第2話 体験入部、流されるまま陸上部へ
入学して数日後。
俺、天城奏人は、静かに決意していた。
(……できるだけ目立たず、普通に過ごそう)
新しい制服に身を包み、教室に入る。
やっぱり新生活は緊張するけど──それでも、悪くない。
この私立中学は、文武両道を掲げている。
勉強だけじゃない、運動も本気でやる。
各部活にはスポーツ推薦で入学してきた猛者たちもいるらしく、
特に運動部系は、初日からピリピリした空気が漂っていた。
(……やば、ガチ勢だらけじゃん)
見ただけで、筋肉の質が違う。
けど、そんな中でも、俺はまだ気楽だった。
なぜなら、ここでは両親のことを知っている人間がほぼいない。
小学校から一緒に来た数人も、言いふらすタイプじゃない。
普通の一生徒、天城奏人。
それだけで見てもらえるこの状況が、たまらなくありがたかった。
──ただし。
妹・紗良は、今日も異様に目立っていた。
教室に入っただけで、男子も女子もざわめく。
「え、誰あれ……?」「芸能人の娘とか?」
そんな声がひそひそ飛び交っている。
(まぁ、仕方ないよな……)
もはや宿命だと諦めた。
◇
昼休み、机に突っ伏していた俺に、明るい声がかかる。
「なぁ天城、部活どうする?」
顔を上げると、クラスメイトの近藤圭吾が弁当を頬張りながら笑っていた。
「んー、まだ決めてないけど」
「じゃあさ、陸上部行こうぜ! 体験できるらしいし!」
陸上──。
父親が元オリンピック金メダリストだという現実が脳裏をよぎる。
(いや、でも……バレないよな? さすがに)
この学校では、ただの「普通の新入生」なんだから。
そんな風に自分に言い聞かせた。
「まぁ、いいか」
俺はあっさり頷いた。
──そして、そのとき。
隣の席から、小さな声が聞こえた。
「……奏人も、陸上部?」
振り向くと、そこには春日井澪がいた。
小学校時代からの幼馴染。
ふわふわした栗色の髪に、ちょっと天然っぽい柔らかい笑顔。
「うん、見学だけどな」
そう答えると、澪はほっとしたように微笑んで──
「奏人のお父さんも、陸上選手だったもんね」
小声で、さりげなく、だけど確信を突く言葉を囁いた。
「っ……!」
思わず肩がビクつく。
周りに聞こえてないか、慌てて周囲を見回す。
幸い、誰も気にしてない様子だった。
(お、おい……! 澪、お前、それ言っちゃダメなやつだから!)
心の中で全力ツッコミを入れながら、俺は平静を装った。
「……知ってるの、お前くらいだからな」
「うん、秘密にしとくね」
にっこり微笑む澪。
その素朴な優しさに、ちょっと救われた気がした。
◇
放課後、俺と圭吾と澪は、そろってグラウンドへ向かった。
陸上部の体験会には、他にも新入生が集まっていた。
もちろん、中にはスポーツ推薦組らしいガチ勢もチラホラ。
空気が違う。
立ってるだけで速そうなやつがいる。
(うわ、間違えたかも……)
若干ビビりながらも、流れで100mのタイム測定に参加することになった。
「おう、天城! 気楽にいこうぜ!」
圭吾が気軽に声をかけてくれる。
澪も、小さく手を振ってエールを送ってきた。
(……よし)
深呼吸して、スタートラインに立つ。
笛の音が響き──
俺は、走り出した。
地面を蹴った瞬間、わかった。
(体が、軽い……!)
自分でも驚くくらい、スムーズに加速していく。
走るフォームも、腕の振りも、無意識なのにきれいにまとまっている。
全力じゃない。
なのに、体は勝手に「速く走るための動き」をしていた。
(……これ、たぶん父親譲りなんだろうな)
ほんの少しだけ、自分の中に眠るポテンシャルを感じた。
ゴールラインを駆け抜けたとき、周囲から微妙などよめきが聞こえた。
「今の、新入生だよな?」
「……意外と速くない?」
先輩たちが、興味深そうにこっちを見ている。
やばい、目立つのは本望じゃないんだって!
そう思いながら、俺は無理やり表情を引き締めて、
「まあまあだったかなー」みたいな顔を装った。
結局、その日の体験会は軽く走っただけで終了。
「また来いよ!」と先輩たちに声をかけられながら、
俺は圭吾たちと一緒に校門を出た。
「すげーな天城! 陸上部向いてんじゃね?」
「いやいや、たまたまだって」
必死に謙遜する。
でも──
(……ちょっと、楽しかったな)
心の奥で、そんな風に思っている自分もいた。
◇
家に帰ると、リビングのソファに妹・紗良が寝転んでいた。
ゲーム機片手にダラダラしながら、
ちらっと俺を見ると、ふわりと笑った。
「ふーん、陸上部体験してきたんだ?」
「……なんで知ってんだよ」
「バレバレだよ、奏人」
紗良はゲームを一時停止して、真面目な顔になる。
「ねぇ、本気でやってみたら?」
「は?」
「今のままだと、前世と同じだよ」
その言葉に、ぐっと胸をつかまれた。
前世。
何もできず、何も残せず、後悔だけ抱えて死んだ、あの人生。
「……別に、流されただけだし」
言い訳のように返す俺に、紗良はゆっくり言った。
「流されるのも、立ち止まるのも、奏人の自由だよ。
でも──本気で生きるって、決めたんでしょ?」
(……そうだ。決めたんだ)
今度こそ、逃げないって。
もう一度、人生をやり直せるなら、
今度こそ、ちゃんと「俺だけの何か」を掴み取りたいって。
俺は小さく息を吐き、天井を仰いだ。
「……ちょっと、考えとく」
「ふふ、奏人らしいや」
紗良は、またゲームを再開しながら、満足そうに笑った。
──まだ怖い。
でも、心のどこかで、もう走り出したい自分がいる。
そんな、まだ小さな決意を胸に、
俺は布団に潜り込んだ。
明日も、また走るかもしれない。
それとも、今日より少しだけ、本気になれるかもしれない。
そんな希望を抱きながら──。