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新しい生活がはじまった日

 ぼくが歌子ちゃんのぬいぐるみになってから何日かが過ぎて、ぼくは、歌子ちゃんと一緒にこのおうちを出ることになった。『じょうきょう』するんだって言ってたけど、それがなんのことか、ぼくにはいまいちよく分からない。ただ、「歌子は大人になったから、これからは自分の力だけで生活しなきゃいけない」……みたいなことを、歌子ちゃんのお父さんが言っていたっけ。

 鞄の中に入れられてなにも見えないなか、歌子ちゃんの「行ってきます」という声が聞こえた。

「頑張ってね。でも、無理はしないのよ」

「辛いことがあったらいつでも帰ってこい」

 お母さんとお父さんの優しくてあったかそうな言葉。

「うん。ありがとう。――きょうちゃん、行ってくるね」

 歌子ちゃんが妹に投げかけた声は、どこか遠くに届けるみたいに大きい。

 響子ちゃんは、お見送りに来てくれなかったみたいだ。


 それからしばらくの間、ぼくはずっと鞄の中で揺られていた。鞄の中のものにあちこちぶつけて、気分が悪くなってきたそのとき、ふいに歌子ちゃんが僕を外に出してくれた。

「電車に乗ったからね。これから品川に着くまで、一時間くらいはずっと乗りっぱなしだよ」

 椅子がずらっと並んだ不思議な箱の中に、ぼくはいた。箱には窓がついていて、ガタンゴトンと音を立てて揺れている。

「景色、見る?」

 そう言って、歌子ちゃんがぼくを窓の近くに近づけてくれた。外を見てみると、おうちや木やたくさんのものがびゅんびゅんと後ろの方へと飛んでいく。昔、家族みんなで車に乗ったときとよく似ているけれど、車に乗ったときよりも、もっともっと速い。目が回りそうだ。

 ぼくを膝の上に抱えなおして、歌子ちゃんはスマホを触りはじめる。イヤホンを耳につけているから、なにか音楽を聴くみたいだ。

 それならぼくは、猫らしくお昼寝でもしようかな……なんて思うけれど、できない。だってぼくはぬいぐるみ。普通の猫と違って、目を閉じることはできないんだもの。歌子ちゃんに作られてからというもの、一度も眠ったことがない。

 あーあ、しばらく暇になっちゃうなあ。まあ、暇なのは慣れっこなんだけどね。


 ぼくと歌子ちゃんの新しいおうちは、前にいたおうちよりも部屋が少なくて狭い。家具も全然なくて、歌子ちゃんは「これからいろいろ揃えないとなぁ」と声を漏らしていた。

「――ねえ、ココア」

 歌子ちゃんに名前を呼ばれて、ぼくはピンと耳を立てたいような、そんな気持ちになる。

 ココア。響子ちゃんがぼくにつけてくれた名前。『このこねこは、ココアくんっていうの!』と無邪気に笑っていた、楽しそうな声。響子ちゃんがぼくのことを『こねこ』だと言ったとき、名前を付けて、「くん」付けで呼んでくれたとき。そのときぼくは、初めてぼくになれた。自分っていうものを持てたような、そんな気がしたんだ。

 そんな響子ちゃんに、捨てられかけるとは思っていなかったけれど。

「これから、新しい生活がはじまるんだね」

 ぼくの頭を優しくなでて、歌子ちゃんがにっこりと笑う。

「ココアの居場所は、私の枕元でもいいかな? いまのところ、ぬいぐるみを置いておけるような棚がないんだよねぇ。床に放っておくのもなんか違うし」

『うん、いいよ』

 頷けないけれど、頷いたつもりになってそう言った。

 歌子ちゃんは名残惜しそうにぼくをベッドの上に置いて、持ってきた荷物の後片付けをしはじめた。


 一緒に暮らしはじめて気づいたことだけど、歌子ちゃんはよく喋る子だった。

 出掛ける時は「いってきます」、帰ってきたときには「ただいま」を。音楽を聴きながらよく歌い、なにか考え事をするときも、パソコンをカタカタ鳴らしているときも、家事をするときも、「あれがこうで、こうして……」「あっ、わっすれてた!」「野菜がなんにもない!」っていう感じで独り言をいっぱい喋る。

「わたしってうっかり屋さんなんだよねぇ。なんとかしなよってココアも思ってそう」

 そして時々、ぼくにも話しかけてくる。

「おはよう、ココア。今日はあったかいね」

「ああ、ごめん! 落としちゃった!」

「ねえねえ、ココア、これどうしたらいいと思う?」

 そんなとき、ぼくは自分の声が届かないことも忘れて返事をするんだ。

『おはよう、歌子ちゃん』

『大丈夫大丈夫、全然痛くないよ』

『そんなもの見せられても、ぼくにはなんにも分からないよう』

 ああ、ぼくも喋れたらいいのになぁ。

 そうしたらきっと、歌子ちゃんと一緒にたくさんのことをお話しするのに。

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