6.
いつも通りの日常は、ふとしたきっかけで崩れていく。
普段通りの仕事を終えての一人っきりの晩酌。とりあえずと電源をつけたテレビからは、多少騒がしいバラエティー番組が流れている。だがいつもただ眺めていたテレビには目もくれず、俺はいつもとは異なる映像を凝視していた。
立ち上がろうとした瞬間、膝がちゃぶ台にぶつかったことはあるだろうか。恐らく皆一度は経験したことがあるだろう、俺は数えきれないほどある。何度も経験し、もはや俺にとってはハプニングでもなんでもなく、たまに起こる日常の一部になりつつある出来事。
日常に準ずるレベルにまで達するとその後の展開は秒で察することが出来る。ちゃぶ台の端に置いている飲みかけの缶ビールや湯呑に入ったお茶が台に、最悪落下して床にまで惨劇を生み出す。今回でいえば、缶ビールが盛大に床に零れる、そのような未来が瞬時に見えてしまう。だが分かっていてもそれを止めることは出来ない、それが抗うことのできない「現象」、決まりきった「日常」というものだ。
―――そんな日常が、変わった。突然に、何の前触れもなく。
ちゃぶ台は揺れ、その影響で缶ビールは落ち、中身の液体が床に溜まりを作る。その結果は変わらない。そう、缶が床についていない、宙に浮いているといういつもの「過程」を変えて。
物が落ちそうになると、反射的に手を伸ばしてしまう。だが、毎度のこと手を伸ばすが、掴めず床を拭かないといけないな、とアンニュイになる、それが私の日常だった。だが、これはどういうことだ。
私の手は缶には達していない、にもかかわらず、缶の側面は握っていることを示す少しの凹みと手で何かを持っているという感覚が確かに存在している。缶を離したいなと思ったら、何もなかったかのように缶は床に引き寄せられるように落下した。
床に溜まり場を作ったビールを拭きながらいろいろ考えたが、結論は「早く寝よう」というものに至った。
一時的とはいえ缶を触れることなく掴んだ、だなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんな奇想天外な出来事よりも、仕事疲れや酔いによる幻覚の方が納得がいくものだ。そうだ、きっと疲れている、だから早く寝て疲れを癒すということになるのだ。日常とは異なる「異常」をとにかく否定したい、ただその一心だった。だがそんな思惑はすぐに捨てることになった。
翌朝、俺が異常だと思っていたものが当たり前になっていた。
手に取りたいと思ったものに向かって手を伸ばし、掴むジェスチャーをすれば、掴んでいる触覚と空中に浮く映像が私に直面した。
昨日の幻覚や夢ではなかった、その事実を受け入れなくてはならないと自覚した時には便所に直行していた。酷い嫌悪感を感じた、自分の身に何が起きたのか全く分からない、あの掴んでいる感覚がなにより気持ち悪い。だが一番恐ろしく感じたのは、俺の身体のことだ。
こんなにも酷い気分にもかかわらず、俺の身体はあの現象を見ても一切の震えを生じていない。それはこの身体が、あの掴んでいる感覚と映像を当たり前の日常だと認識しているように思えてしまったからだ。
「…俺は、何なんだ」
ごちゃごちゃにかき混ぜられ、溢れ出たよくわからない感情とともに言葉が零れた。あの信じられない現象もそうだが、それを俺自身の手で生み出していることが受け入れられなかった。どうにかして理論的な根拠を並べて、自分を納得させようと頭をフル回転させる。そうでもしなければ、自分が自分でいられなくなる、そんな気がしてならなかった。
だがその瞬間、抗いきれない何かが俺の思考を阻害する。無性に何かを欲している、だがそれが何のか分からない、何を欲しているのか分からないことにイラつきを隠せない。
何かにぶつけたい、誰かにぶつけたい、家族?同僚?知人?見知らぬ誰か?
何かをぶつけたい、イラつき?不安?憎しみ?理不尽?殺意?
「あ、あぁぁ、ああ」
不思議な欲望に身体が耐えられず、その場に倒れこみ、頭を必死に抱える。もう自分は昨日までの自分と明らかに違う、その事実を自分に訴えかけるしか出来ない。
その痛みと苦しみを紛らわすために、右手を大きく振りかざし、倒れこんだ床に大きくぶつけた。今までの人生でここまで力強くぶつけたことはなかった。
その瞬間、痛みと苦しみが徐々になくなり、数秒もしたら嘘のようになくなっていた。床にぶつけた時に思いついた一つの考え、そこにたどり着いたことを祝福するように。
―――そうか、もう人ではないということか。
脳裏に浮かんだ言葉、その事実を受け入れればよかったのか。今まで何気なく送ってきた人生で形成された倫理観が頑なに受け入れるのを拒み続けていた。それが苦しみの原因だったのだ、もう諦めて素直に受け入れる方が楽になれる。
その考えに至った瞬間に、俺は考えることをやめた。
そして、気づいた時には部屋を飛び出していた。無我夢中に逃げるわけではなく、もう今までの「日常」に戻れないことを胸に刻みつけるように、後ろを振り返ることなくただ走っていた。