46話 誰も知らない物語
本当に不思議なことに、学園への入学が迫った朝、私は少しだって恐れてはいなかった。
あれほど学園へ行くことを、王太子や聖女、騎士と関わることを恐れていたのに、いざ目の前に立ってみれば、その気分はいっそ晴れやかなものだった。
いつの私も、きっと一度だって想像もしなかった。
凪いでいて、それから少し春を迎える風を浴びたように心が躍っていた。
「楽しい道だっていいじゃないか」
ラウレルのその言葉は自分が思っていたよりもずっと、軽やかにさせた。
「お嬢様、くれぐれも怪我はされませんように。十分に気を付けて、それから」
「それから日が暮れる前にちゃんと帰って来て、早く寝ること、でしょう? わかってるわ」
「わかっているなら守って下さい!」
てきぱきと私の準備を手伝うドロシーに笑いかければ、怒ったような顔ながらそれでもすぐに許されることはよく知っている。最近のドロシーは心配性に拍車がかかっている。
「おう、ピナ!」
「アルフレッド様、お嬢様をよろしくお願いしますね。入学を控えてるんです。くれぐれも無茶、無理をなさいませんように。万全の体制で新生活をお迎えいただきたいんです。お分かりですよね」
玄関では既にアルフレッドが私のことを待っていて、そんな彼にドロシーは無遠慮に詰め寄る。本来なら身分差を考えればあり得ないのだが、もうすでに随分と見慣れたやり取りだ。何度優しくお願いしても、泥だらけ草塗れで帰ってくる私にドロシーはすっかりあきれ果てたようで、森へ入るときの監督人であるアルフレッドには釘を刺さねばなるまいと覚悟したようだった。実際、アルフレッドは少しだけ困った顔をするだけで彼女の振る舞いに腹を立てることも不機嫌になることもなかった。もっとも、改善されたとは言い難いのだが。
二人のやり取りを見ていると、どこかのらりくらりと掴みどころのない彼に対する態度としてはこれがベストなのではないかと思える。遠慮のないストレートなやり取り。
これができないからイエーロはいつまで経っても関係性を改善することができないのだ。
「わかってるって! おいで、ピナ」
「ええ、伯父様。よろしくお願いいたします」
アルフレッドに連れられ森の中へと踏み入る。
一歩入った瞬間からそこが別世界であることがわかる。初めて入った時からこの感覚は変わらない。
この21周目の人生を始めてから幾度となくこの森へ出入りした。
屋敷のすぐ裏手にあるのに、自分ではほとんど入ったことがなく、薬草の調達に家の者を行かせていた。時には戻り、時には戻らず。私の危ない薬草箱。けれど入ってみればそこは知恵と知識の宝庫で。好奇心に駆られながら、危険を紙一重で躱すような、そんな場所。
慣れても決して気は抜かない。与えてくれるものは多くても、一瞬ですべてを奪いかねないそんな場所。
慣れ親しんだこの森も、王都にある学園へ入学すればそう簡単には来れなくなる。
僅かばかりの寂しさを覚えながらアルフレッドを見上げると私の心を見透かしたような赤紫の双眸と視線がかち合った。私を見下ろすその目はどこまでも優しい。
「ピナももう入学か。あんなに小さかったのに。成長が早い」
「毎日見てらっしゃるから成長に気づきにくいだけですよ」
「いやいや? 最初からお前は一人前の淑女のように振舞うから、身体が大きくなってようやく今までが小さな子供だったんだって気づいただけだ」
アルフレッドの言葉にわざとらしくフフン、と笑ってみせる。
「ええ、もう伯父様に抱っこされるようなお子様ではありませんので」
「フリか?」
「……抱っこしていただいても良くてよ?」
「よし来た!」
誰に見せるでもない茶番にゲラゲラと笑うとアルフレッドは軽々と私を抱え上げて歩き出す。一気に高くなるその視界は私が幼い日に見た景色と変わらない。どこか楽しくて私も一緒になってくふくふと笑う。
「お前が大きくなるまで、生きていられてよかった」
「お礼を言ってくださって構いませんよ?」
「もう一生分言ったさ。だがもう二度とお前には森の中で祈祷するなんて馬鹿な真似はしてほしくない」
「それも一生分聞きました。もうしませんし、二度とそういう状況に陥らないでくださいませ」
森の中で襲われ、死の淵を彷徨ったアルフレッド。本来なら死んで、私がその存在を思い出すことすらなかった伯父は、今日も元気に大笑しながらフレッサの森を歩く。
森を守ると決めたフレッサの長男は、きっと何があってもこの森を、そして領地を守ってくれようとするだろう。
「……今日はちょっと奥まで行きたい。お前が王都へ行く前に、話しておきたいことがあるんだ」
「それで今日は朝早くから?」
「ああ、お前に話したところでどうというわけではないし、お前に何かをさせたいわけじゃあない。ただピナ、お前には顛末の欠片を知る権利がある」
「……顛末のすべてではなく欠片だけなのですか?」
「欠片さ、たぶんな。俺だって全容はわからん。わかればまた伝えるさ。ピナ、笛を」
アルフレッドに言われるまま腰に下げた鳥笛を吹く。
低めの鳥のような音があたりに響く。そうすると遠くから地面を強く叩く足音が近づいてくるのがわかった。
「ストルーティオー」
大きな体の古代種は藍色の目で私たちの姿を認めると力強く擦り寄って来た。倒れそうになる私を背後からアルフレッドが支える。ふかふかとした羽毛は太陽の光を目いっぱい浴びていて暖かな空気をその中に閉じ込めていた。
この誇り高いと言われる生き物を飼いならすことなどできないと思っていたのだが、幼鳥の時から度々構っている数羽は私たちのことを覚え、より友好的な態度を取るようになっていた。それこそ、鳥笛を聞いて駆けつけてくれるほどに。
オレンジ色の羽毛と掌で撫でながらほおずりする。この大きなふかふかとした生きものとももうしばらく会えないと思うと名残惜しい。子どものころはこの巨体と赤い爪、鋭い嘴に慄いていたが攻撃の意思がないとわかっていれば可愛いものだ。
ストルーティオーの背に乗り、森の中を駆け抜ける。
「以前、俺が死にかけたあと森の中で何があったのかお前には話したな」
「……伯父様を襲ったのは山脈の向こう、コンヘラレル王国の密猟者」
「まあ密猟者なのかはわからんが、おそらくそっちの国からの不法入国者だ。まあそこも含めて森に異変があった。山脈付近の人工物。死体はあったりなかったり。森の奥に住んでいたはずの怪鳥が他の領地まで飛んで行った」
「挙句無関係な子供を攫ってきていましたね」
「正直その辺のことはすべて、コンヘラレルからの侵入者のせいだと思っていた。山脈付近の住処や餌場を荒らした結果、住処を追われた動物たちがいて、その移動のせいで他の動物たちにも影響を与えていたと」
まさしく私自身そう思っていた。実際アルフレッドが不法入国者を処分して以降、大きな森の変化はなかったと覚えている。
「違ったのですか?」
「よく考えてみればわかる。人間なんておやつにすらならんサイズの怪鳥が、人間ごときに住処を追い出されるか?」
それはその通りだ。だが実際に怪鳥は森から飛び出しはるか遠く東の領地まで飛んでいき、うっかり幼いグラナダを持って帰って来てしまったのだ。その大きさは想像を絶する。子どものころだったから大きく見えただけではない。大人でも数人程度一度に丸飲みにできてしまえるだろう。
そんな怪鳥が、いくら銃火器を持っていたとはいえ数人の人間に追い出されるようなことがあるだろうか。
「では伯父様はいったい何に追い出されたとお考えで……?」
走るストルーティオーの上で、アルフレッドはニヤッと笑った。
優しい伯父の笑い方ではない。まるで少年のような、悪戯っぽい笑顔。
アルフレッドが何を言おうとしているのかは分かった。
けれどそんなことはあり得ないと、心のどこかで思っていたのだ。
あくまでも、夢物語は夢物語だと。
じわりと熱気を額に感じた。
春の風に相応しくない熱風が、私の前髪を吹き上げる。以前はこんなことなかった。森の奥の方、いつか伯父に連れられてきたその場所は、微かに温かいだけだった。だが今は違うと断言できる。これは常にはない、異常であると。
いくつかの枯れた木々の向こう側はまだ見えない。けれどその先に何かがあるとそう確信していた。
ストルーティオーが鳴き声を上げる。
木々を抜けた先は岩と木でできた城砦があった。数年前にアルフレッドの案内の下来た、森の奥の奥。
「竜の巣……」
温かい地表に崩れることのない岩と木々の壁。その特徴は変わっていない。だが明確に以前来た時から変わっていた。記憶の中のこの城砦は既に使い終わったものだとわかっていた。積まれた木々や岩は既に風化しその角を丸くしていて、その隙間からはどこからか運ばれてきた種が芽吹き、細い蔦を伸ばしていた。少なくとも、ここにはもう何も住んでいないと。
「ピナ、少し下がってろ」
「伯父様?」
「あれを見てみろ」
そこには確かに岩と木を器用に組んだような穴があった。だがそこには蔓や蔦もなければ落ち葉の一つも落ちてはいなかった。離れていてもわかる。森の出口の傍にいる私たちでさえこの熱気を感じているのだから、その中心にあるあの巣の周辺に植物が育つはずもないのだ。どこからか切り出された岩はまるで石炭のように熱を帯び、どこからか運ばれてきた大木はその表面を黒く炭化させていた。
「…………いるんですか」
「いる」
何が、とは言わずともわかる。
竜がいる。
ここには、巣材を用意したものがいる。アルフレッドは力強く肯定した。その目は私を見ることなく、ただただ熱風を生み出す竜の巣を見ていた。
「今、あの中にいるんですか? 見たんですか?」
「今いるかはわからん。だがいる可能性が高い」
「……見えますか?」
「見えん。だが見に行って在宅だった場合は死ぬぞ、たぶん」
湧き上がる好奇心を叩き潰すようにアルフレッドはあっさりと言ってのけた。
竜など、夢かお伽噺の存在だ。一度でも目にできるならそれはどんなに素晴らしいことだろう。だが今すぐ何もかもを捨てて見に行こうと思うほど理性を捨ててはいなかった。
熱風の中目を瞑り耳を澄ます轟々と吹きすさぶ風音の中、息遣いは聞こえやしないか、身じろぎや足音を感じないか感覚をとがらせる。けれど自分の心臓の音が大きすぎて何も聞こえない。
「竜はたぶん、長らくここを空けていた。だが数年前再びここへ来た。古巣を見に来たのか、はたまた自分が卵を産む場所を探していたのかわからないが。そうしてあの怪鳥は竜に怯え、森の奥から出てきたんだろう。隣国からの侵入者の件で森の中が不安定になったのもあるが、人間の動きよりもおそらく、この場所の変化の方が大きいのかもしれない」
「……見に行けないんですか? アルフレッド伯父様はずっと、竜を見たかったのでしょう?」
アルフレッドは口の端だけで笑うとややあって口を開いた。
「死を覚悟で見に行くのも一つだ。昔の俺ならそうしてたかもしれん。……だが一度命を拾うとそれまで以上に命が惜しくなる。まだ俺はこの森を知りたい、守りたい。お前が大人になるのを見ていたい。イエーロが本当に道を間違えるなら何をしてでも止めたい」
「伯父様……」
「俺はまだ生きていたいよ」
竜の巣が仄かに赤く光った気がした。
そこに夢や空想が現実となったものがいるかもしれない。あるはずのないものがそこにある。その好奇心や憧憬は目をあっという間に曇らせる。あと少し踏み出せば、知らないものを知れるかもしれない。誰も知らない夢のいっぺんに触れられるかもしれない。
けれどその時、きっと家へは帰れない。
「さて、俺がピナに見せたかったのはこれだ」
「……ええ」
「お前の門出に対してご高説たれたり、ありがたい話をしたりはできんししない。意味がない。俺がただお前に見せたかった。次この状況が見れるのがいつになるかわからないしな」
「教えてくれて、ありがとうございました」
「それじゃあ帰ろうか。あまり遅くなるとお前のドロシーが心配しすぎて発狂しそうだ」
アルフレッドは名残惜し気に竜の巣に背を向けた。少し離れた木々の隙間から、2匹のストルーティオーが私たちの様子をうかがっていた。
熱気は徐々に遠のき、春の未だ冷たさを残す風が火照った頬を冷ますように撫でていった。温かい羽毛に埋もれながら走る帰り道、アルフレッドの口数は少なかった。
竜の物語、あるいは伝説。今までの私が知らなかったもう一つの物語だ。
何度も生きては死んでいく私の物語の裏で、竜もまた生きていたのだろう。私が知らないだけで、この世にはいろんな物語がある。アルフレッドの人生も知らなかったように。
同じようにループしているライラやラウレル、グラナダもきっと違う物語を生きている。私がまだ知らないだけで。
確かなのは私たちの誰も知らない、物語のその先へ行きたいと願っていることだけだ。
まもなく、新しい物語が始まる。
よく知っていて、まるで知らない物語が。




