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Emotional Colors  作者: 上川 千尋
第1章
10/12

7.

 血が流れ、倒れた。

 だが、俺の予想とは大きく異なる。「俺」の口元から血が流れ、「俺」が地面に倒れこんだ。俺の掴んだナイフが彼女に刺さる前に、彼女の左手が俺の右手を掴んだのだ。何が起きたか理解する間に、彼女の右足が私の顎に向かって蹴り上げた。口元を切り、顎が外れそうになる痛みを感じないほど、体の中ではアドレナリンが分泌されており、それほどの興奮状態に陥ってしまっている。だが、それよりも脳裏に満たされた疑問を彼女にぶつけずにはいられない。

「なんでっ、動けるんだっ!」

 膝をついたまま、彼女を見上げるように睨みつける。動揺と痛みを感じ始めたことによる苦痛から生まれた俺のイラついた表情とは裏腹に、彼女はただ茫然と俺の方を見つめている。

 まるで今起こった暴行を自分事とは一切思っていない、ただ眺めていただけの傍観者の立場かのように。だがそれも長くは続かず、実感がわいてきたのだろうか、徐々に表情は柔らかくなっていく。何かを悟ったような、そんな優しそうな表情だった。

「…まさか本当に。そんなことって…。…ははっ」

 蹴り飛ばされた距離でも僅かに聞こえるくらいの呟いた彼女の声、先の優しそうな表情は一変、大きく崩れていった。腹部と口元近くに手を当てると、大きな声で笑い出したのだ。その声色から感じたのは狂気、いや歓喜にも似たもの、どちらにしろ良い印象を与えない、聞く者の背筋に震えを与える声。俺にとっては他人事ではない、どこか聞き覚えのあるものだった。

「……こんばんは、殺人鬼さん」

「…殺人鬼?」

 ひとしきり笑った反動だろうか、彼女は落ち着きを取り戻し、俺に微笑んではそう挨拶をしてきた。彼女の発した言葉は間違いないだろう。

 だが彼女の言った「殺人鬼」という単語を聞き返してしまったのは、まだ俺自身が殺人をしたという実感が湧いていないためだろうか。それとも俺の奥深くにある善の心がそれを否定し続けているのか、俺には分からなかった。

 俺の戸惑う声に、彼女は可愛らしく首を少し横に曲げて疑問の意志を伝えてくる。その姿勢は妙に堂々としており、そこに俺は違和感を感じた。

 俺のやった事件は近いうちに警察に発覚するだろう、この国の警察は優秀であることは言うまでもないのだから。古くからのことわざにもあるように、悪事というのは予想以上の速度で広まっていくのだから、俺の知らない間に警察が指名手配をし、一般人にさえ事件のことや予想される犯人像が流れてくるだろう。

 だが今の彼女を見ていると、噂や情報を耳にしたとは明らかに違う。彼女は俺が殺人鬼ということを知っているというよりかは、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そんな確信に満ちているように感じずにはいられない。

「どうしたの?…目の前で、しかもあんなに楽しそうに殺してくれたくせに否定するの?」

「何言ってるんだよお前。…俺は、お前なんて知らないっ」

 そう、知るはずがない。この公園の外で見るまで彼女のことなんて見たこともなかっただから。俺は知らないのに、彼女は俺のことを知っている、しかも俺の殺人についても間違いなく知っている。

 ふと脳裏によぎる単語、それはあまりにも馬鹿馬鹿しく、二日前なら鼻で笑っていたであろうもの。だが昨日という境目で俺という人間の思考は大きく変わってしまった。その単語の存在を否定しきれない、俺自身がそれに親近感を感じてしまっているから。

「私は知ってるよ。…あの時は痛かった、けど不思議と思ったより苦しくはなかったの。あんなにガンガンガンガン、耳障りな音で満たされていたからかな。心も身体も恐怖に支配されてるとさ、あなたの持ったナイフが待ち遠しかったの。早く終わらせてほしいって。この音から、苦しみから、恐怖から解放してほしい、…はやく殺してほしいって。けど死んでみて冷静に考えるとさ、やっぱり死ぬのを望むべきじゃなかった。友達が私のことを心配してくれてるのを見てるとね、心がギュッと締め付けられるの。私の大切な人たちを悲しませるようなことを考えるべきじゃなかったって、自分に怒りを感じて仕方がないの。…教えてあげる、殺人鬼さん。殺されてもね、心は生きてるときと変わらないの」

「…まさかお前、幽霊だって言うのかっ!…そんな、そんなオカルトじみたものを信じろってのかっ!」

 ここまでの大声を出したのは久しぶりだった。それほどにまで目の前の存在を否定したかった。自分のことなど、今は棚に上げてでもそうしたかった。

 だが俺の身体は震えている、足は後ずさりをしている。その行動は化け物からの逃走の準備と言える。それはすなわち目の前の存在が化け物だと認めていると言える。辛うじてこの場に留まることが否定の意志をなんとか持ち続けられている、その証拠だろう。

「…千里。私の名前はね、若石千里って言うの」

「…ちさと?…あっ、あああああっ!」

 刹那、俺の頭の中で「ちさと」という名前とともにあの時の光景がフラッシュバックする。

 少女の籠った部屋のドアを叩く時、カラカラッと何かがドアにぶつかる音もしていた。特に目を向けてはいなかったが、一瞬でも目に入れば記憶に残るほど目立つものだった。

 ドアと同じ木材で作られたネームプレート、そこに彩りよく木材が貼り付けられていた「CHISATO」という文字。


 それを思い返した瞬間、俺は全速力で化け物を背に走り出した。

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