紅と嘘(完全版)
紅と嘘
ーー“目を背き忌むは大岩の如く、恋焦がるるは大波の如し”ーー
秋の匂いをたっぷりと溜め込んだ病院の一室、太陽の光を優雅に透かす銀杏が見える窓のそば、赤いニット帽を被った少女はベットで横になりながら、おばさん看護師たちが自分の世話をするのを退屈そうに眺めていた。
「わぁ見て見て、外に人が集まってる、何かのイベントかしら」
一人の看護師が窓の外を指差しそう言い、その声に釣られて他の看護師たちも窓の元に集まってくる。
「ほら、紅葉ちゃんも」
別の看護師にそう言われ、紅葉と呼ばれた少女はこっそり視線だけを窓の外に向ける。
「大道芸人ね、紅葉ちゃん知らない?路上で手品とかパフォーマンスをするの。まさに自分を生きる!って感じかしら。」
看護師はそう言って紅葉の反応を楽しみに伺っているようだった。
「私ぜーんぜん興味ないです。カーテン閉めていいですかー?」
紅葉は大人ぶった態度で軽くあしらう。
これはよくあることだった。紅葉はそういう性格なのか、あらゆることに興味を示さない子供だった。
「んもう、紅葉ちゃん。紅葉ちゃんは好きなことないの?いつか元気になれるんだから。そしたら好きなこといっぱいして、素敵な女の子の生活が待ってるのよ!」
そう励ます看護師は側から見れば優しいおばさんと言う言葉がよく似合う人だった。
「はいはい、分かってまーす」
見ていたテレビに同い年くらいの女の子が出てきたのを見て、そっとチャンネルを切り変えるついでにつまらなさそうに応える。
「そろそろお父さんがお見舞いに来る時間ね。あ、そうそう、そういえば紅葉ちゃんのお父さんも歌舞伎の女方さんなのよね?素敵よね〜」
「「「ね〜」」」
他のおばさん看護師らもそれに反応する。
女方とは歌舞伎で女性を演じる男優のことだ。紅葉の父親はそれを生業にしている。
紅葉はそんな様子に呆れつつ、まるで何度もした会話かの様に無機質な声で応える。
「でもお父さん男だよ。女じゃないよ。詐欺師じゃんね。」
「そう、そうかしらねぇ…あ、そろそろお父さんいらっしゃる時間だから私たちは行きますね。」
そう言い、気まずそうに笑って出ていった看護師と入れ替わりに、ずんぐりと大きな背中の父親が部屋に入ってきた。
「紅葉、ただいま。今日も元気にしてたか?やー暑い暑い。ずっと一緒にいてやれなくてごめんな。」
走ってきたのか、はたまた重い荷物のせいか汗をぐっしょりかいた父親が話しかける。黒いTシャツからはみ出た和柄の刺青といい、かなり厳つい見た目だ。バサっと刈られた揉み上げから汗が滴る。
「あ、おかえり。早くぎゅ〜してくれなきゃ紅葉死んじゃう〜」
紅葉の父親、茄之助は急いで荷物を置き、紅葉のブラックジョークに付き合う。近頃の紅葉の発言にはヒヤヒヤさせられることが増えた。それはなんだか諦めのようでもあった。
「紅葉!希望を持ち続けろ!病気が治ったらたくさん可愛いもの着て、楽しい場所に行って、素敵な女の子になれるか…」
紅葉がその言葉を遮る。
「はいはい、もうその言葉聞き飽きたよ。」
「お父さんは何度だって言うぞ!治る!信じれば治る!」
茄之助は紅葉の頭をそっと撫でてそう言った。
なんだかんだ言ってこんな生活が続くのだろう、どうせいつかは元通りになる。そう信じていた。逆にそれ以外なんて一滴も考える由はなかった。
◆ ◆ ◆
古い家が多く目立つしっとりとした住宅街、ただしそれはよくあるそれとは違っていた。耳をすませばリズミカルな音楽や和を感じさせる話し声がどこからか聞こえてくる。その音を辿って行った先にあったのは、住宅街の家なんかよりずっと古そうな木造の建物。
そこは歌舞伎の稽古場だった。中ではスポーツウェアを着た男たちが壁一面が鏡の部屋で劇の練習に励んでいた。ここには女性の姿は見られない。歌舞伎とは女性も男が演じるものであるからだ。汗の酸っぱい匂いが鼻をくすぐる部屋の中で、管弦囃子や江戸時代を彷彿とさせる異様な話し声が響き渡っている。
練習ゆえに舞台セットは用意されてないものの、確かにこの空間には四百年前の風が吹いていた。
シャン♪ シャン♪
「昼休憩入りまーす!」
「ふぅ、疲れた。」
団員たちは一斉に腰を下ろし息を整える。
その中には茄之助の姿もあった。
朝からの稽古をひと段落終え、壁にもたれかかった茄之助は一気に半分近くのペットボトルの水を飲む。
「皆さんお疲れ様です。」
一息つく団員に団長が声をかける。その瞬間団員の心には現代の風がふき戻る。
「お疲れ様ですー。茄之助さんの演技痺れましたよ、あの〜」
「いえいえ、ありがとうございます。田中さんだってあの山から〜」
稽古場に賑やかな談笑が響く。
同じ作品に心を通わせ共に練習する日々を何年も続けている彼らにとって、お互いは家族や親友に近しかった。練習終わりの気の抜けた会話ほど楽しいものはない。
穏やかな秋の昼時。今日は珍しく気温が三十度を超える真夏日。窓から差したギラギラとした太陽の光が茄之助の肌を焼き付け、ジトっとした汗が頬を伝う。
「誰かエアコンの〜〜」
チリンチリン
自転車の音、外では人の生活音が聞こえる。
「今度の公演は〜〜」
ミーンミーン
もう秋だと言うのに、まだ鳴いている蝉がいる。
「私は昨日息子と〜〜」
まるで無の中にいるかのように一瞬にして辺りの音が止んだ。
「そういや今週末って〜〜」
ピリリリリ〜♪ ピリリリリ〜♪
その時、茄之助の携帯に病院から一本の着信が届いた。
突然の出来事だった。
団員たちは一瞬静かになったものの自分に関係がないと分かるとすぐに会話に戻る。
こんなことは今までに無かった。毎日夕方には必ず紅葉のお見舞いに行くのだから定時連絡などは不要のはずだ。
「もしもし…はい…はい…は、」
電話に出た茄之助は目の前が大きく歪んだように感じた。呼吸が浅くなる。その時の顔は数秒前とは打って変わって真っ青だった。
稽古でかいた汗が一瞬で茄之助の身も心も冷やす。
九月十三日。季節に似合わない秋のギラギラした空の下、そこには不気味なほどに大きな入道雲が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
無我夢中で走った。足をこれでもかと動かす。茄之助が気づいた時にはもう病院の廊下にいた。今でも電話の声がずっと頭の中で反芻している。
“紅葉さんの容態が急激に悪化しています。すぐに来てください。”
「紅葉……紅葉……!」
◇ ◇ ◇
案内された重い雰囲気の漂う診察室にて、茄之助は用意された椅子に腰を下ろす。その後しばらくして担当医師は静かに話し始めた。
「お父様、心して聞いてください…予想以上にガン細胞の全身への侵食が早く…もう治療のしようが……紅葉さんは…この二週間…持つかどうか分からない状態です。」
(ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン)
茄之助の鼓動が急激に速くなる。まるで心臓が耳のすぐ横についていると思うほどに鼓動の音しか聞こえない。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
次に看護師が茄之助を新しい病室へ歩いて案内する。まだ昼時なのに不思議と青白くひんやりとした院内は茄之助の不安を掻き立てた。
しんみりとした雰囲気の中、案内の看護師が静かに話し始めた。
「紅葉ちゃんにはまだ体の詳しい容態、そして余命のことは伝えていません。それは、お父様に委ねさせていただく、という形になっております。」
その看護師は紅葉の部屋を担当している顔馴染みのおばちゃん看護師だった。茄之助とも顔見知りで茄之助も普段の様子を知っているのだが、彼女からはいつもの朗らかさは感じられなかった。
「え…その…私は、私はどう言えば…」
「お父様、到着しました、ここが紅葉さんの新しい病室です。」
新しい病室は今までと違い一人部屋だった。そのせいか部屋は無音で包まれていた。
小さく揺らぐカーテンのそばのベットに紅葉はいた。
「あぁ、紅葉…?」
目の前にいるのはたくさんのケーブルが繋がれた娘。かけるべき言葉が見当たらない。それでも声が震えそうなのを隠して名前を呼びかける。
「あっ…お父さん……今日は来るの早いね…」
紅葉のいつになく弱々しい声に困惑するも、茄之助はひとまず平然を装う。
「あっ、ああ…今日は稽古が早く終わったもんでなぁ。」
紅葉は何故か目を合わせてくれない。
紅葉は何を考えているのか、父親である茄之助にもさっぱり検討がつかなかった。
「……お父さん……女の子って…楽しいのかな」
その時、紅葉が静かに口を開いた。この間も紅葉は窓の外を虚ろな目で眺めている。そしてその目線の遠く先には楽しげに歩く女子大生の姿があった。
「あぁ…そりゃきっと楽しいぞ。紅葉も病気が治ったらいろんなすきなことして…素敵な女の子に…」
「嘘つき」
「えっ」
突然の紅葉の芯の通った口調に茄之助は驚き声を上げる。
さっきと違い今回は茄之助の目をしっかりと見て言っていた。
「嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき!みんな嘘つき!全部わたしを励ますためのいいかげんな嘘に決まってる!」
「っ…嘘なんかじゃないぞ。なんでそんな風に思うんだ、お父さん歌舞伎で女方してるから分か…」
「分かるわけないじゃん!男なのに女役なんておかしいよ!女の人の服着て、女の人みたいなお化粧して、女の人みたいな喋り方とか動き方とか!嘘じゃん!嘘の女じゃん!わかった風に言うな!!」
再び紅葉が茄之助の言葉を遮り、暴走したマシンガンのように言い放った後、紅葉は顔をすっぽり布団で覆ってしまった。
「………ごめんなさい…全部嘘…」
紅葉は布団の中から小さな声でそう言い、それ以降喋らなかった。きっとそのまま寝てしまったのだろう。
いつもはあんなにも大人げな紅葉の激昂は茄之助も初めて見たものだった。
きっと今の状況は体力的にも精神的にもキツイのだろう。茄之助は今夜を病室のソファーで過ごすことにした。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
それから数時間が経った。夕暮れも今日の仕事を終え西に沈み、代わって黒が辺りを包みこんだ頃。
「お父様、少し宜しいでしょうか。」
廊下から顔を覗かせた看護師が茄之助のことを呼び寄せた。
それを聞き茄之助は重い腰を持ち上げ廊下に向かう。
「紅葉ちゃんに病状の件はお伝えになられたのでしょうか。」
「いえ…それが、まだです…」
「そうですか…心中お察しいたします。ただ、お父様、人というのは思っている以上に他人に敏感な生き物です。お父様に真実を隠されているということを、紅葉ちゃんはもうとっくに気づいてしまっているかも知れません。」
その後一呼吸おいて再び看護師が口を開いた。
「それで本題なのですが、紅葉ちゃんと、ご自宅に帰るという選択肢もあるということを伝えにきました。」
「紅葉と、あの家に……」
茄之助はそれを聞いてしばらくの間黙り込んでしまった。
「お父…様?どう…かしましたか…? ひっっ」
不思議そうに茄之助の顔を覗いた看護師が小さな悲鳴をあげた。
「…怖い…怖い…怖い…」
茄之助はさっきとはうって変わった様子で、尋常じゃないほどの汗を流しながらぶつぶつと喋っていた。
その後はっと我に帰った茄之助が思い返したように廊下から紅葉の方を眺めた。
頭の中に思い出されたのは、かつて家族三人で暮らしていたあの時間。
それはなるべく考えないようにしていた光景。だけど絶対に手放したくなかった光景。
茄之助は頭がパンクしそうだった。それほどに何かに悩んでいた。
◆ ◆ ◆
心地よく涼しい朝で始まった秋の一日。
赤い屋根が綺麗な一軒家の前に一台の白いワゴンが停まった。
車から茄之助が出てきた後、車椅子に乗った紅葉が押して外に連れ出された。
茄之助が車椅子を押してある家の門に歩き出す。
「さぁ、着いたぞ、紅葉。久しぶりの……我が家だ。」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
病院の車を玄関から見送り、茄之助は車椅子を玄関に畳み掛け、紅葉を抱いて運んだ。
「おー、久しぶりのお家だ。」
薄暗い家の廊下を抱き抱えられながら紅葉は辺りをキョロキョロして言う。
紅葉にとっては半年ぶりの我が家だ。昨日の荒々しさは嘘だったたかのように落ち着いた様子を見せる。
紅葉が大人ぶるような態度を始めたのは入院生活が始まってからしばらくした頃のことだった。ある日を境に紅葉の気性はすっかり変わってしまい、未だに茄之助はその理由を明かせていなかった。
だからこそ、普段は大人びた様子の紅葉からテンションの上がり様が漏れて見えたのは茄之助にとって嬉しいことだった。
「部屋、汚いね。」
ソファに降ろされた紅葉が呆れた様に呟いた。
リビングにはものが散乱し、机の上には食べ終わったお弁当のゴミやビールの空き缶が放置されている。
「ずっとお父さん一人だったからな。気を使う人もいなかったし。あぁあんまり見ないでくれ。 ふんっっ」
茄之助は力を込めた掛け声と同時に窓のシャッターを上げた。窓から太陽の光が入り込み部屋が一気に明るくなる。
「うーんとな…ちょっと待っててな、お父さん片付けするから。」
茄之助は焦っていた。なぜなら紅葉のわがまま、紅葉の好きなことをなんでも叶えてあげようと思っていたのにも関わらず、いざ始めようとしてみると何から始めれば良いのか全然見当がつかないのだ。
「よ、よし、紅葉。家に帰ってきていきなりすぎるとは思うんだが、どこか行きたいところはないか?病院にはダメって言われてるんだけどな、こうして久しぶりに病院の外に出られたことだし、」
その言葉に紅葉が一瞬目を輝かせたように思えたが、すぐにもとの表情に戻って応える。
「特に無いかな、別に、興味無いし…」
紅葉は茄之助の目を見ずに、服の端をいじくりながらそう言う
「えーそんなことないだろ、かわいい服買いに行ったりさ、女の子…」
茄之助は言いかけて止めた。昨日の夜の紅葉のことが思いだされた。あの発言の意図をまだ理解できていないのに、再びこの話題に触れるのは良くないと思ったのだ。
「じゃあさじゃあさ、動物園とか行かないか?水族館とか…」
「それも興味ない、全部興味なーい。いいの、お家が久しぶりなんだから。それより…何これ、木箱に、トランプ?ボーリングのピン?」
ソファの足元には何に使うのかもわからないガラクタが雑に置かれている、それを見ながら紅葉は続けて言った。
「私も片付け手伝うよ、、、ゲホッ ゲホッ」
紅葉がソファから試しに立ちあがろうとしてみた時だった、急に咳きが込み上げてきた。
「大丈夫か、体調悪くなってきてるのか?」
茄之助が床に膝をついてソファの紅葉にすり寄る。
「心配しないで。大丈夫、だから。」
やはり紅葉の体調は悪化しているようだった。
これは強がりなのか、それとも自分に何か隠したいことがあるのだろうか。こんなに弱っても親の自分に言えないようなこと。茄之助は心の隅にしこりのような物を覚えた。
「そうか…じゃ、じゃあお父さん片付けしてるからな、何かあったら呼んでな。」
「うん。」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
紅葉は憂いていた。あたかも昨日のことを気にしていないかのように振る舞ってはいるものの、正直なところ気まずさは拭えない。
ソファにうつ伏せに寝転びながら、せっせと片付けをする自分の父親を目で追う。
紅葉だって薄々勘付いていた。この退院は嬉しいものじゃないんだって。
あの頃はまだ毎日が楽しかったな…
◇ ◇ ◇
思い出すのは、紅葉の入院生活が始まったあの日のこと。
「お父様、今日からここが紅葉ちゃんの病室になります。」
茄之助と共に看護師に連れられた部屋は、外がよく見える大きな窓が一番奥に設置された四人部屋。そこにはすでに三人の患者が入院しており、全員が紅葉と同世代くらいだった。
「ほら紅葉、まずは挨拶だろう?」
茄之助が紅葉の肩に手をかけて言う。
「浜辺紅葉!よろしくお願いしますぅ?うーん、あ、お世話になります!」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
明るく誰とでもすぐに打ち解けられる紅葉にとって初対面の他人との同室生活は苦ではなかった。
紅葉は学校であった楽しいこと互いの共通点や趣味の話題で他の患者を楽しませていた。そしてそれは確かに彼らにとって抜群の精神薬であった。
励まし合うのだって紅葉が先陣を切っていたほどだった。
「紅葉ちゃん、私たちほんとに治るのかな、」
「きっと、いや絶対治るよ!だって調べたらね、今のお医者さんはほとんどの癌を治せるんだって!ほぼ百パーセントってネットに書いてあったし!」
紅葉の言葉はおおかた間違いではなかった。その言葉の通り一人、また一人と退院してゆく。
この頃の紅葉は期待に溢れていた。とうとう次の退院は自分の番なのだと信じていた。簡単に治ると疑って止まなかった。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
(ガラガラ)
ある日のこと、いつもの食事の時間でも、お見舞いの時間でもない時に病室のドアが開かれた。直感で胸が高鳴った。私の番だ、と。
「(来た!)」
紅葉は半分布団から飛び出そうとしながらドアの先を見た。直後体が固まる。
紅葉は一瞬で察した、これは自分の退院報告ではないのだと。紅葉の目の先にはあの日の紅葉と同じように親と看護師、それと自分と同い年くらいの女の子が立っていた。
それからも同じようなことが続き、再び紅葉の部屋は人でいっぱいになった。それと同時期に検査の種類、回数も増えていった。
気づけば二ヶ月が経過している。人もどんどん入れ替わっていく。
「お父さん私に何か隠してない?」
ー「またね、紅葉ちゃん」
「ねぇ、ねえってば!」
ー「バイバイ紅葉ちゃん!また遊ぼうね!」
「治るんでしょ?みんな言ってたよね、きっと治るんだよね?」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
おかしい、何かがおかしかった。どれだけ待っても一向に紅葉の退院の番が回ってこない。父親に聞いても答えてくれない。
もしかすると自分の病気は他の人のものよりも厄介なものなんじゃないだろうか、
誰も本当のことを教えてくれない、これは裏を返せば伝えることがないくらい治療が順調ということか?
しかし、次の日にはもうそんな風には考えられなくなっていた。
茄之助が買ってきた赤いニット帽が何を意味しているのかくらい、紅葉にだって分かっていたのだから。
◇ ◇ ◇
「……葉…紅葉…あぁやっと起きた。そろそろお父さんお昼ご飯作るんだけどさ、何が食べたい?なんでもいいんだ、遠慮はしないでくれ。」
茄之助は紅葉に問いかけた。その茄之助の様子は久しぶりの親子二人の家に喜んでいると言うよりかは、やはりどこか焦りのようなものがあった。
「えっ、何?そんな、うーん、なんでもいいよ。」
「おぉ…そうか、じゃあ焼きそばなんかどうだ、昔良く食べたろ。」
「うん、じゃあそれでいいよ。」
紅葉の合意が取れて茄之助は嬉しかった。ひとまず行動に移ることができるからだ。
「テレビのリモコンここに置いとくからな、掛け布団はいるか?なんか欲しいものあったらすぐにお父さん呼んでくれ、飲み物とかな。あ、エアコンつけるか?」
「もうー、私のことはいいから、はいはいありがとう。」
もう紅葉からは、さっき家に入った当初の機嫌の良さは見られなくなり、いつもの病院での様子に戻ってしまったように思えた。
そう紅葉に言われ茄之助はキッチンに移動した。それでも茄之助は内心喜んでいた。久しぶりに家に紅葉がいる。病院ではできなかった親子らしい生活ができる。紅葉に頼ってもらえる。
キッチンからはリビングでテレビを見てくつろいでいる紅葉の姿が良く見える。昼の時間どきだからなのか、チャンネルをコロコロ変える様子が伺える
茄之助はなんだか不思議な気持ちだった。まるで他人の家にきているように思った。それほどに半年間一人っきりだったこの家に、もう一人がいるという状況は違和感の種であった。
「えーっと、そもそも麺あったかな(ゴソゴソ)あーよかったよかった、あった。賞味期限一ヶ月しか切れてないや。」
「お父さん、それ私に食べさせる気?まぁ私も気にしないけどー。」
小さな声で独り言を言っていたと思ったが、紅葉には聞こえてしまっていたらしい。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
「んー、にんじん硬いや、でもおいしいよ。」
「そうか、そうか、そりゃよかった。作り甲斐があるよ。」
まだゴミが散らかった机の上で親子二人で同じものを食べる。茄之助は幸せだった。この状況がずっと続いて欲しいと思った。未来なんて考えたくなかった。それでも紅葉にはいつか伝えなければいけないことがある。なるべく早くに。
「なぁ紅葉、やっぱり午後はどこかに出かけないか?」
「んもうしつこいなぁ、お家がいいんだよ…どこにも興味なんてないの。」
なぜか紅葉はとろんとした目つきでそう答える。
「紅葉がそれがいいって言うなら強制はできないが」
「へへ、お父さん、ずっと一緒がいいね…ん…」
紅葉は箸を持ち、口から麺をはみ出させたまま寝てしまった。病気のせいで、この時期になると突然の睡眠が頻発するのだと担当医師から聞いていた。
「あーあー食べ途中なのに寝ちゃったよ、」
茄之助は紅葉の食器をわきに寄せ、紅葉をソファーに運び寝かせる、それから紅葉の上にブランケットをかけた。
(昔にも、こんなことあったな、俺がご飯を作って、途中で紅葉が寝ちゃって、それを火花さんが…)
茄之助の頭の中に思い出されたのは、あの、なるべく考えないようにしていた光景。だけど絶対に手放したくなかった光景。
「ウッ…ウゥッッ…」
ガクンと目の前が暗くなり、めまいがした直後、胃の中からさっき食べたものが上ってきた。茄之助は口を手で抑え、急いでトイレに向かう。抑えた手から鈍く濁ったものが零れ落ち、廊下に道ができた。それから茄之助はトイレに着くなり便器に顔をつっこみ激しく嘔吐した。
「ゔぉぇぇえええぇ……はぁ…はぁ…」
まだビチャビチャと口から滴る胃液の匂いが茄之助の鼻を刺激する。
「いやだ、怖い…怖い……」
茄之助はキッチンの食器棚のいちばん奥を開き、ゴソゴソと何かを探し始めた。
「ない、ない!!!」
茄之助は震える手でポケットからスマホを取り出しある人物に電話をかけ始めた。
ー「俺だ、いつもの場所で…あぁ、頼む。」
ー「い、いやだ……頼むよ、お願いだ。」
ー「頼む……待ってるからな!」
そう言い、茄之助は家を出るために立ち上がった。
玄関にいくためには紅葉が今寝ているリビングを通らなければいけない。さっきの音で起きてしまっただろうか。
茄之助は紅葉の顔を見ないようにリビングを通る。なぜだか見ることができなかったのだ。それに茄之助は理由を考えないようにさえしていた。
突如、紅葉がこっちを見ているような感覚が茄之助を襲う。冷や汗が全身に湧き立った。
茄之助は恐怖に似た感情に追われるかのように先を急ぐ。
雑に靴を足にひっかけ、乱暴に玄関の扉を開ける。
いつの間にか外は大雨が降っていた。ザァーという音がうるさいが茄之助が自身の気を紛らわすのには丁度よかった。
◇ ◇ ◇
川が轟々《ごうごう》となる住宅街のあぜ道を歩いてゆく。その足取りは重かったが茄之助は引き返そうとはしなかった。
「紅葉、ごめんな、こんなお父さんでごめんな。」
道中で茄之助は何度もそう呟いては次第に足を早めていく。靴の中にまで染み込んだ雨水が気持ち悪い。
やがて茄之助は、薄暗いシャッター商店街の角にある細道、”いつもの場所”で立ち止まった。
「はぁ、はぁ、流石にまだ来ていないのか、」
首を掻きむしりながらスマホを取り出す。あの通話以降、相手の男から新しい連絡は来ていない。
無視されたかな、と茄之助がうなだれたその時、雨の叩きつける音に混じってコツコツと人の歩く音が聞こえてきた。
その音に茄之助はそっと顔を上げる。そこには例の男がいた。
「この、アホ野郎が」
「やあ…き、来てくれたんだな。」
「お前…この前これが最後だって、言ってたよな。」
茄之助の目の前に現れたのは、かっちりとしたスーツを着た強面の男。そう言って懐からタバコを取り出した。その袖の隙間からは刺青がいくつも見える。
「あぁ分かってる。分かってる…」
「お前は組を抜けた人間なんだから、そもそも俺たちのような奴らとはもう関わっちゃダメなんだ。そろそろ完全に引けよ。でも、お前のあの電話での様子どうしたんだよ。だから、まぁ、なんだ、相談くらいなら乗ってやるよ。かつての仲間じゃあないか、もしかして紅葉ちゃんのことか?」
男は極道の組員だった。そして茄之助も元その組員だった。昔から仲の良かった二人は、茄之助が数年前に組を抜けた後も交流があり、その関係は茄之助がクスリを入手する場所にもなりつつあった。
疲労を飛ばすため、そう言った名目である時から茄之助は男からクスリを買うようになっていた。そして男もその理由から薬を売っていた。
「実はなぁ紅葉の余命はもうそんなにないらしい。残り二週間、会話ができるのは残り一週間。火花さんが亡くなって、もうすぐ紅葉までいなくなる未来がもうすぐそこまで来てる。正直現実から逃げたくてしょうがないんだよ。なぁくれよいつものやつ、ちゃんと払うからさぁ。」
そこまで茄之助が話した途端、男は大声で怒鳴り出した。
「お前はまた逃げるのかよ!かつてあんなに良くしてもらっていた組を、家族のために抜けて、次は家族を失う恐怖から逃げるためにおクスリかぁ?!あぁあぁあぁ、お前が欲しいのはこれかよ!」
そう言って男は胸ポケットから白い錠剤が入ったガラスのボトルを見せびらかす。
「何があろうともお前には絶っっっ対に渡さねぇ。」
茄之助の目に鈍い輝きが宿る。そう、茄之助は薬物中毒になりかけていたのだ。
「くれよ、それがないともう、ダメなんだあ。」
茄之助が男の足元にしがみついて懇願する。
「逃げるなよ!、これからも逃げたら終わりだぞ!紅葉ちゃんのパパはお前一人なんだぞ!」
男が茄之助の両肩を掴んで怒鳴りつける。それに茄之助は怯んだ様子を見せたが、なんとか喉から声を絞り出した。
「う、うるさい!!お前に、お前に俺の何がわかる!!!」
そう言って茄之助は男に殴りかかった。茄之助の顔は涙と鼻水で溢れかえり、ぐちゃぐちゃだった。
「おい!、やめとけよ…!」
そうして茄之助は、男の抵抗も虚しく倒れた男の胸ポケットからクスリを瓶ごと奪い取り、持ってきていた傘も忘れて一気にもと来た道を走り出した。
もう後ろは振り返らずにとにかく前に進むことだけを考えていた。
茄之助の背後から男が何か言っているが、茄之助にとってそんなことはどうでもよかった。
「や…やめておけ!、お前…もう、そのクスリ長いだろ!…心臓……止まっちまうぞ!」
大雨の中を走っていく茄之助に男がかけた言葉はことごとく雨の音にかき消され、ついには茄之助の耳に届くことはなかった。
◇ ◇ ◇
ザッ ザッ ザッ カラ カラ カラ
ザッ ザッ ザッ カラ カラ カラ
足音とガラス瓶の中で何かを揺らす音、二つの音を鳴らして走って来た茄之助が家に駆け込んだ。
服も髪もびしょびしょ、最低限の水分を玄関で絞り出す。
家を離れたのは20分くらい。紅葉はまだ寝ているだろう。しかし今回も茄之助は紅葉の顔を見ることができなかった。
なるべく玄関から遠くの部屋へ進む。あいつは追ってきているだろうか。仮にもあいつも元々茄之助もいた組の一員、下手したら総員で襲ってきてもおかしくは無い。ただ、なぜかそうなるとは思わなかった。
茄之助は今は物置に使っている、一番奥の部屋の和室で心を落ち着けることにした。薄暗い部屋の中には段ボールや最近は使わない歌舞伎の道具が多く置かれている。
「はぁ、はぁ、早く…」
息を落ち着けながら、ポケットから男から奪ったボトルを取り出し眺める。それは片手に収まるサイズのガラスのボトルだった。中には白い錠剤状の“クスリ”がぱっと見でも百粒は入っているように見えた。
まだ息も荒いままの茄之助は、十粒ほどを一気に口の中に放り込んだ。
「水、水」
いつかに貰ったお酒の瓶が段ボールなどの荷物に紛れて置かれたのを見つけた茄之助は雑に荷物をかき分け、奥に進み瓶を手にする。
大きな瓶を片手でつかみ逆さ向きに持つ。唾液で溶けて塊になりつつあるクスリを一気に喉に流し込んだ。
その姿はまるで昔話に出てくるような、村を襲う鬼の姿そのものであった。
「がぁ、ゴホン、ゴホン………あぁ…わはははは、わははははははははは、逃げちゃう?このまま逃げちゃうか?わはははははははは」
茄之助は狂ったように笑い始めた。しかしその笑い声はすぐに止むことになる。
次の瞬間、茄之助は視線を向けた方を見て心臓が止まりそうになった。
茄之助が先ほど荷物をかき分けたことにより、今まで隠れていた物が姿を現していた。
それは亡き妻の遺影が飾られた仏壇だった。遺影の顔はちょうど茄之助の方を見ていた。
「あぁ、あああああ、違うんだ、これは…」
背中から崩れ落ちた茄之助は手足をジタバタさせながら土下座の体勢に体を動かした。
「火花さんがいなくなってこの家には俺と紅葉の二人になった。紅葉に寂しい思いをさせないようにって俺、頑張ったんだぁ。でも、次に紅葉が急にガンになってこの家には俺一人になった…すごく寂しかったんだぁ」
茄之助は顔をぐちゃぐちゃに涙で濡らしながら亡き妻の遺影に謝るように嗚咽を漏らした。
「今こうやって紅葉と二人で過ごしている時間があるけど、幸せな時間があるとやっぱり僕は思い出しちゃうんだよ、火花さんがいた時のことを…いくら今が楽しくったって一週間後にはもう会話もできなくなるらしい。二週間後には…永遠に…一人に…うわああぁあ、怖い、怖い、怖い、現実が怖くてたまらないんだ!!」
そこまで喋った瞬間のことだった、さっき飲んだクスリが今になって効いてきたのだろうか、体と頭がフワッと軽くなるような感覚に襲われ、茄之助の意識は闇に落ちた。
◇ ◇ ◇
「(ここは、どこだっけ。)」
「(僕は何をしていたんだっけ。)」
茄之助は周りを見ようとしてもするが、あたりは白い光で包まれているせいで眩しく、今どこにいるのかははっきりと分からなかった。
時間が経つにつれて光は薄れ、周りの風景は鮮明なものへと変わっていった。
「(ああ、そうだそうだ、今日は紅葉と火花さんと家族三人で初めて水族館に来ているんだったな。)」
そこは四方の壁が水色の部屋、真ん中の低いガラスの壁で囲まれたブースにはたくさんのペンギンと子供達がいた。
五歳の紅葉も、ペンギンの触れ合い体験で、他の子供達と一緒に台の上ではしゃいでいる。
それを囲うように観覧席が設置され多くの親は各々談笑するなり写真を撮るなりしていた。
茄之助は今までずっとそこにいたかのように紅葉を遠くから眺め続けていた。
『おかあさーん!おとうさーん!』
無邪気に紅葉がこちらに向かって叫び手を振っている。
それに茄之助は手を振りかえす。横には紅葉に向かって手を振りかえす人がもう一人座っていた。
茄之助はふと横に視線を向ける、そこには若き茄之助の妻 “火花” がいた。
その視線に気付いたのか火花も茄之助の方を見た。
『茄之助さん、私、今が幸せ。』
『どうしたの?そんな急に、』
茄之助はなんともない様子で応える。
茄之助はこの夢を見ているかのような状態に違和感を全く持っていなかった。むしろさっきまでのことは何も覚えていなかった。
『紅葉が楽しそうに毎日を生きているだけで幸せ。それにこうやって茄之助さんと紅葉の幸せを見るのが幸せ。明日もまた幸せが続くんだろうなって思うのが幸せ。』
そう言って火花は再び視線を前に向けた。そこには相変わらずペンギンと戯れている紅葉がいた。
『(僕もそう思うよ)』
茄之助はそう言おうとしたがなぜか口が動かなかった。しかも視線は火花の方を向いたままで体も動かない。
『私ね、子供って空っぽな器みたいだなって思うの。周りの物を見たり、親の言うことを聞いたりすることによって、だんだん満たされていく。でも、それじゃ、いつか同じようなものでいっぱいになっちゃうわ。だからね、そうなる前に私、紅葉には広い世界をいーっぱい見せてあげたい。好きなものを見つけさせてあげたいの。』
そう言う火花の目からは涙が大量に溢れていた。火花は茄之助の方を向こうとしない。それでも茄之助は火花から視線を外せず体が硬直したままだった。
『だからね、茄之助さん…紅葉を助けてあげて、話を聞いてあげて、』
◇ ◇ ◇
「うぅーん」
リビングから聞こえた紅葉の寝言で現実に引き戻された。
そこはさっきと変わらない埃の被った物置部屋。茄之助はいつの間にか寝てしまっていたのか、もうすっかり夜になっていた。
茄之助は火花の遺影を抱きしめて泣いていた。
「寝てた…のか?」
顔に畳の跡がついているのを確認し、さっきのことを思い出す。
「紅葉は…助けを求めてる…」
(ずっとそうだったのか、)
(自分が気付いていないだけだったのか、だったら何に……何を……)
茄之助は自問を繰り返し再びうなだれた。
その時、突如、秋の空から部屋の中に一縷の風が吹き抜けた。それはカーテンを美しくなびかせ、やがて茄之助の元にたどり着く。心地よく暖かい風は茄之助を包み込んだ。
(あなたならできるわ。紅葉をこんな大きくなるまで育ててくれたんだもの。ありがとう、茄之助さん。)
茄之助ははっと顔をあげる。これはクスリの幻聴か、それならそれでいいと思った。
「でも、どうすれば……」
(長くて残り二週間、会話ができなくなるまで一週間、父親の自分は何ならできるのだろうか。)
「『話を聞いてあげて』か。」
その時、茄之助は昨夜の紅葉からの暴言を思い出した。
あの時の紅葉は何かに追い込まれているようだった。あの紅葉をあそこまでにする”何か”に何もできない、という事実と無力感が静かに茄之助《もみじ》を刺す。
茄之助はくしゃくしゃっと頭を掻きむしる。
その時、寝ているはずの紅葉から声が聞こえた。
「素敵な…女の子…」
再びリビングから紅葉の声が聞こえた。
「…っ!」
その声に茄之助は急いでリビングへ走り、紅葉の元へ駆け寄る。
寝言だった。
紅葉の目尻から溢れた一雫が月明かりで煌めく。
茄之助は動揺していた。紅葉からこんな言葉を聞くのは初めてだったからだ。
自分の病状に強がっているだけと思っていた、小さな子供から溢れでた小さな本音。
自分は我が子に全然寄り添えてなかったのかという不安と罪悪感が背中を這う。
しかし、同時に茄之助の胸の中には固い決心が芽生えていた。
「俺は……この子のために最高の嘘を演じてみせる。」
茄之助はクスリの瓶を持つ手を思いっきり振りかぶり、ゴミ箱に投げ捨てた。
「うおっしゃああぁ、やるぞぉぉおおお!」
いつの間にか雨は止んでいた。外には清々《すがすが》しいほどに雲のない月夜が広がっている。
十四夜月明かりで包まれた家族の家、茄之助はそっと紅葉の額にキスをした。
明日は秋祭り。十五夜の月下に嘘が咲く。
◆ ◆ ◆
見渡す限りの赤、橙、黄。
秋という存在感が溢れんばかりに目に飛び込んでくるような泡盛神社の境内。中心の通りにはあらゆる看板を拵えた屋台が陳列している。
茄之助は紅葉の乗った車椅子を押し、付き添いの看護師と歩いていた。土の感触が心地いい。
人々はまるで車椅子の紅葉を見てはいけない、と言うルールでも裏合わせしているかのようにいつも通りを振る舞う。
大きな赤い鳥居を潜り抜け、数えきれないほどの紅葉《こうよう》に囲まれた赤い桟橋をゆっくりと渡る。
木々の間から挿し込む光にもう青々しさは残っておらず、すっかり黄金色や赤色に変わっている。
来年は見られない、一緒には。
来年には見せられない、紅葉には。
茄之助は楽しいことだけ考えようと思っていても、そう考えずにはいられなかった。
話は昨夜に遡る。
◇ ◇ ◇
「…お願いします。私が父親として紅葉にやってやれることはこれしかないんです。」
そう言って茄之助が診察室で頭を下げていたのは、紅葉の治療を担当する医師であった。
家で決意を固めた茄之助は、あの後、そのまますぐに紅葉が元々いた病院に向かったのだった。
「そうは言っても、紅葉さんの容態を見るに、外出には相当なリスクが伴います。いくら親子の問題、そして…紅葉さんの余命……だからとはいえ、医師の立場から易々と外出を許可することは……」
状況が状況であった。残り一週間を生きられるか分からない小学生の女の子と、一人の父親の運命を自分の発言一つで決めるのはあまりにも責任が重すぎる。
「私は紅葉のたった一人の肉親です。まだ…まだ、彼女に教えられてないことがあるんです。希望を…周りの人間から紅葉に向けられていた愛を教えられていないんです…!」
茄之助は目を真っ赤にして、声を振るわせながら懸命に訴える。
娘を想う父親の姿が医師の心を動かしたのだろうか。それもあるだろう。しかし少し違っていたようだ。まるで医師自身もこの結果を望んでいたかのように、スッと応えを出す。
「わかりました……外出を許可します。しかし、条件があります。万が一のことに備えてうちの看護師を一人手配させてもらいます。いいですね?」
「本当ですか!!ありがとうございます!!!」
二人ともいつの間にか泣いていた。お互い恥ずかしそうに顔を見合わせて笑う。
その時、生ぬるい秋の風が、生意気に笑うようにフッと部屋を吹き抜けた。
◇ ◇ ◇
「それでは後は頼みます。楽しみにしててな、紅葉。」
茄之助は人の流れが少ないところで立ち止まり、そう言い残して二人と別れた。
「それじゃあ紅葉ちゃん、私と行こっか。」
いつかのおばさん看護師が茄之助に代わって車椅子に手をかける。
「えっ…待ってよ、お父さんは?」
「秘密よ」
いたずら顔でそう言って看護師は小高い木造の箱のような建築物に向かって車椅子を押し始める。そこにはすでに大勢の人が何かを待って座っていた。
「これって…歌舞伎の…」
声を出すのも一苦労な紅葉も流石に声を出して戸惑う。紅葉の目の前に現れたのはすでに色とりどりの装飾が施された歌舞伎の舞台だった。
そんな紅葉に看護師は、観客席の一番後ろに車椅子を停めてから話し始める。
「お父さん、紅葉ちゃんに自分の歌舞伎を見てほしいんだって。」
(いや、だから嘘の女じゃん)
おとといの夜のこともあってか、弱った体故なのか、紅葉は口には出さなかった。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
秋は陽が沈むのが早い。辺りはすっかり暗くなり、和の雰囲気を醸し出すライトや装飾で彩られていた。
時間が経つに連れてぞくぞくと観客が集まってくる。
「わー綺麗な紅葉。ねえねえ知ってる?紅葉の花言葉、”大切な思い出”なんだよ。」
近くに座る若い観客のそんな言葉を聞き、紅葉は自分が父親の歌舞伎を見終わった頃、一体その時の自分は何を思っているのだろうと思った。
父親の歌舞伎、紅葉は何回か写真で見たことがあると言うだけで、実際の演技を見るのは初めてのことだった。
今抱いている感情も綺麗に拭い去られてくれるのだろうか、いや、何が起ころうとそんなことはあり得ないだろう。紅葉は再び病院での生活を思い出していた。
◇ ◇ ◇
そんな紅葉もみじにも希望となる人がただ一人いた。
「なっちゃん!お父さんがね、家にあった私のシールケース持ってきてくれたの!」
それは同室に入院する同い年の女の子 なっちゃん だ。彼女が入院してきたのは紅葉もみじより一ヶ月ほど後だったが、他の子が次々と退院していく中、今までずっと入院生活を共にしている。
二人の間で流行っている遊びは、病院内の売店で買ったシールや自分のコレクションのシールを交換しすること。交換する枚数が増えるするたびに小学生女子二人の絆が強まっていくように感じ、紅葉もみじは再び心の平穏が訪れたかのように感じた。
「もみちゃん、また私たち残っちゃったね、私、ちょっとずつ病院飽きてきちゃったな」
「えー私はなっちゃんと一緒で楽しいよ。シール交換嬉しいし。もうこの病院、私たちのお家だね」
紅葉もみじと同じ境遇の友達、それがなんと心強かったことか。「きっと治るから」、こんな日々のせいか、そんな励ましの言葉も自分たちの方を指してくれる日がいつか来るんだろう、そんな気持ちが紅葉もみじの心の中に芽ばき始めていた。
「紅葉もみじちゃん、私、今度おっきな手術があるんだって。こわいよ…」
「大丈夫だよ!みんなも言ってるじゃん、きっと治るんだって!」
「お腹開くんだって、肝臓?よくわかんないけどそれを綺麗にするみたい、いやだなぁ、私今なんともないよ…」
「頑張っておいで!あ、そうだ……コホン、我が親友なっちゃんにこれを預けよう!私の一番お気に入りのシールじゃ!生きて手術から帰って来たらなっちゃんの一番のお気に入りと交換こじゃ!約束じゃぞ!」
「う…うん!約束ね、じゃ…ぞ!」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
その後、紅葉もみじのシールが増えていくことは二度となかった。代わりにただなっちゃんのベットの上の花束が増えていっただけだった。大人はなっちゃんのことさえ、はっきりと教えてくれなかった。
「なーんだ、全部嘘じゃん。」
紅葉の絶望は計り知れなかった。なっちゃんは最後の希望の砦だった。なんならもう一人の自分のような存在だったのだ。「きっと治るから」ただただこの無責任な言葉に腹が立って仕方がない。
それからというもの、紅葉もみじが何にも興味を示さない性格になったのはちょうどこの頃のこと。好きなことが見つかると失った時が辛い。憧れるものがあると自分の現実が目の前に散らついて苦しい。希望なんて持たない方が自分のためだ。
そう思うのももはや自然なことだっただろう。
そんな紅葉もみじの様子はすぐに周囲の人間の目に留まった。
看護師らは紅葉もみじを励まそうと一生懸命になり、「きっと治るから」「すぐに退院できるから」と言葉をかけ続けた。しかしこれでは希望を持ってもらえないと思ったのだろう。いつしか周囲からの励ましの言葉は「いつか素敵な女の子になれるよ」になっていた。
◇ ◇ ◇
突然紅葉の遠くに行ってしまった意識を現実世界に呼び寄せたのは観客席からの爆音。
一斉の拍手をきっかけに隣に座る看護師が紅葉に話しかける。
「あっ!お父さん入ってきたよ!」
紅葉は息を呑んだ。あれが、自分の父親なのか。目の前に広がる景色、それは紅葉にとってあまりにもありえない光景だった。
◇ ◇ ◇
目を瞑る 心臓を叩く 大きく深呼吸 白塗りと木の香りが鼻を撫でる。
茄之助はいつも以上に緊張していた。そのせいかいつもより幾分か鼓動が早い気がする。舞台袖からは橙、深緑、黒の垂れ幕や舞台セットの家、そして大勢の観客が見える。
茄之助が最初の入場だ。
心地の良い機を待つ 一歩前へ さらに前へ 茄之助の鼓動と拍子木の音が重なる。
今だ。
「我が娘に、最高の嘘を」
茄之助は和楽器の演奏と共に舞台へ繰り出した。
◇ ◇ ◇
艶やかな桃色の和服、滑らかな白塗りに包まれた可憐な女性がゆっくりと、小さな歩幅で舞台中央まで歩いてきた。そして、まるでこの機会を祝福するかの様にニコッと微笑む。
「綺麗…」
それは紅葉はから無意識に呟枯れた言葉だった。
周りの観客も指の先まで洗練された女方の艶かしい動作に目を奪われているようだ。
それは女方が歩くことによる床の軋む音さえが紅葉の元まで聞こえるほどだった。
町娘の役を華麗に演じる父親の姿が紅葉の瞳孔をこじ開ける。紅葉の黒目には確かに父親の姿が映っているのだ。
「いやだ……」
紅葉にとって自分の病気はもう治らないということは、ずっと前に確信に変わっていた。
それなのに周りの人間は「病気が治ったら素敵な女の子になれるから」なんて言葉をかけてくる。励ましの裏返しもいいところだ。
それを嘘だと決めつけて、自分から希望を捨てなきゃやってられなかった。そうでもしなければ、紅葉は惨めさでおかしくなっていただろう。
それなのに、
嘘じゃなきゃいけなかったのに…
硬い岩が砕かれていくように、少しずつ感情が露わになってゆく。
それは心の中で、希望を捨てようという決意と憧れという名の感情が、正面からぶつかり合っているような感覚だった。
そうして舞台から目が離せずに、自分の気持ちに整理がつかないまま、眼前の物語は商人の日常の場面から借金取りの場面にまで移っていった。
◇ ◇ ◇
軽快な演奏と共に物語は盛りに突入した。和太鼓や尺八の奏でる音が一瞬にして舞台に喧騒を創り出す。
《借金取り》『いで、けふこそ三千両をさをさ払はせめや、この悪しき商人め!』
借金取りが目を釣り上げて家の扉を息を勢いよく蹴破る。
茄之助はそれに間抜けに驚いたような演技で応えるが、心の中では別のことを考えていた。
(思った以上にライトが眩しくて、逆光で観客席が見れないな。紅葉の場所さえ分からない。)
《商人》『いま少し待ちてえもらはで負ふや、願ひたてまつる。いかでか妻子には手をないだしそ”
商人は声を震わせながらわざとらしく妻子を背に腕を広げて見せる。
(確かに紅葉の言う通り女方は想像上の女、幻の女、嘘の女だ。)
《借金取り》『しか家族が大事か!それならばなんぢの娘を市に売り捌く!』
いかにも悪そうなやつ、と言った風な男が仲間を連れて商人の目の前に迫る。
(でもな、紅葉…女方っていうのは女の女らしい部分をこれでもかと注ぎ込んだ究極のリアルなんだぜ)
《商人の娘》『やめたまへ、な触りそ!!』
茄之助が演じる商人の娘が借金取りに腕と肩を押さえ込まれる。
(俺があの子にできる最期のことは究極の女の子を見せてやることしかないんだ。)
《借金取り》『かくし、かくし、おい!な暴れそ!お前ら、かれを捕まへよ!』
借金取りから逃げ出し家の外に出た町娘だったが、すぐに行き止まりに追い込まれてしまった。
観客たちはすっかり物語の世界に取り込まれ、その場の全員が息を呑み、首を舞台に寄せていた。
(まずい、もうすぐ劇中最大の決め台詞。この台詞を紅葉に……どこにいるんだ紅葉、間に合ってくれ。)
「がんばれー!!」
その時静かな客席から幼い声が響いた。聞き間違うはずもない。あの声は…
(見つけた! ッッスーーーー)
《商人の娘》『我は町一番のこはき娘なり!いかに無謀なる戦ひにもゆめゆめ思ひ絶えはせず!』
(良かった、間に合った!)
「っ…がんばれ!! っ…がんばれぇ!!」
叫ぶだけの体力がないはずの紅葉からは考えられないほど大きな声が出た。
ずっと紅葉の中に巣喰っていた何かは茄之助によってもうとっくに壊れていた。
紅葉にとって茄之助は人生で初めて見た”女の子”だった。素敵だと、心から思った。自分もああなりたいと願った。
《借金取り》『なにと?うおう、やめよ!やめよ!!!』
軽快な和太鼓に合わせ茄之助は借金取りから和服の帯を奪い、走って逃げ去って見せる。
観客は大盛り上がりだ。
「がんっ…ばれ がんばれ!」
紅葉は胸の中に溜まってたもの全てが、波のように押し寄せるかのように叫んだ。それは父への贖罪、歓喜、希望、そして恋であった。
「がんばれっー!がん…うっ…ゴフッ…」
自分の体のことなんてもう気にしちゃいなかった。ただ目の前の光景が羨ましくて、それを見ているのが嬉しくてたまらなかった。
「紅葉ちゃん…?紅葉ちゃん、しっかり!」
隣の看護師が慌てて紅葉の体を支える。
紅葉は血を吐きだしていた。それでも細い首を目一杯伸ばして舞台の方を見ていた。今まで目を背けていた分を埋めるように、一瞬に永遠を願うように、ほんの一秒でも多くその場の一部でありたかった。
生きたい。私も、“素敵な女の子”になってみたい。
もう嘘は嘘じゃなかった。紅葉の目からは大粒の涙が溢れる。かつて嘘だと決めつけていた、病気の自分へかけられた励ましの言葉が思い出されてゆく。
“紅葉ちゃんなら絶対に治るんだから!”
“紅葉!希望を持ち続けろ!”
「嘘な…もんか、…ゴホッ…嘘な……もんか! ゲフッ… 私っ!…だって……………」
「紅葉ちゃんっ!ダメっ…死んじゃう…だれかっ、だれかっっっ…!!」
・
・
・
◇ ◇ ◇
ようやく劇も閉幕を迎え、茄之助は舞台の撤収作業に取り掛かっていた。
「(紅葉、楽しんでくれたかな。)」
茄之助は逆光でよく見えない観客席の紅葉の声が聞こえてきた方向に目をやる。
「紅葉、今もこっちの方見てるのか?歌舞伎、どう思ってくれたかな、早く会いたいな。」
茄之助はそんな独り言を言って恥ずかしくなってみたりもした。
(まだ時間はたくさんあるんだ、この後は紅葉と一緒に屋台を回ろう。)
自然と笑みが溢れ、片付けの手も速くなる。
それは突然の出来事だった。
「うっっ……」
息ができない。キーンという音が頭の中で響いている。心臓が痛い。視界の外から黒いモヤが入り込んでいく。
「(なんだ…まさかクスリが障ったのか…)」
まるで周りの時間がゆっくりと進んでいるかのようだった。茄之助は頭からゆっくりと木の床に倒れた。
◇ ◇ ◇
「歌舞伎面白かったねー、あの商人の娘役の女役者さん超素敵だった!」
「え?歌舞伎役者は全員男だよ、」
「え?嘘?!そうなの?全然気づかなかった!」
ヒュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ヒュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その時、満月の夜空を二本の花火が天高く昇って行った。
「あっ、花火大会始まる!」
土手に座り込む観客も皆、音に合わせ顔を上へ向ける。
次の瞬間、二つの花火の光が澄んだ夜空で弾け、夜の境内を美しく照らした。
ーー“目を背き忌むは大岩の如く、恋焦がるるは大波の如し”ーー
それは、なんとも美しい紅色の花火だった。
〜終(?)〜
桜が綺麗に咲き誇る街の高校某所。時は三月。学生はちょうど卒業シーズンを迎えていた。
「いやー楽しい高校生活だったね、もう大学生だって、信じられる?」
「無理無理ー、で、どうする?この後カラオケでも行っちゃいますか?」
「いいねいいね!」
「浜ちゃんも行くよねー」
そう言われ一人の少女に他三人の目線が集まった。
「えぇーっとー、ほんっとごめん!私いかなきゃいけないところがあるんだ。だから打ち上げには行けない。じゃあね!ごめんねみんな!またいつか!」
「えー連れないな〜また連絡してよね〜〜」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
その日高校を卒業したばかりの少女が走るのは古い家が集まった住宅街。
この日を八年間待ち望んでいた。
それはいつかの歌舞伎劇場のある街。
耳をすませばリズミカルな音楽や和を感じさせる話し声がどこからか聞こえてくる。
思いっきり足を動かし約束の場所へ、ただひたすらに突き進んでいく。
「はあ、はぁ、」
「おっ来た来た。みんなー注目。今日から俺たちの劇団に新しく加わる仲間を紹介するぞ!さぁ、まずは挨拶だろ?」
がっしりとした背中の大男が少女の背中に手を回して言う。
「浜辺紅葉!お世話になります!」
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