58話 聖地と信仰
「……だが何より大きな問題がある、ということはお前もわかっているだろう」
「それは、」
「森を守り、森を愛し、すべてを投げうっているアルフレッドからどう了承を得るか。それが何より大きな障壁だろう」
イエーロは眉を顰めため息をついた。
これは怒っている、苛立っているわけではなく、これが彼にとっての困った顔であるのだと気が付いた。
「幾度となく、森を削る、あるいは利用する提案をした。けれど奴は毎回激怒しこちらを責め立てるばかりで話にならない。そんなあいつが今の提案を飲むとは思えない」
何年も前、イエーロとアルフレッドが言い争いをしていたことを、今も覚えている。
『ピナに、資源の涸れ果て、民の飢える領を残すつもりはない』
それはイエーロの確固たる思いだった。
アルフレッドの主張が間違っているとは言えない。けれど現実と向き合わないといけない時がもう来ている。
「ええ、昔の伯父様なら飲まなかったと思います。ですが今は状況が違います」
「それはそうだが……ただ私には、あいつが快く協力するようには思えんよ」
「お父様は、伯父様とはお話にならないと思っているかもしれません。ですが人は変わります。お父様がわたくしの言葉を聞いてくださったように。ねえ、アルフレッド伯父様」
「っなに、」
部屋の隅、私たちのいる窓際とは逆方向にあるソファのクッションの山の中から、むくりと男が身体を起こした。
クッションを床に落としながらアルフレッドは表現しがたいほど様々な感情が綯交ぜになった、ひどく決まりが悪そうな顔で自分の後頭部を雑に掻いた。
「兄上、いったいいつから……、」
「最初から、だ。盗み聞きのような真似をして悪かった」
「お父様、ここにいてほしいと、わたくしが伯父様にお願いしたんです」
険しい顔をするイエーロを押しとどめるようにアルフレッドの手を引き、イエーロの横へと連れていく。
「伯父様にも同じ話を先にさせていただきました。なぜ伯父様にもお話をしているか、お父様もお分かりでしょう」
黙ったままの二人を無視して、もう一人分の椅子とティーカップを用意する。
長年の確執などもはやどうでも良い。柵も、いがみ合いも何も生まない、役に立たない。
「ねえお二人とも、わたくしよりずっと理解しているはずです」
「……フレッサの抱える問題をか」
「満点ではありませんね。フレッサの抱える問題ですが、フレッサとは当主たるお父様のことだけを指しません」
アルフレッドを無理やり椅子へ座らせ、ティーカップに紅茶を注ごうとして、すっかりお湯が冷めていることに気が付いて手を止めた。
「わたくしたちみんなの問題なのですから」
夏といえど、日が落ちればぐっと気温が下がる。窓を開けると幾分か冷やされた温い風が吹き込んだ。
「良い夜ですね、お嬢様」
「ええ、本当に」
約束していた通り、プロフェタは窓から現れた。軽業師の様にその身を翻し窓枠を乗り越え部屋の中へと入り込む。
「ああいや、ですが思ったより良い顔をなさっていて安心しました。まあそちらのお嬢さんはいつも通りの仏頂面ですが」
黙ったままのドロシーはつかつかと窓際に歩み寄るとテーブルに叩きつけるかの様にティーセットを置いた。お盆を投げつけていたころを比べると幾分かマシだが、褒められた態度ではない。
「玄関のチャイムの鳴らし方すら知らない無法者に対して、もてなしをしようとする私は随分と寛大だと思いませんかお嬢様」
「我慢してくれてありがとうドロシー。でもプロフェタさんがいないと困ることも多いのよ。それに今後日中に玄関から入って来てもらうことになるかもしれないわ」
ヘーゼルの目が驚愕に見開かれる。彼女からすれば長らく非常識な方法で屋敷に出入りしていた青年が正式に訪ねてくるようになるとは、煽りながらも欠片も思っていなかったのだろう。
一方のプロフェタは楽しそうに笑った。
「なるほど、私たちの心配に反して随分と話がうまく行ったようですね」
「仰る通りです。お父様も、伯父様も、よくわたくしの話を聞いてくださいました」
「……ですが見たところ、それ以上の収穫がピナお嬢様にはあったようにみえます」
「ええ、わたくしの話を聞くだけでなく、お父様と伯父様できちんと話し合うことができました。長年の柵は簡単になくなるものではないと思います。しかし建設的な話し合いができるようになったと思います」
「親子喧嘩も終わられましたか?」
揶揄うように、というよりも小さな子供を見るような笑みに微笑み返した。
「さて、プロフェタさんには聖女様にこの結果をお伝えいただきたいと思います」
「お父さんと仲直りしたって?」
「フレッサ家に関する伝承の提供および、フレッサの森の一部の宗教利用について、フレッサ家は許可します。フレッサ家はアガヴェー教の活動に協力するとともに、薬草の取引に関する協定を結びたいと考えていると」
本来ならあり得ない、契約だった。
もともとアガヴェー教との関わりが薄かった伯爵家が突然、布教活動を始めとした宗教活動に協力するとともに、土地の一部を“聖地”として利用することを許すなど。
これまで20周の人生ではもちろんなかった。すべてはアルフレッドから森について仔細を聞いていたからこそできた提案だった。
アルフレッド以外語る者のいないフレッサ家の伝承。
アルフレッド以外入る者のいないフレッサ家の森。
そのどちらも、アルフレッドの死によって潰え、知られることのなかったものだ。
それはアルフレッドが森を大切にしていたが故、伝統を守って来た故だった。
そのためフレッサの森の聖地化の話をしたとき、予想通りアルフレッドは強く反発した。声を荒らげ、いつかイエーロと言い争っていた夜の様に。
けれどそのときと違ったのは、その実アルフレッドこそが、フレッサの森の維持に関して不安を抱いていたことだ。
一時は死の淵を彷徨ったアルフレッド。
もし自分が死んでいたら、森はどうなっていただろうか。
もし自分が死んでいたら、誰が守り、伝えただろうか。
もし自分が死んでいたら、国境を越えんとする不届き者を誰が排除するだろうか。
その答えは、誰もいない、というものだ。
いくら私を森に慣れさせ、森の維持について語ったとしても、四六時中森に居られるわけではない。貴族の子女としてすべき責務があり、幼い日のようにただ逃げ回ることを良しとしない。
森を守るという“個人の仕事”を、“領の事業”にしなければ継続が困難であることに、アルフレッドとて気が付いていた。
むしろここまで代々事業ではなく、フレッサ家の者だけで管理を続けて来られたことこそが奇跡に等しい。いつ伝承や森の管理方法が潰えてもおかしくなかっただろう。
口では反発していても、本心では気づいていた。
聖地化され、人に知られるようになれば環境を守ることが困難になる。だが逆に聖地化されれば対外的に守る理由も説明できるうえ、伝承はアガヴェー教が語り継いでくれる。フレッサの森の管理に人手を借りることすら可能となるだろう。
秘匿しながら守るか、公開し堂々と守るか。
それだけの違いであり、どちらにもメリットデメリットがある。だが秘匿し続ける方がハイリスクであると、アルフレッドは判断せざるを得なかった。
「よくもまあ説得ができたものです」
「本来なら無謀ですが、自身が危篤に陥ったうえ、それを教会の聖女に助けられたのです。ルビアシアの栽培にあたっても協力はしてきました。ある程度、教会への信頼感はあったのでしょう。むしろ……」
「むしろ、聖女様の方こそ、フレッサ領の森と伝承から聖地化が可能なのか、説得ができるのか、という点ですか?」
その目は緩く弧を描く。しかしその冷嘲するような目に心臓が跳ねた。これまでに見たことがない表情であり、常にライラに心酔しているかのような振る舞いをしていた彼にあまりに似つかわしくなかった。
私の動揺に気づいたのか、プロフェタは一瞬ハッとしたような顔をして、テーブルの上のティーカップに手を伸ばした。
「……失礼しました。いえ、私は別に、反対しているわけではないんです。聖女様が仰ることは常に正しい。神に最も近しく、愛されています。縋り、願う人々に対しても惜しむことなく奇跡を代行し、身を粉にしながら民衆を救済されています。そんな彼女が必要と仰るなら、それは、必要なことだと、私も思います」
酷くい言い訳じみていて、らしくもなく落ち着きがなかった。
聞いてもいないことを口走り、言葉を重ねる様子は私に伝えるというよりも自分自身に言い聞かせているようでもあった。




