5話 フレッサ領の森と伯父
燦燦と降り注ぐ夏の光。さざ波のように響く蝉の声。皮膚を炙るような日から守るため、大きすぎる麦わら帽子と上着を羽織らされた。肩にかけるのは私が持ち運べるギリギリのサイズのボトル。中にはドロシーが調べて作ったという元気になる水が入っている。少し舐めてみたところ甘じょっぱかった。なんだか飲みづらいそれは、「ボトルの中身を飲み干さなくても済むくらいには早く帰ってこい」というドロシーからのメッセージかもしれない。
そんな私は今全身に風を浴びていた。
生まれてから一度たりとも、こんなスピードを味わったことはない。
馬車よりも早く、木々が乱立する森の中をすり抜けるように疾走する。
風のあたる爽快感と落ちたら大けが間違いなしの恐怖がせめぎあう中、私は呼吸もままならず羽毛の生えた首元にしがみついていた。
なぜ私が疾走しているかと言えば、時はさかのぼり数分前。
すっかり慣れた森通い。今日も今日とて父に少し嫌な顔をされながらも、ご機嫌に伯父アルフレッドとともに森の中を散策していた。
「ピナ、大変じゃあないか?」
「なんのことです、アル伯父様?」
「アー、いや。最近は何かと家庭教師が多く屋敷に出入りしてるだろう。お前のお父様はかわいい愛娘のことを完全無欠の伯爵令嬢にしようとしているみたいだ」
少し言葉を選んだアルフレッドは気まずそうに私に尋ねた。
アルフレッドの言う通り、最近は今までにまして習い事が増えている。
作法、ダンス、刺繍に外国語、歴史に宗教。先週からはそこに政治学が追加された。完全に父は私の時間を潰しにかかっている。すべて私のためになるものではあるのだが、多い。唯一の救いは、家庭教師から出された課題の大半は不要で、予習も必要ないことだろう。こちらは人生21周目。ほとんどの技術が最初から備わっており、歴史に至っては過去から未来まで把握している始末。きっと真面目にすべて受けていたら自分の自由時間などないに等しく、またきっと父の期待に応えたいだなんて思う生真面目な少女になっていただろう。
けれどこちらはとにもかくにも逃げ出したい、消極的伯爵令嬢。
たくさん勉強して政治や社交とのかかわりを絶ちつつ引きこもっていたいと心から願っているため、ただただ多彩で器用な引きこもりしか出来上がらない。
「お父様はわたくしを自慢の娘にしたいみたいです」
「……お前はもうきっと、立派な娘だよ」
「どうでしょう。立派な娘、というより立派な作品かもしれません」
けれどそれが徒労に終わることは私が一番よく知っている。
父は私にたくさんのお金と時間をかけた。けれど私の終わりはいつだって塔から墜落死する罪人だ。
「才色兼備な才女になって、身分が高く、高貴な血筋の人と結婚する、それが一番の親孝行なのかもしれません」
一度もその願いを叶えたこともなく、今だって保身を走って引きこもることしか考えてない。
「ピナは小さいのにいろんなことを考えてるなあ。とっとと貴族社会からドロップアウトした俺とは大違いだ」
赤紫の目が眩しそうに細められる。
しかしふと、なぜアルフレッドは早々に家督を継ぐのをやめ、こうして森番のようなことをしているのだろうと疑問が浮かんだ。
通常なら長男であるアルフレッドが家督を継ぐはずだ。敢えて伯父に聞いたこともなければ父に尋ねたこともなかった。祖父母はとうに亡くなっていて、子供のころの兄弟の様子を窺い知ることはできない。
父と比べて一回りは大きな体、父よりもくすんだ痛んだ髪。けれど目だけはよく似ていた。人当たりも良く、堂々としたアルフレッドは、貴族らしいとは言えないが、独特な迫力もあり、それなりにやっていけそうに見える。
にもかかわらず、家督を継ぐことなく弟に譲った理由とは何だったのだろう。
「アル伯父様は、どうしておうちを継がなかったんですか? 伯父様は長男ですよね」
「……気になるかい?」
アルフレッドは口の端で笑って私のことを抱き上げた。
聞いたことをはっきり答えてくれないアルフレッドは珍しかった。いつでも快活で、何を聞いてもはっきり答える。逆に父関係のことは下手糞にお茶を濁すことが多かった。
けれどこんな風に、もったいぶるような、秘密をそっと明かすような話し方をしたことがあっただろうか。
私を抱き上げたまま、アルフレッドは森の奥へ奥へと進んでく。熱帯のような蒸し暑い森の中、今まで入ったことのないエリアまで進もうとしていた。
木は大きく、葉は分厚く、どこからか流れる水音、頭上をかすめる鳥の声。
ギャアギャアと、近くで鳥が鳴いた。
「伯父様? 今日は随分と奥まで行くのですね」
「ああ、ピナに見せたいものがあるんだ。……怖くなったかい?」
「いいえ全く。楽しみです」
正直に言うなら、ほんの少しだけ怖かった。この状態でアルフレッドに置いていかれてしまったら、私は屋敷へ帰ることができないだろう。自分の屋敷の敷地内で遭難。それがあり得るのがフレッサ領なのだ。
どれだけ奥へと進んでも、暗くなることはなく、木々の隙間から強い夏の日差しが光を落としていた。
ふと、アルフレッドは足を止めた。
「伯父様?」
「静かに、ピナ。ここからは大きな声を出してはいけないよ。小さな声で、彼らを驚かせてしまわないように」
「彼ら……?」
アルフレッドはしゃがみこんで私と目線を合わせると幾重にも葉を重ねる茂みと木々の隙間を指さした。その指の先にじっと目を凝らすと、茂みに向こうに何か動くものが見えた。
「動物……? とっても大きいのね。馬、いえロバかしら……?」
「はは、ピナ、もうちょっとよく見てごらん。彼らの足の数、鼻面、口」
よく見ればそれは確かにロバほどの大きさであったが、ロバよりも毛が長く、多い。それに背丈はロバより大きいが、胴体もそう長くないように見える。何よりその身体は目の覚めるようなオレンジ色をしていた。
あれほど大きく、オレンジ色の毛皮を持つ動物などいるだろうか。
私がさらによく見ようと、一歩踏み出した時、足元にあったらしい枝が折れた。その瞬間弾かれたように何かは私の方を見た。
「鳥っ……!?」
長いまつ毛に縁どられた藍色の目、豊かなオレンジ色の羽毛に覆われた身体、ザクロのような色をした大きな嘴。
あれほど大きな鳥がいるなど、20周分の人生をもってしても聞いたことがない。けれどその特徴は間違いなく鳥類のものだった。
「ははは、正解だピナ。さあもっと近くで見てみよう。大丈夫。何もしなければ彼らは大人しい」
ほとんど反射的に後ずさった私を知ってか知らずか、アルフレッドは私を抱き上げ茂みの向こう、鳥のいる方へと近づいた。
アルフレッドの視線に立てば、茂みの向こうがよく見えた。湖のほとりに、大きなオレンジ色の鳥が複数いるのが見えた。しかしそうして知る。私がロバと見間違えた大きな鳥は、幼鳥だったらしい。奥には先ほどの鳥の1.5倍はありそうな大きさの鳥たちが控えていた。
まん丸の藍色の目がぐりぐりと私を見る。
自分が見た目通りの幼子でないということを一時忘れ、アルフレッドの腕にしがみつく。
「ア、アルフレッド伯父様……!」
「お、どうした。何を見せても動揺もしないピナもさすがに驚いてくれるか」
「だ、だってなんですこの鳥たちは……! こんなに大きな鳥がいるんですの……!?」
地面に降ろされそうになるのを必死に阻止する。先ほどまでは見えていなかったが、鳥たちの足は太く、長い。足だけで私の身長を超えてしまうだろう。その足の先には鋭い赤い爪が付いている。あんな強靭そうな足で蹴られてしまえば、私など知覚する前に死んでしまうだろう。
とにかく腕にしがみ付き地面に降ろされないようにする。しかし抱き上げられていると今度は大きな目と嘴が目と鼻の先に迫る。アルフレッドの上着を強く握り締めた。
「この鳥はストルーティオー。はるか昔、この国の多くで見られたとされる、古代種だ」
「こ、古代種……? それにストルーティオーって」
「美しく豊かな羽毛、硬く艶のある爪と嘴。彼らは長い時代の中、人間に狩られることで数を減らした」
私を抱えていない方の腕をストルーティオーへ伸ばすと、ストルーティオーは嬉しそうに顔をこすりつけた。大きな嘴がアルフレッドを害することはない。そうして一羽を撫でていると、他のストルーティオーたちも自分も自分もとでも言うようにわらわらと集まってくる。
「世間一般ではストルーティオーは数十年前に絶滅されたとされている」
「絶滅……? でも彼らはこんなにもここに」
「ピナ、よく聞いてくれ。フレッサに与えられた使命と責務を」
降り注ぐ光が、風に揺れる水面に弾けて転がる。鮮やかな鳥たちが悠然と歩き、伯父に頬ずりする。
こんな世界を私は知らない。
こんな童話のような景色を、私は知らない。
私の知らない私の未来が、今ここに確かにあった。
「何代も前、この王がこの国を平定するより前から、フレッサはこの森とともにあった。豊かな木々、水源、動物。そのすべてが比類ない特殊な場所だった。ほとんど開墾はされず、フレッサやその領地の人々はこの深い森とともにあった。だが今の王家が国を統治したとき、王はこの国に豊かさと文明を齎そうとした」
「豊かさと、文明……? 公共設備やライフライン、識字ですか?」
「おおむねそうさ。もともと王家は拓かれた土地の方だった。だからこの国のすべての人に、豊かさと文明のすばらしさを願ったんだ。命と時の運に左右される狩猟ではなく、農耕中心の生活と食文化。一定衛生観念と識字の普及。音楽や芸術、信仰。街という区画を明確に作り、街道を敷いた。森を拓き、耕地とした。山を砕き道とした。そのおかげで、人々はそれまで知らなかったことを知ることができ、命がけの狩猟ではなく、安定供給される食物を知った。ただ食べ生きるのではなく、生きる意味を考え、享楽を知り、美しさを知る余裕を得た」
「……祖王は素晴らしい方だったのですね」
「ああ、間違いなく。彼の方は民草に豊かさと文明を確かに与えた」
口では賞賛しているのに、アルフレッドの顔はまるで賛美の色は見られなかった。ただただ事実を、歴史の教科書を暗唱して見せるように話す。
「俺たちの先祖は、その思いとは相容れなかった」
「森に在り、森とともに生きていたから……」
「そうだ。王を賞賛するが、フレッサは決して鵜呑みに従うことはなかった。豊かさと文明を知り、それに感嘆しながらも、フレッサは自分の在り方を変えようとはしなかった」
どれだけ周囲が栄え、農耕がもてはやされようとも、街道を行き、物の売買で物質的にも豊かになろうとも、先祖は、フレッサは森を切り売りすることも、森を切り拓くこともしなかった。
「フレッサは何代にもわたり、自分たちを生かし育てた森を、ただ守ろうとした。そこから代替わりした新たな王は、従おうとしないフレッサをよくは思わなかったらしい。そのころにはこの国の土地の多くが拓かれ、国民は農耕に生活を支えられ、物を売買することを当然とし、整備された街で暮らし、街道を行き交っていた。要するに、フレッサだけが前時代的で、王家が完璧でないことの証左を体現していたんだ」
今のフレッサ伯爵家からは考えられない先祖の気高さに思わず唾を飲み込んだ。
追従せず、媚びず、守るべきものを明確に抱えていた。
「王は、従わないならフレッサを取り潰したいと考えていた。実際に、ある程度の兵を引き連れて、フレッサ領へやってきた」
「そんな史実、聞いたことが……」
「フレッサ家と王家の秘密さ。教科書に書いていないところにこそ、真実は息づく。……だがフレッサはただ門を開いた。そして森の中へ、一行を誘った」
まるで自分がその現場にいたかのように、自分の感覚があやふやになる。
朗読するような静かで穏やかな声。まるで絵画のような湖に日差し。ほかに見ることのない、古代種の鳥。そんな中、王一行が戸惑いながら踏み入れていく。抵抗されるでもなく、逃げ出すわけでもなく、ただ自分たちが守ってきた場所を、世界を先導する。
「そこで王は知ったんだ。自分たちのおかげで手に入れた豊かさと、それと引き換えに失われたものがあることを」
「……では、フレッサはこの森を守り続けることを王に認められた、ということですね」
王家に盾突いた先祖と、それを踏み均そうとした王。けれどその価値を知ることで、盾突いていた不敬を許された。まるで童話や何かの物語だ。
けれどアルフレッドは首を振る。
「いいや、話はこれだけじゃあない。フレッサはただ放っておかれることを願っていた。誰にも命令されることなく、管理されることなく。だが今ではフレッサは伯爵家。王家から爵位を賜った臣民だ。なぜだかわかるかい?」
なぜか、という問いに全体像が見えず首を傾げた。
干渉されることを嫌い、ただ森の中で生きようとした内向的な一族。そんな先祖がなぜ王の臣民になりえたのか。
なんの答えも出せない私を叱るでもなく、アルフレッドは口を開いた。
「さっきの話には続きがある。王がフレッサを認めようとも、それだけではフレッサが王を認める理由にはならない」
「なんて不敬な……」
「そういう時代さ。まだ王家が絶対的ではなかった。……フレッサ領の森へ立ち入り、王は感銘を受けた。この森を壊すことなく、守り続けろとフレッサに命令した。命じられるまでもないことだ。だがフレッサは敢えてこれに従い、王を前に腰を折った。……この森の住む生き物は皆ことごとく、気高い。無礼を許さず、自らの強さと美しさを知り、他の生き物に媚びることはない。……そんな彼らが、王を前にひれ伏したんだ」
「そんなことが、あり得るのですか……?」
社会の柵などつゆとも知らぬ動物たちが、ただの人間の王を王と判断することができるのか。
「あり得ないはずだった。だがある種はひれ伏し、姿を隠してばかりの種はわざわざ現れ、どの種も襲うことなく、威嚇することなく、逃げることなくただ闖入者たる王を迎えた。フレッサにとっては、王からの命令よりも、森に生きるものたちのその姿にこそ感銘を覚えたんだ。従うにふさわしい人物。打算もなく、諂うことも知らないものたちが王を認めた。それに何よりもフレッサにとってわかりやすい価値基準だった」
木々生い茂る森の中に踏み入れていくアンバランスな鎧や衣類を身に纏う王の一行。それを抵抗することなく、泰然自若と受け入れながら、その為人に敬意を払う。まるで童話や神話の一節のようだ。
本当にあった、家に伝わる事実なのか、それとも口伝えに語られる民話や寓話のようなものなのか、私には判断がつかなった。
「多くの動物たちが姿を現し、王を歓迎した。けれどその中でもひときわ特別なものがいた」
「特別なもの……、あ、アルフレッド伯父様、どうしてわたくしをストルーティオーの上に……?」
話の途中だというのに、なぜかアルフレッドは私のことをストルーティオーの背に置いた。ふかふかと豊かな羽毛に包まれる。羽毛からは太陽のような香ばしい香りがした。気高いと言われていただけに背に乗るなんて許されるのか、と戸惑うが、ストルーティオーはまるで意に介していない。恐る恐る顔に手を伸ばすと長い首を曲げてすり寄った。
「この森はどれも大事だ。この国にとっての宝であり、俺たちの守る場所だ。だがその中でも、他に確認されたことのない特別がある」
アルフレッドは数羽のストルーティオーを物色するとひと際体の大きな個体に跨った。このストルーティオーは興奮したように足で地面を叩く。
まるで今すぐにでも駆けだしたいとでもいうような。
「それを、今から見に行こう」
「……え、え、伯父様まさかこのストルーティオーに乗ってとかそんなこと、」
「さあ行くぞ!」
「嘘でしょう!?」
私の願いむなしく、ストルーティオーは二羽揃って、まるで宙を切る弓矢のように森の中を駆けだした。