39話 薬師と好奇心
大々的に広報されたわけではない。
しかしルビアシアの木は栽培可能な地域の教会へと提供され、挿し木が施された。
当初難色を示したアルフレッドだったが、最終的には全面的に協力の意を示し、教会との調整やイエーロからの許諾ももぎ取って来た。ことの全容を把握しているのは私だが、実際に行動に移すとなると圧倒的に経験値が足りない。領から出ない引き篭もりとして、長男でありながら鼻つまみ者のようにすら謗られるアルフレッドだが、それでも立派な貴族で大人だ。教会との調整をうまく熟したうえ、挿し木の栽培方法のレクチャーのため現場へと赴きすらした。
最も困難なのが当主であるイエーロの説得だと思っていたが、アルフレッドはそれもあっさりと済ませた。曰く、イエーロは森のことを軽視する立場をとっているためむしろ過度な口出しができないのだと。ただ教会は政治的には中立でありながらどちらかと言えば順当に王太子派閥に寄っており、王弟派に属するフレッサとしては決して諸手をあげて賛成できない。これが原因で王弟の機嫌を損ねる可能性も十分あった。だがそのうえでイエーロから許可をもぎ取れたのは、ルビアシアの栽培できる植生が限られており、提供先の教会も数えられる程度。提供名目としても特定の疾病への対応ではなくごく一般的な解熱剤の原料としており、社会貢献の実績を積みつつ、あまり大きなハレーションもないという説明により、およそてこずることなくイエーロからの許可を得たという。
ただ不安な点として、今年新たに挿し木をしたところで、木が成熟し、皮の採取ができるまでには時間がかかることがある。いざサンクダリアが流行したとして、その時点で使い物になるのかどうか、それがアルフレッドにとっても懸念材料だった。育つまではフレッサ領で栽培しているルビアシアと調合用に乾燥させ保管してあるものを放出させることで対応するしかない、と考えていたが、挿し木の立ち合いに来ていたライラはこともなさげに「植物の成長くらいなら奇跡を起こせば十分可能だわ」と言い放った。
植物を栽培する者からすれば怒って良いような発言だが、いかんせんその原理不明の奇跡に助けられた当事者だ。ただ笑う他にない。
こうして私とライラの願いとおり、高致死率の流行り病サンクダリアの特効薬の材料となるルビアシアはフレッサ領の森以外でも栽培されることとなり、その皮を使用した薬の調合方法も伝えられた。
未来の多くの人の命を救うとともに、フレッサが得るはずだった利益はなくなった。
だがフレッサにも齎されたものがあった。
「……なんだ、これ」
「爽やかな味でしょう」
どこか不思議そうな顔をするアルフレッドの向かいに座り、透明なグラスに注がれた水に口をつけた。爽やかな口当たりに少し苦い後味。子どもは嫌いそうだが、さっぱりとした味のそれは決して悪いものではなかった。
「聖女様に教えていただいたんです。聖水の作り方」
「ぶふっ……は、これ、」
「おじさま、申し訳ありません。冗談です。教えていただいたのはハーブウォーターです。修道院でたびたび飲まれていたそうで、水にハーブや果物を入れて作るそうで」
大きなピッチャーの中ではミントやオレンジのスライスが揺蕩っている。
サンクダリアの特効薬、サンクフォールに関わる材料、調合方法と引き換えに、ライラは教会内で作られているハーブウォーターの作り方を私たちに教えた。
「修道院では随分しゃれたもん飲んでるんだな」
「薬効もあるそうで、手軽に市民へ処方していたとのことです。ですが普通に飲むだけでもおいしいと」
水を飲む機会はあまりない。私が普段飲んでいるのは紅茶だ。無色透明の水を飲むということはあまりない。おそらくそれは市民も同じことだろう。薄めた麦酒や葡萄酒、林檎酒にテキーラ、馴染があるのはこのあたりだ。端的に言って、水はおいしくない。水を飲むのは病人くらいのものだ。水を飲むにも一度煮沸しなければならないということもあり、あえて水を飲むという習慣が凡そない。
この水は井戸水を一度煮沸し、アカキナノキの樹皮を刻んだものと砂糖を合わせ煮る。それから好きな果物やハーブを加え煮込み、火から降ろして濾したものを冷ます。
「ルビアシアの特有の苦みはありますが、他のハーブや果物を加えれば飲みやすくなりますし、食事にも合うと思います」
「……まあ確かに。というよりハーブウォーターの作り方を教わったってことは要するにうちでオリジナルものが作れるってことだよな」
「ええ今作ったものはルビアシアを使用したもの。流行り病への予防効果はあるそうですが、他の植物や果物を使えば別のフレーバーや薬効も期待できます」
ルビアシアを使用したハーブウォーターはサンクダリアを予防する。だがもし同じ精製方法で別の薬効のある植物を使用したらどんな効果が出るだろう。ルビアシアと同様に、本来の薬効より薄く、しかし健康体に影響の小さい予防薬に等しいものになるのではないだろうか。
そうでなくとも、一般的に水を飲むのは病気を持つ者や修道院にいる者、平民ばかりだ。貴族たちが常飲しているのはアルコールを含んでいるもの、あるいは紅茶やコーヒー。病気にでもならない限り、水など飲まない。
だがもしその貴族たちに水を飲む文化を与えられたならどれほどの市場となるだろう。
教会はあくまでも薬効のある水、ないし清貧の象徴として水を飲んでおり、そこに嗜好的要素は介在しない。そのためそれをもとに商売をしようとはしない。何より教会は神の飲み物たるテキーラの製造を優先する。
「おそらく、未来フレッサが得るはずだったルビアシアをもとにした薬品の製造にかかる利益は莫大なものだったでしょう。ですがそれはあくまでもその特定の病が流行っているときだけです。予防がなされていれば流行はごく小規模なもので、極端な値のつり上げは叶わないことでしょう。ですがその点、ハーブウォーターは売り出し方によってはいくらでも引っ張れます」
「そんなにうまく行くものか?」
「さあ? わかりかねます。ですが最初から売れるとわかっているような商売もないのではありませんか?」
「……そりゃそうだ」
アルフレッドはグラスの中のもの一息に飲み干すと立ち上がった。
「伯父様? やはりあまり現実的ではありませんでしたか? それとも商売は、」
「いいや、やるぞ。だが方向は貴族の嗜好品に絞らない方がいい。嗜好品としての水、薬としての水、その両方でやる。フレッサは伯爵家であると同時に薬や薬草の売買でも名が知れてる。それを活かさない手はねえ」
戸棚からいくつもの瓶を取り出しては机の上に並べていく。どれも見覚えのある薬草たちだ。
「これの共通点がわかるか?」
「……どれも薬の材料になる、かと。あとどれも劇的な薬効、毒性が低いことでしょうか」
「まあそれも正解だが、完全じゃあない。こいつの共通点は水の沸騰する温度以下の湯で抽出がしやすい薬草、だ。抽出して飲む以上通常の薬より効能は薄くなるが、その分身体の小さい子供への処方にはちょうどいいかもしれん。……ああそれに疾病の初期症状への対症療法的な処方も向いてるんじゃあないか。慢性的な症状の緩和にも使えるのか……?」
私への問いかけであったはずなのに気が付けばアルフレッドのそれは独り言に変わっていた。元々好奇心の塊のような人だ。あらゆる可能性の元を提示された今が楽しくないはずがない。
ふと、これはあるはずのなかった歴史なのだと考えが脳裏をよぎった。
本来なら死んでいたはずのアルフレッド。
サンクダリアの薬になるとわかるのに多くの時間と命を払った特効薬。
フレッサに齎されることのなかったハーブウォーター。
存在しえなかったはずのものが合わさって、新しいものがまた生まれようとしている。
私のしていることに意味はあるかと自問した。行動を変えることで私は塔から転落する以外の未来を迎えられるのかと。だがわかった。ここはあるはずのない未来であり、同時にもはや私たちの知っている未来とは違う世界なのだ。
私が今までと異なることをしても、固定された未来に収束するわけではない。いくつもの事柄が複雑に合わさって、未来が紡がれていく。未来は変わっていく。変えられるなどという言葉も烏滸がましい。コントロールなど、できるはずがないのだ。私にできることは水面に小石を投げ込むことや、広大な大地をほんの少し耕すこと。それ自体は小さくとも、いつかきっと、想像すらできない何かと絡み合って全く別のものに姿を変える。
私の行動は、直接的に私の未来を救うとは限らない。だがその当然の事実に私は腐らないでいられる。動くことすら、口を動かすことすらできなかった今までとは違うのだ。
「じゃあ、わたくしはシカトリスのところへ行ってきます。屋敷の者の体調不良も把握しているでしょう。それに厨房の方にも寄ってみます。何か使えそうな果物も見繕ってきますね」
アルフレッドに送り出された足取りは軽い。
心も軽かった。
好奇心は私にもある。あの薬草を使ったらどうなるか、あの薬草と混ぜたらどうなるか。考えるだけでワクワクする。実益だけではない、シンプルな探求心。
その探求心を、誰も傷つけることなく、命を奪うことなく満たすことができるのが、嬉しかった。
以前とは違う。
試薬を飲んだ人間の生死を確認するのではない。毒薬の効果を試すのではない。
少しの体調不良を直すような、少し元気になるおいしい飲み物を探すような、そんな気軽さ。
まるっきり変わるわけではない。別人になるわけではない。私が私のままで、ほんの少し変わっていくようなそんな心地。
犯した罪は変わらない。変えられない。
けれど人を害さない私でいられることが、私を救っているように感じた。




