7話 王弟とフレッサ
私、ピナ・フレッサには苦手な人間が2人いる。
一人は何度も私に引導を渡し続けた騎士、グラナダ・ボタニカ。短い黒髪の大柄な男。いかにも忠実な騎士然とした彼の顔を思い出すたび、私はあの浮遊感を鮮明に思い出すことができる。
私の死、そのもの。
そしてもう一人、間接的に私を死に導いた人がいる。
「ピナ、明日の午後お客様がいらっしゃる。大切なお客様だ。しっかり挨拶なさい」
「お客様、ですか?」
今日も元気に森から帰ってきた私をドロシーは血相を変えて出迎えた。
「旦那様がお呼びです」
そしていつも以上の手際の良さで泥だらけの子猿のような私を貴族令嬢に変身させた。
父は私が森へ行くことをよく思っていない。おそらく貴族令嬢らしい貴族令嬢になってほしいのだろう。それこそ、王太子に恋心を抱き、歓心を得るために邁進するような子に。そして自身の兄であるアルフレッドといることも苦々しく思っている。複雑な兄弟関係らしい二人の間で板挟みとなっていて、父に呼ばれると胃が少し痛くなる。
ただ森から帰ってきて私室に呼ばれるのは初めてだった。
森へ行くのを嫌う父は、外から帰った私と会うのも嫌う。泥臭いと思っているのか、思い通りにならないことに苛立っているのか、その真意はわからない。
にも拘わらず父は森から帰った私をすぐに呼びつけた。それも客は明日突然来るのだという。もっと前から予定がわかっていれば、神経質な父は早々に私に伝えただろう。だがそうでないということは急な来客であり、なおかつ無碍にするのも憚られる、伯爵たる父よりも格上な者なのだろう。
「承知いたしました。どなたがいらっしゃるのですか?」
「エンファダード殿下。王弟殿下だ」
「……王弟殿下……!?」
「ああ、たまたまこちらの地方へ来る公務があり、領まで寄ってくださるそうだ。お前は会うのは初めてだろう。粗相のないようにな」
淡々と続ける父の言葉はまるで頭に入ってこなかった。
王弟殿下。
私を死に追いやった人の一人。
私が王太子を殺すよう唆した人。
「王家はこの世で最も貴い家だ。王子殿下のときのような失敗はしてくれるな。余計なことはしなくていい。いつも通り、お前は大人しく澄ましていればいいのだから。……ピナ、聞いているのか?」
「あ……、」
「ピナ?」
「な、んでもありません、お父様。少し、緊張しますが……、わたくしはご挨拶するだけでよろしいのですか?」
「何を言ってるんだ。殿下はお前に会いに来るわけではない。いい機会だから紹介しようと思っただけだ。……王子殿下とのお茶会のことを気にしているのか?」
父の声がうまく聞こえない。ひどい耳鳴りがして、上手に呼吸ができなくなる。父は珍しく、本当に珍しく私のことを気遣っているようだった。口調はいつも通りなのに、声色がどこか優しい。気づきたくなかったその事実に、泣きそうになる。
「顔色も悪いし、今日はもう休みなさい」
「いえ、お父様、」
私のことを抱き上げて、使用人を呼ぶ。
おそらく本当に私のことを気遣っているのだろう。それはきっと、父の機嫌がいいからだ。
王弟が来る。それが上機嫌の理由だろう。だが私はそれが恐ろしかった。
「おやすみ、ピナ。しっかり寝て身体を休めなさい」
「……ありがとうございます、お父様。おやすみなさい」
呼ばれてきたドロシーに引き渡され、そのまま私室へと運ばれる。
自覚はないが、本当に顔色が悪いのだろう。部屋につくとドロシーが毛布や湯たんぽ、ホットミルクを持ってくる。
体調が悪いわけではない。いつもより数時間は寝る時間が早い。この時間に勉強することだってあるし、読める本もある。けれど今は甲斐甲斐しく世話を焼くドロシーを押しのけられなかった。
「大丈夫ですか、ピナお嬢さま……! いったい旦那さまと何があったんです……!?」
「……何もないわ。少し疲れただけ」
「普段から森を走り回っていて、今日も元気に帰って来たのに旦那様のお部屋から出てきたころにはこんなことになるなんて、疲れだけではないでしょう……!」
「……明日、お客様がいらっしゃるらしいの。ご挨拶することになったのだけど、緊張してしまって」
ぽつりと返事をするとドロシーは合点がいったように唸った。
「ううーん……伺っています。王弟殿下ですね。確かにそれは委縮してしまうかもしれません……。でもお嬢様ならきっと大丈夫ですよ。普段通り振舞っていれば、もう一人前のレディなんですから。お茶会の件を気にされているかもしれませんが、大丈夫です。少しずつ他の方にお会いするのも慣れていきましょう。お嬢様なら大丈夫です」
私をベッドにもぐりこませると、ドロシーは落ち着かせるように毛布の上から優しく撫でた。
「怖いことなんてありません。一生懸命挨拶するかわいらしい女の子のことを、誰が疎ましくお思いになるでしょう」
私は何も言えず、毛布の中で身体を縮こまらせた。まるでやってこない眠気、ドロシーが柔らかな声でなだめようとすればするほど、お腹のずっと深いところが冷たくなるようだった。
「おやすみなさい、お嬢様。どうか安らかな夜を」
落とされる明かりと、ドロシーの出ていく足音を聞いてから、深く息を吐いた。
気づきたくなかった。
お腹は冷えるのに、目の奥は熱くなる。
父は、王太子であるラウレルのことを敢えて“王子殿下”と呼んだ。
突然訪れる王弟。機嫌のいい父。王太子と面識を持った令嬢。
嫌な予感はほとんど確信だった。
父は、王弟派閥についたのだ。
現在の国王はまだ現役だ。そしてその子であるラウレルが王太子にあたり、王位継承権第一位にある。そして王位継承権第二位にあたるのが王弟エンファダードだ。
王位継承権を生まれた時から持ちながら、決して一位にはなれない身分。王に、王太子に万が一が起こらなければお鉢が回ってくることもない。永遠に“陛下”になれない“殿下”。
だが王弟殿下は“陛下”になることを諦めなかった。虎視眈々と、その機会を狙っている。
現王は穏健派だ。穏やかな外交を行い、産業を強化することで国力の増強と安定の路線を目指している。よく言えば穏健、悪く言えば日和見。諍いを避けるその姿勢をよく思わない者もいる。それが王弟である、その派閥たる王弟派だ。もともと数代前までは隣国との戦争を繰り返しており、国土を奪い、奪われていた。こうして現在辛うじて和平が保たれているのは、各国がお互いに身を削りすぎていたこと、もはやどこの国も戦争を継続する体力が残っていなかったからだとされている。
国力の回復の路線をとっている現在、どこも穏やかな時間が流れている。だがそれはあくまでも疲弊しているからであって、決して各国との火種がなくなったからではない。
争いの種はいつでも生まれる。
国力増強の舵取りに不満を抱いているのは私兵を多く抱えていた領主たちだった。戦争をしていたころは仕事があり、働きに応じて領土や報奨が与えられた。だが戦争がない今、私兵はただ懐を痛ませるばかりで何も生まない。いくら訓練をしようとも、それを発揮する機会もない。領主は主人として兵士たちを養わなければならない。たとえ今は無用の長物だとしても、それまでの働きが、恩がある以上、簡単に首にできるはずもない。
現王は私兵の縮小を命じたりはしない。
平和な世になると国内の紛争防止、反逆の防止のために私兵の縮小を命じることも少なくない。私兵を持たせればその力が政府に向きかねないからだ。だが現王はそれをしない。おそらくそうすればさらに不満がたまるだろうとわかっているのだ。だがその分、その立場は危うい。
現に、王弟派閥は常にその位の簒奪を狙っていた。
けれど私は知っている。
王弟派閥は泥船だ。
不満がたまれば素行は荒れる。素行が荒れば集う人々の質も下がる。質が下がれば烏合の衆となり果てる。そうして、管理できなくなった集団は暴走する。
唆され、王太子の毒殺を試み、失敗した私のように。
私さえ逃げれば未来は変えられると思っていた。
私さえ王太子を毒殺しなければみんな幸せになれると思っていた。
だが問題はそんな簡単なものではなかった。
父は情勢を見誤った。
フレッサ領は、広大な土地を持つ。だがその半分はフレッサ伯爵家の守る森だ。木の伐採を許さず、猟を許さず、部外者の侵入の一切を許さない。土地があれど、それを生産に回すことはできない。フレッサ領は国境に位置する。誰も侵入できない森のずっと奥、標高の高い山々の向こうには隣国の領地だ。かつてはそこからの侵略もあったのだという。森を守るフレッサ家だからこそ、その国境の国防を任された。ある時その山が噴火したことで、誰もその国境に近づくことができなくなった。今もそれは同様で、アルフレッドさえ、その国境付近にはいけないという。
フレッサ伯爵家もまた、私兵を持ち、不満を燻らせる家だった。
命令されたわけでもないが、私兵は代を重ねるごとに縮小された。今の伯爵家の主な収入は所有する鉱山資源から来るものだ。潤沢な資源のおかげで、伯爵家は窮することなく生活できている。
だが父は焦っていた。
鉱山から採れる鉱物は有限だ。終わりなく見えたとしても、いつか必ず枯れるときがくる。
それがいつなのか、誰もわからない。
故に焦っていた。資源が枯れる前に、次の生業をえなければならない。希少な植物やそこから作られる薬は収入の一つだが、一方でそれを扱うことのできる者は限られる。学のあるものは植物や薬の関係の仕事ができる。そうでない者は鉱山事業に従事する。それがこの国の産業の大半だ。鉱山の資源が枯れた時、多くの者が路頭に迷う。
家のため、領民のため、フレッサ伯爵家は新たな財産が欲しい。
だから、王弟派閥についたのだ。
そして父は、それが泥船であることを知らない。
「どうすれば……」
どうすれば現状を打開できるのか。毛布の中で震える自分の身体を抱きしめる。
父は、王弟派閥についた。きっとそれはフレッサ伯爵領のためだ。だがその一方で思う。父が王弟派閥についたのは、私が王太子に取り入るのが困難だと思ったからではないだろうか。
もし私が王太子であるラウレルに見初められたなら状況は違っただろう。全力で私を未来の国母にする舵取りをしたはずだ。でも私はラウレルから逃げ出した。未来を恐れ、帰ることばかり考えて先のことを考えてなかった。
ラウレルの心を射止められなかったかつての私も、ラウレルから逃げ出した私も、立場としては「怪しまれることなく近づくことのできる子供」だ。
私はまた、利用される。
王太子を毒殺する魔女として、仕立て上げられる。
今度は運命ではなく、貴族のしがらみによって。
「どうすれば……」
どうすれば、どうすれば、考えても考えても良い考えは浮かばなかった。
父は泥船に乗った。
フレッサたる私もまた、その船に乗らざるを得ない。
もう決まってしまったのだ。
フレッサ家は、逃げられない。