9話 王弟とフレッサ
「ドロシー、部屋に戻るわ。お父様はもうしばらく殿下とお話しをされるようです」
王弟の部下たちにも聞こえるようドロシーに伝える。
もし彼らがいなければ、ドアの外や隣の部屋から会話を盗み聞きすることもできただろうが、今の体制では難しい。大人しく部屋に戻るしかなさそうだった。
「お疲れ様です、お嬢様。体調はお変わりありませんか? お疲れではありませんか?」
「大丈夫よドロシー。エンファダード殿下はとてもお優しい方だったわ。またラウレル殿下とお会いする機会を頂けるそうよ」
「それは楽しみですね! お嬢様もご挨拶を頑張った甲斐がありましたね!」
「……ええ、とても。ラウレル殿下はもちろんだけど、次エンファダード殿下にお会いできる日も楽しみだわ。今日はあまりお話できなかったんだもの」
いつもよりも大きな声で、王弟の部下たちなど気にしていないかのようにドロシーに話を聞かせる。
これで私がラウレルに恋をしている、エンファダードに懐いているという印象を王弟の部下たちはいだいてくれるだろう。そうした方がおそらく便利だ。王弟自身の判断だけではなく、周囲からの「フレッサ令嬢は扱いやすい」という評価がある方が警戒されないだろう。
私室について、上等なドレスを脱ぐ前にベッドに倒れ込む。
「お嬢様、皺になってしまいますからおやめください! お疲れなのは重々承知ですが、先にお着替えをしましょう」
ごろりと倒れ込んだ直後ドロシーに回収され、ドレスを脱ぐために立たされる。
「ねえドロシー。ドロシーから見てエンファダード殿下ってどんな人だと思う?」
「えっ私から見てですか? そんな私から評価するなんて恐れ多い……」
「印象でいいの。良し悪しじゃなく、気づいたこととか」
「そうですねえ……なんだか不思議な方だったかな、と」
「不思議?」
改めて王弟の姿を思い浮かべる。
精悍な顔立ちに飴を溶かしたような瞳。身長は高いが体つきはひょろりとしている。顎は尖り、長い金髪はリボンでくくられている。
優雅な高位貴族の姿そのもので、不思議、という感想に首を傾げた。
「ええ、王弟殿下は立派な杖をついていたでしょう」
「あああの。銀色で鳥の頭のついた……」
確かにドロシーの言う通り、エンファダードは仰々しい杖をついていた。床にぶつかる度重々しい音を立てていた。私としては少しでも威厳を見せるためのアクセサリーだと思っていた。思い返せば、式典で衆目に晒されるときも、王のすぐ後ろに控えるエンファダードは必ずその銀色の杖をついていた。
「少し同僚たちから王弟殿下がどんな方か聞いてきたんです。そしたらその中に、“王弟殿下は足を悪くされている”っていう話がありまして。足を悪くされているから杖をついているという話だったのですが」
「……ですが? 足が悪いなら杖をつくのはおかしなことじゃないわ」
ドロシーは少し悩むようなそぶりを見せてから小声で言った。
「王弟殿下、実は足が悪くないのではないでしょうか」
「えっ、どうして?」
「王弟殿下の杖、大きすぎるんです。音を聞いていても重い金属の音がします。私の祖父も足を悪くして杖をついていたんですが、歩行を補助するものなら杖は少しでも軽くするのが普通です。それなのに、あんな大きな杖を選ぶなんて、向いていません」
金属の音、そこまでは気が付かなかった。まさか少し廊下で姿を見ただけのドロシーがそこまで聞き分けられるとは思いもしなかった。
確かに足が悪いというなら素材はきっと木材が向いているだろう。なのに重々しい金属を使っているのは不自然だ。ただ私が思った通り、箔をつけるためにしているのかもしれないし、あるいは足が悪くても軽度であるのかもしれない。だが杖をついている時点で弱みを見せていて、あまりプラスに働くとは思えない。それに使用人が知っている噂のレベルで足が悪いという話が降りてきているということは、特にそれを隠してもいないのだろう。
「……足が悪いっていう噂を流して、相手の油断を誘う、とか?」
「私にはわかりかねます。いえ、本当に足が悪くて、単純にその杖が身体にあっているという可能性もありますし。……不思議っていうのも私の所感でしかないので話半分に……」
「いいえ、ありがとうドロシー。ドロシーって耳が良いのね」
「恐縮です。こんな私の特技ですが、お嬢様のお役に立てるならうれしいです」
「……ところでドロシー。今お父様と王弟殿下の会話を盗み聞きすることはできる?」
「隣の部屋に入り込めればできるかもしれませんが、今は廊下に殿下のお連れ様がいらっしゃるので難しいですね」
盗み聞きすること自体にはなんの逡巡もないドロシーに乾いた笑いがこぼれる。冗談のつもりだったのだが、頼もしい。
「盗み聞きすること自体はいいんですか」
「良くはありませんよ。ですがピナお嬢様が必要だと思うなら、それは必要なことなのだと思います。あなた様がお二人のお話を知りたいのは、このおうちのためでしょう。ならば私は私にできることでお役に立ちたいと思うのです」
「ドロシー……」
まるで私の言うことを疑わない姿に胸が詰まる。思えば私がこれからどうしていきたいか話しているのは彼女だけだ。きっとドロシーは私がどんな選択をしたとしても私についてきてくれるのだろう。
私は今の選択が正しいのかわからない。
20回繰り返し、選ぶことすらできず失敗し続け死に続けた私は、どうすれば自分が、みんなが罪を犯さず平和に暮らせるのかわからない。
「あのね、ドロシー」
「なんでしょうお嬢様」
「……これはわたくしの独り言なのだけれど、これからフレッサは王弟殿下と仲良くしていく方針となりそう」
「っ、」
独り言、と宣言したからか、ドロシーは返事もせずただ息を飲んだ。一介の使用人が相談を受けられるかわいらしい話ではない。重々わかっているからこその独り言だ。
「お父様は王弟殿下とお会いする機会を増やすでしょうし、王弟殿下のために動いたり、家の方針を変更することがあるでしょう。そしてわたくし自身も、王太子殿下とお近づきになる必要が出てきそう。きっと王弟殿下にとってはそれが……都合がいいから」
王弟派につきつつ、何も考えていない子供個人としては王太子と懇意になる。コントロールできない子供として野放しにするふりをしつつ、根本では手綱を握り続ける。エンファダードはそうして、ラウレルを害する手段を確保しようとするだろう。
「家の方針については、わたくしでは口出しできないわ。どれだけ聞いても考えても、わたくしはただの娘でしかない。きっとお父様はわたくしを頼ろうとすることはないでしょう」
「…………、」
「ねえドロシー。だからわたくし、あなたに見ていて欲しいの」
「……閣下のことを、ですか?」
「いいえ、わたくしのことを。家のことやお父様のことじゃなくて、わたくしを」
「お嬢様を、ですか?」
「ええ。わたくしが何か間違えた時、どうか教えてほしいの。後戻りができなくなる前に。あなたが間違っていると感じた時、正直に」
逃がさないというように、丸く茶色い瞳を見つめた。無茶を言っているのはわかっている。一使用人でしかないドロシーが、主人の一人娘である私に意見することなど許されない。いや、想定されない。まだまだ若い奉公人である彼女には、あまりにも荷が重いだろう。
それでも私は確信している。
今まで積み重ねてきた彼女との生活の中で。
今まで消えてきた彼女の命の在り方の中で。
ドロシーは決して裏切らない。ドロシーは決して離れていかない。
いついかなる時も、私の味方でいてくれる。
「で、でもお嬢様が間違えることなど、」
「間違えるわ。わたくしは人間よ。常に正しい道を選べるわけじゃない。……いつかきっと、どこかで間違えてしまう日が来る。そのとき道理に外れるような行いだったなら、どうかわたくしのことを諫めてほしい」
ドロシーの瞳が戸惑い揺れる。当然だ。安請け合いはできない。けれど私は答えを聞くまで彼女を見つめ続けるのをやめなかった。
「これからわたくしは、フレッサ家が、この屋敷のみんなが幸せになれる未来を探し続けるわ。あなたはわたくしの一番近くで、わたくしのことを見てくれるでしょう。あなたが一番の頼りなの」
ややあって、ようやくドロシーは首を縦に振った。
「……承知いたしました。不肖の身ながら、もし何か感じることがありましたら、進言させていただきます」
「ありがとう。そう言ってくれると思ったわ」
「それが、お嬢様のお望みなら。私は心を鬼にして申し上げます」
逃げることなく私の手をとったドロシーの手を強く握り返した。
今の私は、今までの私と違って自由に動くことができる。
けれどいつか、またかつてのように身体や口が勝手に動きコントロールできなくなる日が来るかもしれない。
いつか雁字搦めになって動けなくなって、間違った方に進まざるを得ない日が来るかもしれない。
けれどどうか、彼女だけはそれを教えてくれるように
私の命令に諾々と従い、命を落としてしまわぬように。