第一章 水神の里(1)
時は平安時代。
平安の都よりも遠く離れた西にある筑後の地にある肥前国の領地の一つである松浦郡には、千人足らずの村人の住む小高い山に囲まれた小さな村があった。
土地のほとんどが山で覆いつくされているためか、稲作が豊富に取れる場所ではなかった。
しかし、村人たちは、お互いに知恵をしぼりあげて、山でかまれているという利点を生かして産物を蓄え続けていた。
ずっと昔より存在している村でありながら、その存在はまだ当時あまり知られてはいなかった。
田畑を耕すには、いささか不憫であったが、村人たちの長年の努力により培われた財産がそこにはある。
この村を『有田の里』と呼ぶようになったのは、いつの時代だったのだろうか。
もしかしたら、この地を発見したのが有田という名のものだったのかもしれない。
努力の結晶の末に出来上がった田をたたえて、この山、田ありけりという意味で、そう名乗ったのかもしれない。
その意味さえも、だれも深くは考えたりはしない。
当たり前にある存在、
当たり前にある街の名は、この南から北へと連なる島国を倭と呼ぶのとさして変わりはない。
だれが、つけたのかということは、この際、どうでもいい事情ではない。
たかが千人たらずの村。
それでも、滅びることを知らないのは、彼らが伝統を持って、人を尊び、
子孫を残し続けてきたあかしなのかもしれない。
肥前国の片田舎
都では、不穏な動きがあろうとなかろうと、この村はいたって平和を保っていた。
京の都では、平家と源氏という二つの勢力がひそかに争いを繰り広げていた。
だから、人々の中では、どちらかがやがて、この国を支配するのではないかという懸念の声もかすかにきかれるようになっていた。
この世は、貴族の支配する世の中
武士は、彼らを守るためにのみ存在する一族に過ぎなかった時代
しかしながら、武士の中には、この倭国を武士の時代へとしようという動きも確かにあった。
それが、平家と源家の二つの勢力であった。
しかし、まだ彼らは本格的な動きをしていない。
彼らが、天下の散りあいをするのも合戦を繰り広げるにも、少し時間がまだあった。
それゆえに陰謀渦巻く京の都といえども、平和が保たれているということである。
しかしながら、あくまでも京の都の中のみのこと。
平安も末期に近づいているという懸念が民からもれてくるのは、確かに地方では、戦いが繰り広げられているためである。
そこは修羅場だと、京の都から初めて出たものがいう。
なぜ、京の都は、あれほど穏やかなのに、このように京の外は荒れているのだろうか。
アヤカシどもの動きも活発し、怨霊たちも地を荒らす。
これは、この世が末期に近づいている証拠
ひそかにささやかれている言葉が、徐々に現実になっていくことをまだ知らない。
平城から平安へと都を移してから、数百年。
貴族の近衛のような役割にすぎなかった武士たちが、力を得て、貴族社会を変えようとしている。
その渦は、確かに肥前国へも侵攻していた。
だれかが噂していた。
都より訪れた武将が、暴れまわっているのだと・・
動乱とかしつつあるこの地を平常へと導くために紛争している人物なのだろうか、それとも、己の欲のために、この地を手に入れようとしているだけなのだろうか。
ただの農民に過ぎない村人たちが知ることはなかった。
ただ、流れる噂だけが村人たちにつたわっていく。
少なくとも、ほかの土地では、飢饉などで土地がやせて、稲画育たずに飢え死にするものも出ているという噂も聞こえてくr。
しかしながら、この肥前国の松浦という地は、その中でも安泰なほうであった。
これも豊な自然と実りのおかげでもあり、
領主である後藤家の民を思う気持ちのおかげだろう。
民たちは、そう噂している。
確かに年貢は、払わねばならない。
それでも、村人たちが食べるものに困らない程度の年貢で済んでいるのは、情に厚いお方である証拠ではないだろうか。
この村が、片田舎で、大名たちの争いごととは程遠い場所に位置するためでもあるのかもしれない。
まあ、このような四方山に囲まれた整備されていない道ばかりある偏狭の地だ。
だれが好んでこのような地にまで来て争いを続けようというのだろうか。
何の意味もなさない。
この地を手に入れても何にもならないのだと、村人たちは思っている。
だから、平和なのだと・・
争いごともなく、ほんの千人という村人の数で、静かな暮らしをしている。
何年も何千年も昔から、この地に人々がすみついていた。
偏狭の地を選んだ理由などもうすでに忘れ去られている。
ただ、住みつき、稲を耕し、大地とともに人々は、生き続けていた。
何も替わることもなく。
ただ平和に・・
北部に連なる『黒髪』の山の神と水の神に感謝しながら、人々は暮らしてきた。
毎年、祭りを開き、
大地に感謝して、
人々に感謝して
今後の豊作を願う。
そんな祭りが毎年のように黒髪の山にある『白川の池』へと水のめぐみの感謝を述べる。
しかしながら、長きわたる時代の流れの中で、徐々に人々が変化していったのも事実だ。
静かに進行してくるのは、外部からの来訪者。
血は、純粋な血から、回りあった子供が生まれていく、
気付けば、薄れていく血。
そのことすら、村人たちは忘れていた。
いったい、自分たちは、どのような血が流れていたのだろうか。
なぜ、このような偏狭の血に自分たちは存在しているのだろうか。
それさえも、考えなくなっていた。
村を去るものもいれば、
村へと入り込むものもいる
やがて、一族の血も薄れ、奉納の習慣も薄れつつあった
なぜ、その池に収穫したばかりの穀物を奉納し続けるのか
なぜ、毎年師走に近づく時期に祭りをするのか
その理由さえも忘れ去られつつあった。
閉鎖されていたはずの血は、肥前国の大名たちによって、切り開かれ
いつの日にか
後藤家の領土となっていた。
毎年のように年貢を納めるなかでも
村人たちのかかさない奉納の儀
しかしながら、その年は、この肥前の地に、大雨、洪水といった大災害が起こったと思えば、
何ヶ月も雨の降らない日々もあり
不作が続いていた
どうにか、年貢を納めることが精一杯であった。
それでいながら、村の長老たちは、麦といったものを池に奉納するのをおろそかにしなかった。
「たいへんなことになってしもうた」
不作が続く中でいつものように白川の池に奉納へと向ったはずの与作が、青ざめた顔で村へと戻ってきた
「どうしたんか?与作よ」
与作の幼馴染の朔太郎が尋ねた
「大変なことになっとった」
「だから、どうしたんだい?」
朔太郎が、訝しげに与作をみた。
いつのまにか、与作の周りには村人たちが集まっていた
「あんた・・」
「父ちゃん?」
与作の妻や、十歳になる息子までも不安そうに与作をみる
与作の顔色は優れない
「神様が・・」
「神様がどがんしたんか?」
「水神様が、お隠れになられた!!」
与作の言葉に、村人たちは騒然となる。
その中で子供たちだけはきょとんとした顔で大人たちの様子を伺った
大人たちの顔は見る見るうちに青ざめていった
「水神様がお隠れになっただと!!?」
「なぜ?」
「なぜ?」
口々に言い合う
「とにかく、長老様のところへ参りましょう!!」
だれかが言い出すと与作と、朔太郎と数人の村の男たちが長老の住む家へと向った
子供たちは、わけがわからずに、大人たちの様子を見つめるしかなかった
与作の息子である与次郎の視線は、水神様の住んでいるという山のほうへと視線を向けた
その山の向こう側には大きな大きな岩があった。
まるで天にも届くような大きな岩
それを天童岩と読んだのはだれだったのだろうか
気がつけば村人は、その大きな岩をそう呼ぶようになっていた
なぜ、与次郎の視線が、その岩へと注がれたのはわからなかった。
なんとなく、その岩になにかが渦を巻いているのが見えたような気がしたのだ
「次郎。どうした?」
与次郎の兄の与太郎が尋ねた
「お兄ちゃん、なんか、あの岩にまきついたんだよ」
「え?」
与太郎は、与次郎と同じ方向へと視線を向けた
その方向には何も見えない
いつものごとく
大きな岩が、まるで殿様のように聳え立っているだけであった。
「なにもないじゃないか。」
「でも、たしかに・・」
見間違えだろうか
何か白いものが岩に渦を巻くように巻きついていたような木がしたのだ
「お前たちは家に入っていなさい」
残っていた大人たちに促されるままに、与次郎たちは家の中へと入ることにした。
気のせいだろうか。
あれはなんだろうか。
与次郎は、底知れぬ不安に駆られた。