23話 伯父と運命
イエーロは午後頭に来客の対応に入る、という予定をドロシーから聞いた私は医務室に一人で訪れた。
消毒液と薬品、そして血の匂い。先ほどと変わらない状況に唇をかむ。目の下に隈をこさえ、椅子に凭れ掛かっていた医師がこちらに気が付いたようで一瞬視線をやったが、すぐに眠たそうにその目を閉じた。
カーテンを開けた先にアルフレッドがいた。思えば彼がこうしてベッドに横たわっているところは初めて見る。顔の半分が包帯に覆われているが、それは間違いなくアルフレッドだった。イエーロの言うように顔がひどい状態というわけではなかった。
私が見たところで、できることは何もなかった。
止血剤や化膿止めを作ることはできる。切り傷や打撲に効く薬も作ることができる。けれど今生死を彷徨うアルフレッドにできることは何も見つからなかった。
それどころか私が持っている知識では、アルフレッドはこのまま死亡するだろう。私はただ、それを見ていることしかできない。
窓から差し込む午後の日差しは空気を読まず美しく朗らかだ。こちらの惨状も悲嘆も何一つ斟酌しない。アルフレッドの額に浮かぶ汗をぬぐう。いつも朗らかで笑顔しか思い出せない彼の苦しそうな顔は初めて見た。
彼はこうして、一人、死んでいったのか。
今の私に、アルフレッドにできることは何もない。
カーテンを閉めてベッドから離れると医師は瞼を片方だけ開けて、それから閉じた。おそらく、彼がイエーロに報告することはないだろう。
「ねえ、」
「……寝ている藪医者に何の御用ですかなお嬢様」
「伯父様は、死んでしまうの?」
医師は目を開けることなく言った。
「……このままでは。力足らずで申し訳ありません」
「腕のいいお医者様なら、伯父様を助けられる?」
「今のアルフレッド様を前にすれば、どんな医者もただの藪にしかならんでしょう」
誰にもどうにもできず、ただ死んでいくのを見届けることしかできないのだろうか。
今、生きているのに、何もできず死んでしまうのか。
イエーロが見捨てるか否かにかかわらず、何もできないと医師は言った。たとえイエーロが手を尽くし、腕のいい医師に見せようと、医院に入院させようと、変わらないのだろう。
「神などに縋るのが嫌で、この手で人を救うことのできる医者になったというのに、私はもう、ただ奇跡を祈るしかありません」
自嘲気味にそう言ったきり、医師はそのまま黙り込んだ。私に傍にいてやれと言うこともなければ、出て行けということもなかった。
神などに縋れない。神に祈っても祈っても、私を救ってくれることはなかった。この世の神アガヴェーは、私を殺し続け、アルフレッドもまた殺し続けたのだ。今更神の何を信じられるだろう。
努力も希望も妄執も、いとも簡単に踏みにじる。
奇跡も救いも、待っていたところで与えられるはずもない。
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数多の馬の蹄の音。近づく人々の気配と囁き声。それはまるで羊の群れが丘の向こうから姿を現し、羊飼いに追い立てられているようだった。
白服と白馬で揃えられた仰々しい一団が、フレッサ伯爵家へまっすぐ進んでいた。
「いったい、なんだ……! 何が起きようとしている……!?」
珍しく冷静さを欠いたイエーロを眺めながら窓の外を見る。
高台に建つ屋敷と言えど、街の方から向かってくる一団を目視することはまだできなかった。しかしひしひしと、非日常が足音を立てて迫っていることはわかった。
初めに気づいたのは早朝に買い出しに出ていた厨房の下男だった。
常とは異なる街の匂いを嗅ぎつけるのが早いのは街に住む町人たちだ。物とともに運ばれる風の噂は馬の脚よりはるかに速い。
「旅団が隣町にやってきた」
「老若男女入り混じった異様な集団」
「美しい毛並みの馬」
「白い揃いの服に、白い馬車」
馬の飼料が買われ、宿がとられる。食料を補給し、また進む。
その下男は市場で耳にした。
「テキーラが来た」
まるで祭りのように、ある種の熱を孕んだ喧騒。普段の活気のある朝市ではない。非日常の足音を耳ざとく聞きつけた人々の好奇心が、伝播する。
「御遣いだ」
「聖なる使徒が来た」
「この街にも来るらしい」
「教団が来る。稼ぎ時だ」
「一目見てみたいものだ。美しい聖者の行進を」
「新しいテキーラの君」
口から口へと伝わって、高揚感は増幅していく。すぐ、耳の側で蹄の音が聞こえるように。
「アガヴェーの聖女がやってくる」
姿も音も見えずとも、それがおよそ数時間後に来る事実だと確信した下男は買い出しもそこそこに放り出し屋敷へと戻ってきた。
それから屋敷はまるで蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
屋敷の誰も、教団の来訪の話は受け取っていなかった。何より何をしに来るのかも検討が付かないのだ。基本的に教団の活動は教会を通して行われる。フレッサ領にも複数の教会があり、活動はそこで行われていた。一団が派遣されるようなことは教会が設置されたとき以来のことだ。
布教活動か、説法か。しかしなんの情報もない。
フレッサ領に来ただけなのか、それともフレッサ伯爵に用があるのか。
教団と言えど、用があるのならあらかじめアポを取っておくのが一般常識だ。なんの連絡も相談もなく突然押し掛けるなど、許されない。
けれど礼を欠いた訪問に対する怒りよりも、目下の不安の方がはるかに大きかった。
「旦那様、教団は街の中をパレードのように進んでいます。もう1時間もすればここへ到着するでしょう」
「……なんの知らせも受け取ってはいないのだな、クルエルダー」
「ええ、使用人たちにも確認しましたがそういった先ぶれは、何も」
「最近の教団の動き……いや、今回はそうではないのか」
「街へ出た使用人たち曰く、教団の旅団というより、教団の聖女一行のようです。街の中のあちこちで奇跡を起こしながら進んでいるようです」
家令の報告に天を仰ぐイエーロ。
突然の聖女の訪問、街中で尊卑問わず降ろされる奇跡。市中はさぞ歓喜に湧いていることだろう。新たに就任した聖女は国中引っ張りだこなのだ。にもかかわらずどうしてかフレッサ領に来て、奇跡を起こして回っている。
「市民に来訪の理由を何か話していないか?」
「今のところ、具体的な話は聞けていません。ただフレッサ伯爵家へ向かっているとは話しているようです」
イエーロの眉間の皺は深い。
奇跡を起こしているのがただの気まぐれな人助けなら良い。だがもし、統治がなっていないという嫌味であったなら。
他の貴族のように懐柔しようにも、相手は敬虔なアガヴェーの使徒。俗物的な手は使えないうえ、街の噂を聞く限り、あくまでも聖女一行。聖女はまだ齢10にもならない少女だ。少女に賄賂が効くはずない。
「お父様」
「……ピナ」
「聖女様をわたくしにお迎えさせてはいただけませんでしょうか。聖女様はわたくしと同じ齢とお伺いしています。きっとお父様の今のお顔をご覧になったら怖がってしまいますわ」
イエーロはしばらく逡巡し、まだ見ることの叶わない聖女一行を思いため息を吐いた。
「……わかった。お前の言う通りにしよう。謹慎を解く代わりに、聖女様をもてなすように」
「誠心誠意、務めさせていただきます」
ようやく謹慎が解け、外部の人間と関わることを許された私は、控えめに、真面目に見えるよう淑女の礼をとった。
 




