56話 魔女の娘
話がしたいからお茶会をするので来てほしい。
そうドロシーを通じて頼んだのは自分なのに、今目の前に父がいることに動揺していた。
自分で言えばいいものを、なんだか気まずくてドロシーに伝言を頼み、夕食の席などで話せば間違いなく話ができるというのに、あえて断ることも可能な場を作ってしまった。
この役回りは自分しかできなくて、自分がやるべきだとわかっているのに、どうにもこうにも逃げばかり打ってしまう。
「ピナ」
私はどうにも、
「来ていただきありがとうございます、お父様」
この父が苦手だ。
大きなベイウィンドウのある小さな2階にある部屋。午後の優しい光が部屋の中に差し込む。テーブルには一通りティーセットとお茶請けが置かれている。
領主をもてなすには粗末という他ないが、娘が父をもてなすには十分だろう。
夏の活気ある日を浴びながらも、この部屋の空気は酷く冷たく硬かった。そう感じているのはおそらく、私だけではないはずだ。
「お忙しいのに、お時間いただきありがとうございます」
「お前が来いというのだ。来ない理由はない」
リラックス、という言葉とは程遠い面持ちのイエーロのために紅茶を注ぐ。一瞬、ハーブウォーターにしようかとも思ったのだが、神経を逆撫でしかねないため、無難な紅茶に変更した。
今部屋の中には私とイエーロしかいない。普段ならいるはずの給仕も使用人も立ち入ることは禁じだ。腹を割っては話すには、誰の介在も許すべきでは、頼るべきではないと思ったのだ。
これは今を生きる父と、繰り返し見捨てられ続け死に続けた私が話さなければならないことだ。
「こうしてゆっくりお話しするのは久しぶりですね」
「ああ、お前はアルフレッドにばかり懐いているからな」
「…………」
事実を端的に述べているのか、拗ねていて嫌味を言っているのか、判断できず閉口する。変わらない硬い表情からは何も読めない。
「今日は、お父様にお伺いしたいことと、お話したいことがあったのでお呼び立てさせていただきました」
「……まあ、雑談かなにかだとは思っていないさ」
イエーロが口の端を微かに歪めるように笑う。ふと、記憶にあるより皺を増えたと思った。私が父から逃げ回っている間にも、同じように時間が流れている。
逃げている場合ではない。恐れている場合でも、気まずく思っている場合でも。
怖くても、懐いていなくても、私は父にも死んでほしくも不幸になってほしくもない。
私の大切な人が皆、幸せであるようにと。私は願ってきたはずだ。
「1年間、学園で過ごさせていただきました。多くの人と出会い、ここにいる以上に様々な知識を得ることができました」
以前のように逃げてはいけない。逃げてはなにも変えられない。
「学園での生活では、聖女様はもちろん、王太子殿下にも非常に懇意にさせていただいています」
「…………そうか、それは良い」
「お父様、それはどういう意味で“良い”と仰っていますか?」
赤紫色の目が見開かれ、戸惑うように私を見た。
私の想像は間違っていなかったと、確信を得て言葉を重ねる。
「どのような意味で、そう?」
「……いや、言葉の通りだ。学友がいることは素晴らしいことで、他では得難い。それが殿下ともあれば、より。いつかにお前は王太子殿下には会いたくないなどと宣っていたではないか。それを学園が始まる前に王宮に呼ばれるようになり、学園でも懇意にしているなら、良いことだろう」
「そうですね。本当にありがたいことです。ただ気になることがありまして、お父様にお伺いしたいのです」
イエーロは視線を外し、ティーカップを煽る。カップの中は半分がなくなっていたが、すかさずその前にスコーンとジャムの壺を置く。
飲んでおしまい、そんな終わりを許すつもりはない。
身勝手なのは百も承知だ。けれど私が逃げないと決めたなら、相手もまた逃がすつもりはない。
「ずっと前、エンファダード殿下が屋敷に来られたことがありましたね。その時に殿下はラウレル殿下と仲良くするように、そんなことを仰っていました」
「ああ、」
「あれはどういう意味だったのでしょう」
「…………どうもこうも、大した意味などなかったさ。お前とラウレル殿下に面識があったことを知っていたからああ言っただけだ。なんの意味もない」
「今、ラウレル殿下と非常に懇意にさせていただいています。その中でお聞きしました。ラウレル殿下は何度も命を狙われることがあったと」
「高貴なお方だ。よんどころない身分の方は往々にして危険に晒されることがある」
「ラウレル殿下はそのすべてがエンファダード殿下の差し金だと仰っていました」
「馬鹿な、」
短く否定の言葉を口にしたが、それ以上言葉は出なかった。煽られたティーカップの中身は既に空で、視線は落ち着きなく絨毯の上を彷徨っている。
「お父様、カップが空のようですね。お注ぎします」
「いや、もう良い。時間がない。ラウレル殿下の勘違いか何かだろう。そんな話をお前に吹き込んで何を考えてらっしゃるのか」
「お父様」
腰を浮かせかかったイエーロの手首を力の限り掴み引き留めた。鍛えているわけでもない私の握力などたかが知れている。けれど私の意思を伝えるには十分だった。
「お話はまだ終わっていません」
「忙しいと、」
「逃げないでください」
手首を掴んだまま、まっすぐにその目を見た。
「わたくしはもう逃げません。お父様も逃げないでください」
「逃げてなどいない!」
僅かに声を荒げたイエーロはすぐにハッとした顔をした。表情がうかがえなかった顔に、焦りや迷いの色が忙しなく浮かぶ。
「……逃げてなどいない。だがお前が気にするようなことではない」
イエーロは私の視線を遮断するように目を伏せた。
なぜだかはわからない。けれど彼の言葉で唐突に理解した。
これまでのすべてのループに置いて、イエーロは私に重要なことは何も言わなかった。フレッサ領の経営について、エンファダード派についていること、世間の情勢なども、何も。我儘な私に乞われるがままに金や物をただ渡してきた。その結果が私の王太子、聖女暗殺未遂だ。
私が破滅したのは私自身と唆したエンファダードのせいだ。イエーロが指示していたことなどなにもなかった。
イエーロは、私を重要な事項から遠ざけることで守ろうとしてきたのではないか。
「言葉を間違えて申し訳ありません。お父様はそうやって、わたくしに何も言わずすべてお一人で抱えこんでらっしゃるのではありませんか?」
「……ははは、お前に話してどうする。子どもであるお前に。徒に不安にさせるだけだろう」
自身の兄であるアルフレッドとは反りが合わず、協力することが難しい。妻である私の母は既に逝去している。安泰とは口が裂けても言えないフレッサ領の未来について、対等に話し相談できる人間が、イエーロにはいなかったのではないだろうか。
「……お父様。わたくしはもう守られるだけの子供でも、誰かから利用されるだけの子供でもありません」
「幼い子どもさ、今も昔も変わらない」
手の力を緩めると、その手はあっさりと私の元から離れていった。けれどイエーロは再び椅子に腰を下ろし、力なくその手で自らの頭を抱えた。
「危なっかしく好奇心旺盛で、行動力ばかりあるのに、私の顔色をびくびくと窺うような、子どもだ」
手で隠れ、その表情の全貌を窺い知ることはできない。目を合わせその奥を見ることもできない。けれど今までに見たこともないほどに弱ったようなその声から、懊悩と慈しみを確かに感じることができた。
今の私では、もうイエーロの想いを疑うことはできなかった。
「そんな子どもが、お父様の役に立ちたいと言っても、頼りにはできませんか」
「……できない。お前は幼い。守られるべき子どもだ。心配などせず、勉学に励み、自分のことを考えていれば良い」
「子が親を守りたいと思ってはいけませんか」
「ピナ」
「自分のことはフレッサ領のことです。わたくしはまだ未熟です。一人ではなにもできません。ですができることもあります」
「ピナ、」
「伯父様を助けるために聖女様をつなぎました。流行した熱病を治療し予防する薬を作りました。それをより広げるために教会にもわたりを付けました。そこから派生した薬や飲み物についても多くの人に届くよう教会や貴族に働きかけました」
「ピナ、もういい」
「まだ実績が足りませんか? どうしたらわたくしのことを少しでも頼っていただけますか?」
「もう良いわかってる……もう良い、」
ぐ、と息を飲んだ。逃げ出したいとは今も思っている。こんな父の姿など見たくなかった。これまでに一度も見たことのない姿の父だ。
口にすればわかる。いや本来せずともわかっていることだった。既にフレッサは詰んでいる。けれど明確な打開策などない。
じわじわの真綿で絞められるように、徐々に息苦しくなっていく。
誰にも相談できないまま、部下や領民のためにできる範囲で奔走する。そしてただ一度、着く陣営を間違えた。
間違えたことなど、イエーロはわかっているのだ。けれど既に後戻りすることも、軌道修正することもできない。
そしてそれを今、娘である自身に晒すことの苦しさと恥をひしひしと感じ取れた。
頼れるはずがないのだ。まだ10代前半の娘になど、とうに見切りをつけた兄になど。
「…………出過ぎたことを言っているのはわかっています。ですがどうか、使えるものは使おうと思ってください」
「お前をか……」
「わたくしを、です。頼りないかもしれませんが、王太子と聖女を咥えて戻って来たのですから、使える範囲で使ってください」
「…………、」
イエーロは返事をしなかったが、もう席を立とうとはしなかった。それを返事ということにしながら、空になったカップに紅茶を注ぐ。




