43話 少年と思惑
ラウレルは困ったような顔をしつつも、護衛である彼を他の使用人たちと同じように下げるようなことをしなかった。
「すまない。彼から君とは既に面識があって、以前と比べられないほどに関係が良好である、と聞いたんだが……彼の早とちりだったようだ」
否定も肯定もできないまま、私は彼を凝視したまま立ち尽くした。
この場には、かつて殺そうとした者と殺されそうになった者、かつて殺した者と殺された者がいた。
そして殺した者と殺された者のうち、殺した者は殺された者との関係が良好であると殺されそうになった者に報告したようであった。
確かに、確かに私は彼を助けた。
怪鳥に攫われ、食われそうになった彼のことを身を挺して守り、森の入り口へと連れて行った。けれどそれを理由に、彼との関係が良好とは口が裂けても言えなかった。
あのまま見殺しにしておけばと、そう身の捩れるほどの葛藤があったことを、彼も、誰も知らない。私の胸に囁いた臆病なそれがどれほど私にとって大きな誘惑であったかを。彼は知らない。
「まあ何はともあれ自己紹介だ。公的には初対面だろう。僕は紹介する必要があるし、君たちも改めて名乗る必要がある。……お互いどれだけ相手のことを知っていたとしても。殊に、今回は特別だ。僕らは今までの僕らじゃない」
ラウレルの言葉にハッとして、ようやく彼から目を逸らした。
私たちは今までの私たちじゃない。
私のしたこと、私たちの間にあった20回の人生は決してなくなることはない。けれどこれまでの私たちと、今顔を付き合わせる今の私たちは全くの別人と言っても相違なかった。
私たちの利益は、目指すべきゴールは決まっている。
先に口を開いたのは彼だった。
「初めまして、俺はグラナダ・ボタニカ。ボタニカ家3男、セミーリャ王国東方騎士団員だったが、この度殿下のご指示によりその護衛となった。今後ともよろしく頼む」
愛想はなく端的に名乗りを上げた彼の儀礼的な様子に少しだけ安心できたような気がして、私は礼をとった。
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしはフレッサ家長子、ピナ・オルゴーリオ・フレッサと申します。どうぞお見知りおきを」
「…………ようやく、君の口から名を聞けた」
安堵は本当に一瞬だった。私の心はあっという間に揺らぎ、ぶれる。彼が、グラナダが口の端を歪めるようにして笑った。
「その節はありがとう、勇敢な君。君のおかげに今俺はここにいる。君は俺を見捨てても良かった。見ないふりをしても良かった。……リスクを冒し、俺を森の奥まで助けに来てくれたその勇気に感謝する」
ああ本当は見捨てたかったと、そう口にできたらどれほど楽だろうか。
けれど今の私はわかっていた。それを口にしたところで目の前の少年が私のことを責め立てることはないだろうことを。まっすぐ射抜くように私を見ているその青い目は微かな曇りすらなかった。彼にとっての事実と、私にとっての事実は一致する。いっそ罪悪感を覚えるまでに。
私は深く深く息を吸い込んだ。
私のしたことはなくならない。彼にされたことはなくならない。
けれど私は前に進まなくてはならない。
「……あ、なたは私が憎くはないのですか」
情けなく震える声に、グラナダはハッとした表情をして、それから口を引き結んだ。
「憎くは、ない。今更そのようなことを言うつもりはない。俺も問いたい。君は、俺のことを憎んでいるか」
『彼らの人生に、呪いを、溢れんばかりの絶望を!』
私は幾度となく、彼にその言葉を投げかけた。
筆舌に尽くしがたいほどの怨嗟。枯れることなどないような憎悪。
私の最初の言葉には、きっとそれがあったはずだ。
けれど恨みも辛みも、とうに枯れた。
「……いいえ、いいえ、憎んでなど。わたくしはただ、」
それを口にするのは、あまりにもずるいと、私は理解していた。
今の私は、魔女などではない。
ただ自領に引き篭もり、研究をし、薬を作るだけの、大人しく敬虔な少女。
まだ罪を犯していない幼気な少女だ。
「ただ、あなたが恐ろしいのです」
変わろうと決めた。だからこそ私は彼を見殺しにしなかった。危険を冒しても、罪なき少年を助けた。私は魔女ではなく、善人たろうとした。
だがそれは内から自ずと出でる恐怖を払拭するものではない。
「ただただ、わたくしを殺したあなたが、恐ろしいのです」
「ピナ、違う。彼はまだ」
「ええまだ、まだわたくしを殺してません。わかっています。ですが、この恐怖は今となっても、ええ、今更と言われても、消えないのです」
憎々しげに私を突き落とした青い目をした青年。
幾度となくその目に見送られた。
ただ最後の1回、20回目だけ彼は私に手を伸ばした。驚愕に目を見開き、魔女と呼ばれた罪ある少女を、手繰り寄せようとした。
「わかっています。わたくしたちは誰も、自由ではありませんでした。自ら選択することは能わず、行動を変えることも、声を出すこともできませんでした。……お互いそれはわかっていたでしょう。それでも、わたくしは、わたくしを殺したあなたのことが、恐ろしい」
穏やかな温室の中にあまりにも重い沈黙が落ちた。
私はもうこれ以上語るべき言葉を持ってはいなかった。
ここから逃げ出すことはない。今更彼を見て恐怖に涙を流すことはない。けれどまだ、あの目を真正面から受けられるほど、強くはなれなかった。
「……君は、俺が怖いのか」
「…………、」
「怖いのに、俺のことを助けたのか」
「……あなたに恐怖することは、あなたのことを見殺しにして良い理由には、なりません」
クツクツと、堪えるような笑い声が聞こえた。当然のように、その声の主はラウレルだろうと思ったが、違った。笑っていたのは目の前のグラナダだった。
なぜ笑うのか、と困惑とそんな顔をして笑うのかという驚愕で、私は彼を凝視したまま言葉を失った。
「君は、真面目だったんだな」
「まじめ……」
「俺が見てきた君とあまりにも違いすぎる。本当に別人のようだ」
柔らかい笑顔に、助けを求めるようにラウレルへ視線を投げかけるが、彼はおかしそうにウインクを返すだけで助け舟を出すことも口を出すこともしてはくれなかった。
「魔女の面影などどこにもない。いかにも人畜無害で虫も殺せなそうに見える。だがかの流行り病を未然に防ぐほどの製薬の技術は変わらない。……無礼だが良い部分だけ残っているようだ」
「……あ、なたはそんなに言葉数の多い方でしたか?」
私の中でグラナダ・ボタニカと言えばにこりともせず、常にぶっきらぼうで無骨一辺倒。ただ王太子を守ることを目的とする忠実な青年だったはずだ。
記憶の中と変わらない深い青い目は楽しそうに細められた。
「君の前では言葉少なだったろう。きっとそうだった。君に対してずっと警戒していたというのはあるだろうが、君が俺をさして気に留めていなかったということもあるだろう。君は王太子にしか興味がなく、俺など背景も同然だったはずだ。それこそ、あの塔以外では」
「っ……」
ごく気軽に、“あの塔”のことを口にされ私は息を飲んだ。
そうだろう。確かに私は“あの塔”にいるとき、否、あの塔から落ち行くとき、グラナダのことしか見えていなかった。王太子と聖女の婚礼の祝福ははるか遠くの雑音で、私はただ、あの青い双眸を見上げていた。
あの一瞬、幾度となく繰り返されたあの一瞬だけは、グラナダのことしか見えていなかった。
グラナダは笑みを消し、まっすぐに私のことを見据えた。
「話してくれてありがとう。今も君が俺のことを恐れていると知れてよかった。……あまりにも無神経だった。すまない。あらためて、5年前、フレッサの森に迷い込んだ俺のことを助けてくれてありがとう。心から感謝している」
「……当然のことをしたまでです」
「いや、君にとっては当然などと言えるようなことではないだろう。幼い身で森の中へと入り自分の仇を助けるなど。簡単にできる決断じゃない」
何もかも見透かされていたという事実に顔が熱くなる。返す言葉もなく、けれど目を逸らすこともできず私は呆然と彼を見返していた。
ゆっくりと彼が近づく。恐ろしいのに私は逃げることもできなかった。けれど見ていればわかる。その動きは私を怯えさせぬよう細心の注意が払われていた。ゆっくりと、けれどどこか緊張した様子で彼が私の前に跪く。侮蔑も嫌悪をない青い目が、私のことを見上げていた。
ああ、彼を見下ろすのは初めてだ。
ほんの少しだけ残された冷静な部分で、私はそう独り言ちた。
「ピナ・オルゴーリオ・フレッサ、俺はことごとく君のことを殺してきただろう。君が俺を恐れることは当然で、それを後ろめたく思う必要はない。誓おう。俺は今世、決して君のことを傷つけはしない。君を魔女と糾弾することもなければ君を塔から突き落とすこともしない」
少しの翳りもないその目は、その言葉が違われることない真なるものであることを示しているように見えた。
だが私の恐怖はそれすら容易く否定する。
「…………もし、またいつものように身体が動かなくなって、いつものように殿下とライラ様に毒を盛るようになっても? その未来が来たら、あなたはきっと、いつものようにわたくしを殺すでしょう?」
グラナダは少しだけ困った顔をした。けれどその顔は駄々をこねる子供を見るようで、私の言葉にたじろぐ様子は見られなかった。
「君の言うように、もし今後、今までのように身体が動かなくなってしまったら、きっと同じ道を辿るだろう。その時は、君が危惧している通りだ。だがそれを言ってしまえばどうもこうもない。俺たちは今、今後も自分の意思で動くことできることを前提としているはずだ。そうだろう」
「……そう、ではあります。未来を、変えるために」
「だからその前提はなしだ。俺も、君も、自由に選択し、行動できる」
「で、でももしかしたらわたくしが何らかの理由でラウレル殿下に毒を盛るかもしれません」
「おっと、僕はまた毒を盛られてしまうのかい」
思わず口から出てしまった仮定に自分でぎょっとする。あり得ると思ってしまっていたがゆえに口にしてしまった。王弟派である私は、いつかの未来、エンファダードの指示によりラウレルを害せねばならない時が来るかもしれなかった。ただ少なくとも、ここで口にするにはあまりにも不穏だ。
だがグラナダは表情を崩さなかった。
「殿下は黙っていてください。そうだな。その時は君のことを閉じ込めよう」
「……閉じ込める?」
「ああ、君のことを攫って閉じ込める。君じゃあまともな抵抗はできないだろう。それで、君がそうしなければならなかった理由がなくなるまで手元へ置いておく。そうすれば俺は君も殿下のことも守れる」
まるで冗談を言っている風でもなく、グラナダはさも考え得る方法の一つであるとでも言うように淡々と言った。視界の端でラウレルが震えながら腹を抱えているのが見えた。
「俺は、君を守りたいと思ってる」
「……幾度となく、主君を殺そうとしたわたくしをですか」
「幾度となく、自分の意思に反して殺人未遂をさせられてしまった君をだ。そして身を挺し、恐怖に心を侵されながらも俺を助けてくれた誠実な君を、守りたいと思ってる」
嘘偽りない言葉に思えるのに、どこかおかしく感じてしまうのはほんの数秒前に彼が口にした解決策のせいだろう。
幾度となく殺してきたドロシーに、私が間違いを犯したら言ってほしいと頼んだ。
私を幾度となく殺してきたグラナダは、私が間違いを犯したら閉じ込めてくれると言う。
こんなにも真摯に滑稽なことを言う騎士だったのか、と思わず吐息が零れた。
手を取ることを促すように、差し伸べられたその手は、最後に見た時よりもずっと小さかった。
私が間違えたら、きっと彼はまた手を伸ばしてくれるのだろう。
ただもし、私がもはやどうにもできなくて、再び他者を害するようになったとき、グラナダが閉じ込めてくれるというなら、それはどれほど安堵できることだろう。
恐怖がなくなったわけじゃない。ただ私のした行動を誠実だと湛える彼の真摯さに、私は応えたいと思った。
最期のとき、伸ばされた手が私に届くことはなかった。
11年越しに触れた手は、私が思っていたよりもずっと温かく、小さかった。




