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ぼくが動いて話せるようになった日

 ぼくと歌子ちゃんがお引っ越しをして、新しい生活がはじまった。

 歌子ちゃんは四月になってから、よくお出かけをするようになった。『しごと』に行ってくるね、ってにっこりぼくに笑いかけて、ぼくをひとなでしてから「行ってきます」って家を出ていく。そして、夜遅くまで帰って来ないんだ。

「ただいま」の声は朝よりもげっそりしていて、疲れているんだなって分かる。ふらふら~っていう感じでぼくのいる方へとやってくると、そのままベッドに倒れ込んでぐったりしていることが多い。けれど、しばらくするとぼくをぎゅっと抱きしめて笑顔を浮かべてくれる。そしてしゃっきりと起き上がって「お風呂に入ってくるね」「あっ、晩ご飯食べてない!」「スマホとイヤホン、充電しておかなきゃ」って感じでおしゃべりな歌子ちゃんに戻る。つられてぼくが『いってらっしゃーい』『ご飯はちゃんと食べなくっちゃ』『思い出してよかったねぇ』って返しても、相変わらず聞こえてないみたいだけど。

 夜遅くに寝て、次の日の朝にはまた早起きをして、元気に出かけて行って、疲れて帰ってくる。ときどき、本当にときどき、歌子ちゃんは一日中家にいることもあるけれど、そんなときは大体、ぼくを抱きしめてずーっと寝ている。寝ている歌子ちゃんに投げられたことが何回かあったけれど、そのときの寝顔は楽しそうじゃないから、あんまりいい夢は見れていないのかもしれないなぁ。

 ……いや。

 歌子ちゃんはここ最近ずっと、楽しくない毎日を過ごしているのかもしれない。

 いつもにこにこしているから忘れそうになるけれど、毎日毎日、歌子ちゃんはくたくたになって帰ってくる。遊び疲れて、とかならいいんだけど、ベッドに突っ伏しているときの様子を見ていると、どうもそうじゃないみたいで。

 布団に吸い込まれてしまっていて言葉は聞き取れないけれど、歌子ちゃんは、なにかを言っているみたいなんだ。

 その声はなんだか苦しそうで、辛そうに聞こえる。


 そして、四月が終わって、五月が過ぎて、六月になった。

 六月は、ジメジメするし雨続きだから、あんまり好きじゃない。それに、気分もなんだか暗く、湿っぽくなっちゃう。

 ……だからってわけじゃないと思うけれど。

 歌子ちゃんは、だんだんと笑わなくなっていった。

「行ってきます」の声は朝に似合わない暗さで、「ただいま」はいつの間にかなくなった。布団に突っ伏した時にはすすり泣きの声が聞こえるようになって、お風呂にも入らずご飯も食べず、そのまま眠ってしまうことが増えた。

『どうしたの?』

『なにかあったの?』

 尋ねてみても、歌子ちゃんはなにも言わない。

 ぼくの言葉が、聞こえるわけがない。


 その日は、六月なのに雨が降っていなくて、きれいなお月さまが見える日だった。

 だけど、歌子ちゃんの心は、土砂降りの雨にあったみたいで。

 いつもよりも遅く帰ってきた歌子ちゃんは、ベッドに倒れ込むと、突然ぼくのことをぎゅっとつかんだ。ぬいぐるみだからなんにも感じないはずなのに、なぜか、綿を詰め込まれすぎたみたいに苦しくって、思わず、名前を呼んでいた。

『――歌子ちゃん?』

「ねぇ、ココア……私、もう、疲れちゃったよ……」

 ぽつりぽつり、と。歌子ちゃんはぼくを強く抱きしめながら、いろいろなことを話してくれた。最近怒られてばっかりだとか、嫌なことをされてばかりだとか。自分がなにもできないことがいけないって分かっているけど、それでも辛い、訊いてもちゃんと教えてもらえない、とか。

「ねえ、どうしたらいいんだろう。私、ずっとこのまま、我慢していればいいのかなぁ?」

 そう言って、歌子ちゃんは笑った。ぼろぼろ泣きながら、土砂降りの顔で笑っていた。

 ……あぁ。

 ぼくは、幸せを呼ぶかぎしっぽの、白猫なのに。

 歌子ちゃんに、幸せを呼べないのかな。

 少しでもなぐさめてあげることができないのかな。

 元気づけてあげたい。ぎゅ、って抱きしめてあげたい。

 ぼくのことを助けてくれた歌子ちゃんのこと、今度はぼくが助けてあげたい。

 そう思うのに、なにもできないのが、悔しい。

 話せたらいいのに。動くことが、できたらいいのに。


 歌子ちゃんの涙が、月の光でキラキラ光って、ぼくに落ちた。

『――願いを叶えてあげましょう』

 知らない女の人の声が、聞こえたと思った。

『ただし、無茶をしたら魔法は終わってしまいますからね』

 一瞬、星の光がぼくを取り巻くように咲いた、そんな気がした。


「ねぇ、ねぇ歌子ちゃん」

 ぽんぽん、と、歌子ちゃんの腕を撫でる。

「無理しなくっていいよ。ずっと我慢してたんだもん、もう我慢しなくっていいよ」

 顔をぐちゃぐちゃにしながら、歌子ちゃんはぼくを見つめていた。

「――ココア?」

「うん、どうしたの?」

「……どうして、喋ってるの?」

 びっくりした顔で言われて、思わずぼくは「えっ」って呟いちゃった。

 でも、その声が本当に聞こえたから、歌子ちゃんにも届いているんだって分かったから。


「――えっ、あ、本当だ! ぼく、喋ってる!」


 ぼくまで、目をまん丸にしちゃったよ。

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