4話 フレッサ領の森と伯父
「お嬢様、今日は花を摘んでこられたのですか」
「ええ、可愛いでしょう。パルサトゥラと言うそうよ。伯父さまが教えてくださったの」
泥と葉をブーツに引っかけて屋敷へと帰ると早々にドロシーに捕まった。
毎日のように伯父、アルフレッドについて森へ行き、午後のほとんどを散策に費やしている。これまで履いたこともなかったパンタロンにも慣れ、大きな動物を見ても動じなくなってきた。
「春だから、たくさんお花が咲いたわ。あなたにお土産。いつもありがとう、ドロシー」
「お、お嬢様……! パルサトゥラ、でしたか、部屋に飾らせていただきます!」
摘んできた花を抱えた私を抱き上げ、鼻歌交じりに浴室へ直行する。最近は森へ行くのとこれはセットだ。早々に着ているものを引っぺがされ、用意されていた浴槽に浸けられる。言外に汚いと言われている気分だが、さすがに貴族令嬢の正しい姿であるとは胸を張って言うことができないためされるがままにしている。もしイエーロが帰宅直後の私の姿を見ようものなら、あの怜悧な瞳で見下ろされてしまうことだろう。
「あなたが喜んでくれて嬉しいわ。生けるのは任せるけど、あとで根はくれないかしら」
浴室へと向かっていた足がぴたりと止まった。
「……お嬢様、花を頂けるなら根まで持ってくる必要はないのですよ? こんな風に根まで持ってきてしまえばお嬢様の両手もお洋服も汚れてしまいます」
「でもパルサトゥラの根は乾燥させておけば薬にもなるみたい。お花もきれいで、根っこまで役に立つなんて、素敵だと思わない?」
「それはそうですが、こんな土で手を汚されては、病気になってしまうかもしれませんよ。土や泥の中には何がいるともわかりませんから」
ドロシーはそう言って私の指をタオルで拭った。白いふわふわなタオルが茶色に染まる。よくよく見てみれば、モミジのような小さな手の先の爪は土が入り込んでいた。パルサトゥラの根を掘り起こすときに入ったのだろう。伯父は何も咎めなかったから気にしていなかったが、確かにこれでは不衛生だ。
「でももしドロシーが病気になったとき、こんな風に薬があれば役に立てるでしょ?」
「お嬢様っそんなに私のことを思っておられたのですね……! この身に余る幸せです……! しかし、しかしながらお嬢様、どうかその身を第一に考えてください……!」
私からパルサトゥラを取り上げると、近くにいた別のメイドに根を洗い生けるように指示を出す。ドロシーは泥だらけの私を抱えたまま浴室へと入った。
あっという間に靴も服も脱がされ、バスタブで泡だらけにされる。土の入り込んだ爪も、小さな葉を引っかけた髪も念入りに洗われる。春と言えど森の中を歩き回っていれば汗もかく。ぬるいお湯と石鹸の匂いに恍惚のため息をついた。このまま眠ってしまいそうなほどに居心地がいい。
「……差し出がましいとは理解していますが、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ん……なあに、ドロシー」
幼子の身体は疲れやすく、眠りやすい。体力はすぐにつき、襲い来る睡魔には抵抗する術を持たない。
「お嬢様、最近おかしくありませんか?」
「おかしいって何が?」
「だって……前までは泥で靴を汚すこともお嫌いで、花を愛でることはあれど庭にすら日傘とお供なしに出ることもなかったでしょう。それなのに、急にこんな風に」
ドロシーの柔らかなボブの髪がへたる。浴室の湿気のせいなのだろうか、表情も相まってまるで花が枯れるようだった。訝しがりながらも何よりも心配してくれていることがわかり、胸が痛んだ。
「アルフレッド様と話すことも今までなかったのに、今では毎日のように二人で森へ……いくらアルフレッド様がいるとはいえまだ6歳のお嬢様があんな深い森に入るなんて、恐ろしい。どんな動物がいるともわからないのですよ。万が一迷子になるようなことがあったらと、私は気が気ではありません」
ドロシーがこんなにも私に意見してくることは珍しい。
基本的にドロシーは主人にとても忠実だ。右と言われれば左も右で、黒いカラスも白になる。彼女がここまで意見してきた時は、私が殿下に毒を盛ろうと画策していることを知った時だけだ。
いつも余計なことを言わず、私の機嫌を取るばかりのドロシーは私を必死に諭した。人殺しの罪を教え、科される罰を教え、周囲へ波及する不幸を教えた。愛を語り、歪んだ嫉妬と悲しみに心を寄せて、そうして、私が国賊の人殺しになることを避けるために、毒を煽った。
その身をもって死を教えようとした。
結局私は、それでも皇太子に毒を盛ったのだけれど。
ドロシーは純粋に私の身を案じている。
ならば私がすべきことは一つだ。
皇太子とエンカウントせず、この領地に引きこもる。
そのためなら多少親や周囲を泣かせても構わない。命に代わるものなどないのだから。
「心配してくれてありがとう、ドロシー。確かに、わたくしは以前のわたくしとは少し違うかもしれない。……だってわたくし、失恋してしまったんだもの……!」
「ピナお嬢様……」
いっそわざとらしいかと思われた私の悲壮感漂う叫びに、ドロシーはあたふたと両の手を彷徨わせる。最近この失恋というチープな出来事が伝家の宝刀となりつつある。
「もうしばらく外の誰にも会いたくないの。外の美しさはわたくしの悲しみを増やしてしまうの。わたくしはこのお屋敷や、静かな森にただ包まれていたいわ。……お父様も、伯父様もわたくしのことを愛してくれる。守ってくれるわ。それになにより、ここにはドロシーがいる」
「お、お嬢様、私は……、」
「考えたの。皇太子妃にはきっとなれないわ。お父様の役には立てないかもしれない。でもそれ以外で役に立てる方法を考えたの。フレッサ領はたくさん森があるでしょ? 伯父様もここにしかない植物や薬草があるって言ってた。だからたくさん森や植物について知って、優秀な薬師になれたら、皇太子妃になれなくてもみんなの役に立てるって!」
皇太子にすべてをなすりつけつつ、引きこもっても許されそうな屁理屈を並べ、あとは幼女の愛でごり押しする。
中身は人生21周目のベテランだが、見た目はまだまだかわいらしい幼子。こんな小さなかわいい女の子に「役に立ちたいから頑張る」と言われて応援しない大人がいるだろうか。
「まさかお嬢様にそんな深いお考えがあったなんて……! それに口出しするなど恥ずかしい限り、己の狭量さに悔いるばかりです……!」
そう、そんな大人はいない。
一生懸命な幼女は何をしても許される。これが世界の真理だ。
感激のあまり落涙するドロシーの顔を拭いてやろうと手を伸ばすとそのままタオルに包まれ抱き上げられる。どうやら入浴は終わりらしい。
「そのようなお考えなら不肖ドロシー、全力でサポートさせていただきます」
「本当! ありがとうドロシー!」
「ええ、ええ、お嬢様が持ってきた植物、私には何が何だかわかりませんが、必要な処理はすべてお手伝いさせていただきますし、必要なものが街にあれば代わりに調達いたします」
「さすがドロシー! 頼りになるわ!」
純真な少女を騙しているようで一抹の罪悪感が生まれるが、口は噤んでおく。何も嘘ではないのだ、嘘では。私は引きこもりの薬師を目指しているし、皇太子の暗殺を試みて周囲を不幸の渦に巻き込むのも本意ではない。
みんなで幸せに生き延びることが、命を懸けた21周目の目標なのだから。
「ですが、お気を付けください」
私室へ戻ってイブニングドレスに着替えようとしたとき、小さな声でドロシーが言った。
「旦那さまは大層お嬢様のことを心配されています」
「お父様? お父様は心配性だから」
「……それもあるかと思います。お嬢様は旦那様にとって唯一のお子様で、今は亡き奥様の形見ですから」
どこか歯切れが悪い。いったい何を言いたかったのかと首をかしげる。
「あまりアルフレッドさまとばかりいると、旦那様も嫉妬してしまいますから」
「ふふふ、そんなこと? お父様はそんなことしないわ」
あんまり真剣な顔でどこかずれたことを言うドロシーを笑い飛ばす。
父、イエーロ・オルゴーリオ・フレッサは冷淡な人だ。
確かに私のことを心配するかもしれないが、それは跡継ぎのためだ。私が死ねばフレッサ家の直系の血が途絶えてしまう。そんな私を危険な森に連れまわす兄アルフレッドは頭痛の種かもしれないが、今まで一度たりとも怪我を負ったことはない。
跡継ぎの心配をすることはあれど、嫉妬などという感情とは無縁な人だ。
20周分の人生。罪を犯した愚かな娘を、父が擁護したことは一度もなかった。
ただ悪い細胞を取り除くように、私との血縁関係を切ったのだ。
塔の中に閉じ込められた死ぬ数日前の私は、淡々とドア越しに騎士の報告を聞いていた。
誰も私を愛さない。
愛してくれた唯一のメイドは、愛ゆえに自分のために死んでしまった。
1周目の愚かな人生を、馬鹿の一つ覚えのように繰り返す毎日。
恋をして罪を犯し、死んでいく。
それだけの人生だった。
そのどこにも、イエーロからの愛も関心もありはしなかった。