8.
季節は春、日中は穏やかな暖かさに包まれるが、夜中はその暖かさからは想像もつかない冷たさが俺たちを待ち構えている。
そんな冷たさを置き去りにするかのように、俺はひたすら走り続けた。無我夢中だった。舗装されたアスファルトの道路を強く踏みつける。やり場行き場のない、この何とも言えない、この身体から込みあげてくる「何か」を足に込めて、ただひたすらに走り続けた。
はぁはぁと零れる吐息から生じる白い息、ダンダンと力強く踏みつける足音を置き去りにする。二度と戻らないものに執着しない性分なのだが、今日だけはその性分を捨てよう。
白い息の行く末を見るためにチラッと後ろを見る、覗き見るかのように。俺から出た白い息とその発生源を捉えて離さない視線が、俺の足音から少しずれて聞こえるタンタンという軽い足音が、俺の背中を決して逃さない「亡霊」が追ってくる。
一度殺した名前しか知らない少女はきっと陸上部だったのだろう、一歩一歩の歩幅は俺よりも小さいが、それを補える技量を感じさせる。それほどにまで走る姿は美しく見えた。
亡霊と言うには程遠い、俺を追う姿は逃げる死を追う「死神」だろうか。死神と言えば髑髏の仮面をする黒い姿を連想させるが、仮面を一度取れば、あのような可愛らしく美しい死神もいるのかもな、と思ってしまう。軽い足音が良く聞こえてくる。
…嫌だ。
もう諦めてしまおうか。警察に捕まるのは時間の問題だし、きっとどう転んでも死刑かそれとそう変わらない扱いが待っているに違いない。
…嫌だ。
死んだ彼女が、それとも彼女だと偽る誰かなんて今となってはどうでもいい。俺を追う存在に今殺された方が後のことを考えれば賢い選択なのかもしれない。
…嫌だ、嫌だ。
それに罪を問いただす法廷に立ったとして、何といえばいい。離れていても物を掴むことが出来ます。刺した包丁は近所の家から勝手に持ち出したものです。台所近くの窓の鍵を開けて、外から持ち出しました。
…嫌だ、嫌だ。
――侵入経路は?住人は貴方を見ていないと言っているのだが?その方法では家に入らなければいけないでしょう。貴方は本当に反省しているのですか、馬鹿にするのもいい加減にするように。
…嫌だ、嫌だ、嫌だ。
――何言ってるんだよ、こいつ。言い訳するなら、もっとちゃんとしたものを言えばいいのに。小説やアニメじゃあるまいし…。
…嫌だ、嫌だ、嫌だ。
――うわっ、本当に宙に浮いたっ!?どういうことなの?何かの手品でしょ、きっと。けどそんなこと、裁判所が用意なんてするわけないだろ。じゃあさぁ…。
…嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。そんな目で俺を見るな、そんな言葉を俺に浴びせるな。何も知らないくせに、信じる気なんて最初からないくせに。そんな、そんな目で…。
そんな「化け物」を見る目で、俺を見るんじゃねぇよっ!
警察に捕まって真実を話そうと囁く天使、今ここで殺されようと囁く悪魔、どちらを取るかの選択。けど俺はどちらも跳ねのけた、示された道を選ばなかった。
フフフ、と僅かな微笑みが零れた。何がおかしいのか、ああ可笑しいだろうさ。自分はもう人ではない「化け物」だと自覚しているくせに、自分以外の誰かからそう言われることが堪らなく怖いのだ。
もう道から外れているくせに、まだ軌道修正できるのだと頑なに認めようとしていないのだ。自分の中に微かに「人間」が残っている、それがこの未練がましい葛藤を生んでいる。それが俺を悩ませている、苦しめている。
だがどうすればいいかなんて、そんなものは分かり切っている。分かり切ってはいるが、その決心がつかない。それは取り返しのつかない選択だ。
眼前にあるのは直線と左折の分岐点。直線には天使が、後方には悪魔がいる、そう思えた。
二つの存在によって示された道は、「人間」として俺が歩むことのできる道と言えよう。選択の時は、いつだって思いも寄らず急にやってくる。その唐突さに理不尽を感じる人生だったが、今はそれがありがたかった。追い詰められたからこと、選択することが出来る、決心することが出来る。
俺は左折した。天使と悪魔、どちらを選んでも行きつく先は近いうちの死であることは明白だ。
けど、俺は生きることを選んだ。殺人を犯した罪の意識をこれからも持ち続けながら、逃げて生き続けることを選んだ。そう、「化け物」らしく足掻いていくのだと。
左折した道もまた、アスファルトで舗装されている。だが、もうこの先はあまり人がいないのだろうか、電灯の数があからさまに少なくなっていた。
明かりがない分、奥は闇で先が見えない、はたしてこの先も舗装されているのだろうかと不安になるほどに。だが、俺には丁度いい。示されてもいない道を進むのだ、きっと誰も通ったこともないのだろう。
恐怖は感じる、だがその恐怖も心に秘めた決心の前では意味をなさない。「人間」が通らない、獣道こそが「化け物」の俺にふさわしいに違いない。
だからこそ、追ってくる死神と決別しなくてはならない。左折すれば彼女もまた左に曲がるだろう。その時が最大の好機、たった一瞬と言えど俺の姿を離す時間が生じる。その一瞬で攻勢に転じるしか俺が生きる術はない。
俺は左折し、彼女が左に曲がるまでの数秒で真逆の体勢にし、彼女を正面に捉える。そして俺は、俺は能力を発動させる。
左へ曲がった彼女は足を止めて、そして目を見開いていた。俺が正面を向いて立ち止まっていることにも驚いていただろうが、それ以上に衝撃的な光景が待ち構えていたからだろう。俺の周りに漂っている十数本のナイフや包丁、その鋭い刃先が彼女の方へ向いていた。
「さあ、いくぞっ」
掛け声とともに、電灯の光によって白く輝くものたちが彼女の方へ向かっていく。公園での油断はもうしない、千里と名乗る亡霊に二度目の死を与え、俺は生きる道を歩み続けよう。大きく、そして苛烈に襲い掛かるであろう罪悪感とともに。