どうにか制御できないものか?
(この動く力を……止めることはできないのか? 収納庫の中で、静止させるとか……)
試してみる。氷の矢に宿る『力』を、無理やり押さえつけようとイメージする。だが、まるで分厚い壁に阻まれるかのように、びくともしない。
(ダメか……。収納した時の状態は、変えられない……? じゃあ、分解するとか……? この氷の矢を、ただの氷の欠片にするとか……)
それも試してみるが、やはり同じだった。収納庫の中の物は、入れた時の状態を完全に保持し続けるらしい。物理的な形状状態だけでなく、その物体が持つ運動エネルギーさえも。それが、この魔法の絶対的なルールなのかもしれない。
オレはゆっくりと目を開けた。
「分かった……と思う」
「分かったって、何がだ?」
ラウルが怪訝そうな顔で聞き返す。
「オレの収納魔法は、物体を状態も含めて丸ごと収納するんだ」
「状態も含めて? それは、どういう意味?」
セリカも不思議そうに首を傾げる。
「動いている物体なら、その動いているという状態ごと収納するんだ。だから、取り出すと、動いていた状態も継続したまま取り出すことになる」
「だから、さっきの……」
エリスが息を呑む。
「ああ。スノウボアの氷矢は、オレに向かって飛んできてた状態で収納したからな。ああなって当然だったんだ」
3人がオレの言葉に驚き、そして納得したように顔を見合わせる中、オレは言葉を続けた。
「実は、前から少し不思議に思ってたことがあった。例えば朝、エリスが作ってくれた朝食を食べる時間がなくて……」
「ん? タクマ、何の話だ? 収納魔法の話じゃなかったのか?」
「ラウル、いいから聞けって。その朝食を、しかたないから後で食べようと収納庫にしまっておいて、夜になって取り出してみると、朝作ってくれたときのまま、温かいままなんだ」
「それって……」
「だからオレは、収納庫の中は時間経過しないのかと思ってた。入れっぱなしにしてた生肉も、ぜんぜん腐ったりしないで、長い間保存できてたりするからな。でも、こうなると……」
「時間経過がないというより、状態が変化しない?」
セリカが鋭く指摘する。
「ああ。というより、状態を変化させることができない、といったほうがより正確かもしれない。さっき、目を閉じて自分の収納庫の中を探ってみたんだ。収納庫の中で、スノウボアの氷矢を分解して氷の欠片にできないか試してみたんだけど、できなかった」
「なんか難しいな。俺にはよくわからんけど、じゃあ、スノウボアの氷矢を取り出すのは無理ってこったな。取り出したら、それは全部タクマに向かっていくだろうからな」
ラウルが腕組みをして言う。確かにラウルの言う通りだ。このままでは、氷矢はただの危険物だ。危なくて取り出せない。だが……。
「いや、そうでもないと思う」
「どういうことだ?」
オレは、見てもらったほうが話が早いだろうと思って、右手を前に出そうとした。だが、その手はすぐにエリスにガシッと掴まれた。
「……エリス?」
「また、危ないの、出そうとしてる?」
心配そうに潤んだ瞳で、じっと見上げてくる。その瞳には、さっきの恐怖がまだ残っているようだった。
「あー、いや、そうじゃないんだが……。えっと、その……」
さっきのはかなりエリスを心配させてしまったらしい。言葉に詰まる。
「わかった。じゃあエリス、そこに転がってる木刀を取ってくれるか?」
訓練場の隅に、打ち捨てられたように転がっている練習用の木刀を指差す。
「うん、いいけど……」
エリスは不思議そうな顔をしながらも、素直に木刀を拾ってきてオレに渡してくれた。ずしりと重い、樫の木の感触。
「いいか? 見てろよ」
オレは木刀を縦に、つまり親指の先を上にして握った状態で、収納庫へと収納した。
「じゃあ、今収納した木刀を取り出すぞ」
心配そうに見守るエリスに、「木刀だから大丈夫だって」と念を押してから、今度は手の甲を上に、親指の先を横にした状態で、収納庫から木刀を取り出して掴んだ。オレの手の中に出現した木刀は、当然、横向きになっている。
「あ!」
察しの良いセリカが小さく声を上げた。
「気付いたか? 今までだって、別に収納した向きを維持したまま取り出していたわけじゃない。無意識のうちに、収納したときとは別の向きで取り出していたんだ」
取り出した木刀は、もう用はないので床にそっと置く。
「じゃあ、氷の矢も?」
エリスが期待と不安の入り混じった声で尋ねてくる。
「向きを変えて取り出せるはずだ。オレに向かって飛んできてた氷矢を、反対向きに……前方に飛ぶように取り出すことが、できると思う」
「それって、なんか、すごくないか?」
ラウルが目を丸くする。
「ああ、とにかく試してみる」
オレは意気揚々と、誰もいない訓練場の壁に向かって右手を伸ばした。だが、その手は再びエリスに強く掴まれた。
「エリス?」
「危ないのは、ダメだよ」
きっぱりとした、しかし震えを帯びた声。その瞳には、さっき流した涙の跡がまだうっすらと残っている。
「いや、でも、これは……」
大丈夫なはずだから、と続けたかったが、エリスの真剣な眼差しと言葉にならない不安を感じ取ってしまい、言葉を飲み込んだ。
「だから、一度確認させて」
エリスはそう言うと、自分のポーチから銅貨を一枚取り出した。
「これを上に放るから、落ちてくるところを収納して。そして、取り出すときに……」
「向きを変えて、動く向きを下じゃなく、横にして取り出すんだな?」
エリスの意図を読んで、オレは言葉を引き継いだ。エリスがこくりと頷く。
(なるほど。これならたとえ失敗しても、せいぜい頭にコツンと銅貨がぶつかるだけだ。たんこぶにもならないだろう)
「やってみる」
エリスが銅貨を親指で弾き、上に放る。放物線を描いて落ちてくる銅貨。オレはタイミングを合わせ、落ちてくる銅貨に右手で触れ、収納した。確かに『下へ落ちる力』を感じる。
「よし、出すぞ……横へ!」
意識を集中し、今度は訓練場の横の壁に向かって銅貨を取り出す。
シュッ!
銅貨は、オレの手から水平方向に飛び出し、カチン、と軽い音を立てて壁に当たって床に落ちた。
「……できた」
「やったね、タクマ!」
エリスがぱあっと顔を輝かせた。ラウルとセリカも「おお……!」と感嘆の声を上げている。
これで証明できた。運動エネルギーを保存したまま、取り出す方向を変えることができる!
「よし、エリス。もう大丈夫だ。今度こそ、氷矢を!」
今度こそ、とオレは壁に向かって右手を構える。エリスも、今度は心配そうながらも、黙って頷いてくれた。
意識を集中。収納庫から、スノウボアの氷矢を選択。その『前へ進む力』を感じ取る。そして、そのベクトルを、オレとは真逆の方向へ……前方の壁へ向けて、取り出す!
シュンッ!
氷の矢が出現……というより、飛び出してくる。今度はオレにでなく、前方の壁に向かって。
ドスッ!
氷の矢は、しかし、狙った壁の真正面ではなく、斜め下の地面に深々と突き刺さった。
「……さすがに、思った通りには飛ばせないか。でも……」
狙い通りとはいかなかった。方向を完全に制御するのは、そう簡単ではないらしい。まるで、スリングショットの狙いをつける時のように、ほんの少しのズレが大きな誤差を生む。つまりは、練習が必要ってことだ。
だが、それでも! オレに向かって飛んできたはずの氷の矢を、前方に撃ち出すことができた! これは、とてつもなく大きな一歩だ!
(これなら……攻撃にも使えるかもしれない……!)
新たな力の可能性に、オレの胸は高鳴っていた。
「す、すごい……! タクマ、今の……!」
エリスが目を輝かせてオレを見る。ラウルとセリカは、何が起こったのか理解できず、ただ口をあんぐりと開けていた。
その時――ラウルが投げ捨てた円月輪が、ひとりでにコロコロと転がりだした。
それだけでなく、壁に立てかけてあった槍がカタカタと揺れたり、どこからともなく、ひゅるり、と冷たい風が吹き抜けたり……。
「やっぱり……何かいる」
エリスが鋭い視線を訓練場の隅、薄暗い影になった場所へと向けた。彼女の獣耳が、微かな音を捉えようとピクピクと動いている。
「風を起こして、物に触ってる……。小さいのが、何匹か……ちょこまかと」
エリスの言葉に、オレたちもそちらへ視線を向ける。注意して見ると、確かに影の中で何かが高速で動き回っているような気配がする。そして、時折、キラキラと光る鱗粉のようなものが舞っているのが見えた。
「あれは……もしかして、ピクシー!?」
セリカが声を上げた。ピクシー。悪戯好きで、光り物を好み、姿を消したり風を起こしたりすると言われる、妖精の一種。ランクとしてはF級程度で、直接的な戦闘力は高くないはずだが、そのトリッキーな能力は非常に厄介だ。
「あいつらか! あいつらが、オレの円月輪を邪魔してたのか!」
合点がいったという顔でラウルが叫ぶ。ピクシーは光るものが好きだという。リオネルさん特製の、キラキラ光る円月輪は、格好の標的だったのだろう。そして、ラウルが投げるたびに、それを「遊んでくれている」と勘違いして、ちょっかいを出していたのかもしれない。
「……なるほど。これで辻褄が合ったな」
オレも頷く。セリカが感じていた妙な気配も、ラウルの円月輪の奇妙な動きも、全てはピクシーの仕業だったわけだ。
「よし、まずはあいつらを捕まえないと、練習どころじゃないな!」
ラウルがホルスターから新たな円月輪を取り出す。
「でも、すばしっこいんでしょ? どうやって捕まえるのよ?」
セリカが不安げに言う。
オレは、地面に突き刺さった氷の矢と、自分の右の手のひらを見比べた。
(オレのこの力……。まだ全然、制御なんてできない。狙ったところに飛ばすなんて、夢のまた夢だ。でも……)
もしかしたら、この制御不能な暴発こそが、予測不能な動きをするピクシー相手には、逆に有効かもしれない。
「なあ、みんな」
オレは顔を上げ、仲間たちを見回した。
「オレのこの力……まだ上手く使えないけど、あいつらを捕まえる手伝いなら……できるかもしれない」
オレの言葉に、3人の視線が集まる。その視線には、驚きと、疑念と、そしてほんの少しの期待が入り混じっているように見えた。