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第1話 暖炉の前で初めての……

 ロッジの窓に「はぁー」と息を吹きかけてみる。真っ白な息が窓ガラスをさらに曇らせた。


 指で触れると、窓ガラスはやっぱりひんやりと冷たい。外の寒さが伝わってくるかのようだ。適当に曇りを拭ってみると、窓枠の向こうの景色が見えた。


 そこは、一面の銀世界。音も色も、何もかもが雪に吸い取られたかのように、ただただ白い。木々の枝には、これでもかというくらい雪が積もっていて、重そうだ。


 遠くの山並みも、なんだかぼんやりと霞んでいる。昨日まで降っていた雨は、どうやら夜の間に雪に変わったらしい。


 やけに静かだ。


 暖炉で薪がパチパチ爆ぜる音だけが、かろうじて聞こえてくる。まるで時間が止まったかのようだ。アスターナの街から何日もかけて来た、北の山奥にあるこの古いロッジは、完全に世界から切り離されたようだった。


「タクマ、こっちにおいでよ。窓際なんて寒いでしょ?」


 不意に、背中から声がした。聞き慣れた、エリスの声。……いや、聞き慣れているはずなのに、何度聞いてもドキッとしてしまう、そんな声だ。ゆっくり振り返ると、暖炉の炎を背にして、エリスが膝を抱えて座っていた。


 エリス。


 オレの、たった一人の幼馴染。そして、パートナー。


 ふわっふわの白銀の髪。暖炉の光を浴びて、きらきらと光っている。その髪の間から、獣耳けもみみが覗いている。ピコ、ピコって、可愛らしく動いている。……この仕草、反則だよな。


 透き通るような白い肌は、暖炉の熱でほんのり赤い。大きな黒い瞳が、心配そうにこちらをじっと見ている。形のいい唇が、ふわりと弧を描いた。床には、雪のように白くて長い滑らかな毛並みの尻尾が、ゆったりと揺れている。


 そう、彼女は獣人だ。オレたち人族とは少し違う。……けど、そんなことはどうでもいいか。オレがまだ五つの頃、村にふらっと現れてから、気付けばいつも隣にいた。それがエリスだった。


「どうしたの? 早くしないと、一番いい場所、取っちゃうよ?」


「あ、ああ……悪い。今行く」


 窓際から離れて、暖炉のそばへ行く。そこだけ春のように暖かい。近くにあった薪を一本掴んで、燃え盛る炎の中へくべる。パチッ、と火の粉が舞い、乾いた木の燃える匂いがした。


「もう、薪なんて後でいいってば。こっち、こっち!」


 エリスがオレのジャケットの裾をクイッと引っ張る。そして、自分の太ももをポンポン、と叩いた。


「ひ、ざ、ま、く、ら。してあげる」


 小首を傾げて、潤んだ瞳で上目遣い。


 何度目だろう、これ。なのに、なんでオレの心臓は、初めてのようにこうもうるさいのだろうか。慣れるどころか、段々ひどくなっている気さえする。


「なーにー? 照れてるの? それとも、私の膝枕じゃ、ご不満ですか?」


 ぷくーっと頬を膨らませる。……計算か? 天然か? どっちにしろ、オレに勝ち目はないのだ。


「いや、不満とかじゃなくて……。朝からいきなりは、心の準備が……」


「準備なんていらないもん! 今はタクマと私だけなんだから。ね? 誰も見てないよ? 二人だけの秘密の時間だよ?」


 秘密、か……。オレたちは、いくつか秘密を抱えている。ちょっと人には言えない秘密を。だから、こういう何気ない「秘密」という言葉が、妙に心をくすぐるのかもしれない。


 ちらっとエリスの服装を見る。薄手のセーターに、ショートパンツ。そこから伸びる、白い太もも……。膝枕ということは、そこに、オレが頭を……。


 ゴクリ、と思わず喉が鳴った。しまった、と思ったがもう遅い。エリスの黒い瞳が楽しそうに細められた。くそっ、また完全に彼女のペースだ……。


「し、仕方ないな……。そこまで言うなら、ちょっとだけ……ちょっとだけだぞ? すぐ起きるからな!」


「はいはい。ちょっとだけ、ちょっとだけ。ふふ……」


 オレは観念して、エリスの隣に腰を下ろす。そして、意を決して、ゆっくりと頭を彼女の膝の上へ預けた。


 ふわり、とした柔らかさ。クッションとは違う、弾力と温もり。暖炉の熱とは違う、生きている温かさが伝わってくる。そして、さっきより強く、甘くて優しい香りが……。一瞬で全身の力が抜ける。とくん、とくん、と自分の心臓の音がやけに大きく響く。


「もう。初めてじゃないのに、なんでそんなにカチカチなの、タクマは。リラックス、リラックス」


 頭上から、くすくす笑う声。


「……うるさい。慣れとかの問題じゃないんだよ……。お前が無防備すぎるのが悪いんだろ……」


 真下から見上げたエリスの顔は、やはり近すぎた。心臓がさらにうるさく鳴る。この状況でドキドキしているのがオレだけというのが、なんだか悔しい。そうだ、仕返ししてやらないと。


「……なあ、エリス。ちょっとだけ……耳、触ってもいいか?」


 ピコ、と獣耳が反応する。エリスは一瞬、目をぱちくりさせたが、すぐに悪戯っぽく笑った。


「……ん。いいけど……。変なことしたら、噛みついちゃうからね?」


「わ、分かってるって」と平静を装って答える。そして、そっと指を伸ばした。信じられないくらい柔らかく、温かい感触。まさに「ぷにふわ」。ああ、これだよ……。


「ん……っ。タクマの手、冷たい……けど、なんか……ぞくぞくする……かも……」


 エリスがくすぐったそうに身じろぎし、頬を桜色に染める。その反応がまた、たまらなく可愛くて、つい、耳朶みみたぶのあたりを、くにくにとねてしまう。


 ああ、そうだ。こいつのこういう顔を見ていると、忘れそうになる。こいつが決して、ただの可愛い獣耳娘ではないということを。その華奢な体のどこに、あのとんでもない力が秘められているのか……。普段のエリスと、オレだけが知るもう一つの顔。そのギャップに、時々眩暈めまいすら覚える。


「なあ、エリス……」


「んー……? なぁに、タクマ……?」


 とろけるような声。……これは、チャンスか? ダメ元で聞いてみるか……?


「……その……尻尾も、ちょっとだけなら……」


「ぜーったい、ダメッ!」


 キッパリとした拒絶。しかも、さっきより語気が強い。


「なんでだよ! ちょっとくらい、いいだろ! ケチ! もふもふさせろー!」


「尻尾はね、もっと……特別なんだから! ダメなものはダメ! このエッチマ!」


 ぷいっとそっぽを向いて、白い尻尾を自分の体の前に隠すように丸め込む。……やっぱり尻尾は聖域らしい。


(……って、おい? 今なんて言った? エッチ魔? いや、エッチな……タクマ?)


「――おまっ!? ちょっ!?」


「はいはい! エッチなタクマには、罰として特別サービス!」


「エッチなって! オレはそんな! は? 罰? なんだよそれ……って、うおっ!?」


 エリスは楽しそうに、どこからともなく――マジでどこから出したんだ!?――奇妙な道具を手にしていた。細長い竹の棒の先に、ふわふわの白い綿毛。……み、耳かき……だと!?


「お・み・み・そ・う・じ♪ きっと気持ち良すぎて、エッチな妄想なんて、吹っ飛んじゃうからね!」


 小悪魔のような、甘い声。


 ……マジですか!? 膝枕だけでもヤバいのに、耳かきコンボだとか、正気か!? いや、間違いなく正気で、むしろ楽しんでいるんだ。オレの理性をくすぐることを。この小悪魔は!


「ほらほら、ぐずぐずしない! 男らしく覚悟を決めて、暖炉の方、向いて?」


 有無を言わせぬ声。オレは、もはや、まな板の上のタクマだ。


 言われるがままに、ごろりと体を横たえる。再び、いや、さっき以上に強く、オレの頬がエリスの太ももに押し付けられる。暖炉の熱と、彼女の体温、甘い香りが混ざり合い、意識が霞み始める。


(やばい……本気でやばい……。これは治療だ、そう、心の治療なんだ! ……たぶん!)


「はい、動いたら危ないからね? じーっとしてて。いい子にしてたら、ご褒美もあるかも?」


 優しいけれど、抗えない力で、頭が固定される。そして、ふわふわの綿毛が、そろり、そろりとオレの耳の穴へ……侵入してきた。


 ――ひぅうっ!?


 声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。


(うわああああぁぁ……! き、来た! なんだこの感覚!? くすぐったい! でも……! でもなんだこれは……ッ!! 快感……!?)


 カリ……コリ……。サワサワ……。


 耳の穴の、超敏感なゾーンを、熟練の職人技(としか思えない)が刺激してくる。脳が痺れるような、それでいて全身の力が溶けていくような、未知の快感。すぐ耳元で聞こえる、エリスの(たぶん)真剣な吐息。


(ダメだ……もう……抵抗できない……。思考が……溶けて……)


 暖炉の音、エリスの体温、甘い香り、そして耳の中の絶対的な快感……。五感が完全に幸福に蹂躙される。ハンターとしての矜持も、過去のトラウマも、未来への不安も、すべてが霞んでいく……。


 ◇


 収納魔法。それが、オレの使える唯一の魔法だ。


 この世界には様々な魔法がある。それらは火、水、風、土、そして光と闇。そういう系統での分類がされることもあれば、攻撃、防御、支援、生活などといった系統で分類されることもある。


 魔法の種類は数百とも数千とも言われているが、オレに使えるのは収納庫ストレージに物を出し入れできるこの収納魔法のみ。


 この収納魔法は、実は激レアな魔法なんだそうだ。つまり、これが使える人は滅多にいない。少なくともオレは、オレ以外に使える奴に会ったことはない。


 そんな珍しい魔法を、何故オレが使えるのかは知らない。物心付く頃にはもう使えていた……と思う。幼い頃からこの魔法を使えたオレは周囲の大人たちに絶賛されたものだ。今となっては、ただの懐かしい思い出だが。


 大抵十歳を過ぎた頃から、みんないろいろな魔法を覚えていく。最初は簡単な、火を付ける魔法だとか、水を出す魔法だとか、生活に直結しそうな魔法から覚えていくのが定番だ。もちろん人によって得手不得手というのはある。火は付けることは容易にできても水を出すことは苦手とか、その逆とか。


 だが、オレにはどれもできなかった。苦手とかそういうレベルではない。火を付けることも、水を出すことも、風を起こすことも、土を固めることも、光を灯すことも、他にもなーんにも、オレには全く出来なかった。


 それが判明した途端、オレに対する周囲の大人たちの対応は激変した。珍しい魔法が一つ使えるというだけで、みんなできることが、オレは何一つできなかったのだ。最初の頃はオレを天才だとか、将来は偉い賢者様かと期待していた分、落胆も大きかったのだと思う。


 オレに対する、あの憐れみのような目は今でも忘れられない。夜中に両親が悲しんで泣いていた声が、今でも耳に残っている。オレが村を出たのは、ハンターになりたかったというのが主な理由ではあるが、そんな人達に囲まれて生活するのが耐えられなかったというのもある。


 ……いや、むしろ本当はそちらの方が強かったのかもしれない。


 だが、村を出て、ハンターになっても、状況はそう変わらなかった。なにせオレに使えるのは収納魔法だけで、それがオレの唯一の力であり、限界でもある。


 だからあの日、あのレギーナムトの迷宮で、オレは「お荷物」として切り捨てられた。探索中に遭遇してしまった高ランクのモンスターから逃げるため、パーティの他のメンバーが生き残るため、お荷物であるオレは捨て駒にされてしまった。あの時の絶望感と悔しさは、今でも心の奥底に重く残っている。


 ……でも、だからといって、彼らを恨んでいるわけではない。もしオレが逆の立場で、エリスが危険だったら……? もしかしたら、同じような選択をしたかもしれない。


 だから、この記憶は、単なる苦い過去ではない。オレが繰り返してはならない現実だ。二度と誰かに切り捨てられないように。そして何より、隣にいるエリスを、今度こそオレの力で守り切れるように。この悔しさは、オレを強くする『バネ』なんだ。


 ……まあ、そんなオレを、隣で軽々と支えてくれているのが、このエリスなんだけどな。オレが村を出た時、村の外で待ち伏せしていた彼女は、自分の手荷物をオレに差し出しながらこう言った。


「魔法が必要な時は、いつでも私に言ってよ。私が全部やってあげる。いつでもタクマの傍にいて、タクマの代わりに私が全部やってあげる。その代わり、私の荷物は全部持ってね」


 なんか、すごく……すごく嬉しかった。


 そう。彼女は強い。収納魔法は使えないがそれ以外、剣も、魔法も、何もかもが規格外だ。その力の源には、オレだけが知る、途方もない「秘密」が隠されている。オレが弱いから、彼女はその秘密を隠したまま、隣にいてくれるのかもしれない。もしオレがもっと強かったら……いや、もしオレが『普通』の魔法を使えたなら……?


(……考えたくない。今、エリスはここにいる)


 オレたちのこの関係は、互いの「秘密」と「弱さ」の上に成り立っているのかもしれない。それでも、オレはこの関係を失いたくない。この温もりを、絶対に手放したくない。だからこそ、強くならなければ……。


 ◇


 ふと、耳の中の快感が途切れた。


「……タクマ。こっち、終わったよ。……どうだった?」


 優しい声。ゆっくりと目を開けると、少し頬を赤らめ、どこか誇らしげなエリスの顔があった。大きな黒い瞳が、「ね? すごかったでしょ?」と期待するように輝いている。


「ああ……なんか、もう……すごかった……。魂、半分くらい持っていかれた……」


「ふふん、でしょー? 私の耳かきは世界一なんだから! ……でも、この世界一の耳かきは、タクマ専用だけどね?」


 今、なんて……?


 タクマ、専用……?


 その言葉の意味を考えようとしたが、脳みそはうまく働かない。ただ、心臓だけが、ドクン、と大きく、熱く脈打った。


「じゃあ、ご褒美に反対側も……って、あれ? また寝ちゃってたの、タクマ?」


 頭を、優しく撫でる、温かい手の感触。


(ああ……エリス……。お前のその一言で、オレの魂はもう、完全に持っていかれた……)


 暖炉の光、膝枕の心地よさ、エリスの存在がもたらす安心感と、時折投下される甘すぎる言葉。心地よい眠気が、再びオレの意識を深く包み込んでいく。今はただ、この瞬間に身を委ねていたい。悪夢のことなど、しばし忘れて……。


「おやすみ、タクマ。……今度は、良い夢、見てよね。私の夢とか、どう?」


 ああ……おやすみ……エリ……ス……。オレだけの、秘密の……最高の……。





生成AI (Google Gemini 2.5 Pro) さんにイラスト描いてもらいました。

挿絵(By みてみん)


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