十一
「じゃあ、あんた、児玉峠を通って来たっていうのかい?」
まさか、とでも云いたそうな顔をして女は声を上げた。
熾は夢中で焼き魚にかぶりつきながらも、軽く頷いた。
当初の目的地である『三船屋』は、この村でもっとも立派な門構えをした建物だったので、すぐに分かった。
宿に到着し、女将に遅れたことを詫びた後、熾は無事に薬を届けることができた。
今は、食堂にて朝食を食べていたところである。
向かいに座った女将は、あんぐりと口を開け「それはまぁ………」とぶつぶつ呟いていた。
まあ、さすがにここまで来れば、云いたいことは分かる。
結局、熾の選んだ道は不正解だったのだろう。
家を出る時に久太がなにかを云っていたのは、今思えば『児玉峠は通るな』という旨を伝えたかったんだと思う。
地図に注意書きのように書いてあったのも、きっと同じようなことだろう。
狼やら化け物やらが跋扈する峠道なんて、危険極まりないのだから。
「あんた、運が良かったんだねぇ。あの道は危ないから、今は誰も使っちゃいないんだ」
熾は口の中の食べ物をひとおもいに飲み込んでから首を傾げた。
「じゃあ、昔は人が使ってたんですか?」
「つい数年前までは使ってたさ。あの道を通るのは、森を行くよりもうんと近道なんだよ。崖が近いから危なく見えるけど、慣れればどおってことないし、人が落ちる事故なんてまったく起きなかったんだ。夜になっても、獣なんかも出ないしね」
普通に狼出たけどな、と熾は思った。
「それがいつからか、事故が多発するようになってね。何もないところでつまづいて崖から落ちたり、知らない間に連れが居なくなってたり………ひどいときは、前日に行方不明になった人が、翌朝に胴と頭が切り離された状態で見つかったりしたんだ。噂じゃあ、物の怪の仕業だとかなんとかって」
それを聞いた瞬間、熾は背筋がぞっとした。
もしあの時、あの男に捕まっていたら、自分もそうなっていただろう。
(あれ……でも)
そういえば、どうやってあの男を振り切ったのか、肝心なところが思い出せない。
狼からも、どうやって逃げたんだったっけ。
なにか、誰かに手を引かれて走ったような気がするのだが………。
(誰だったっけ)
それに、あちこち木の枝で擦ったはずの切り傷も、痒くてたまらなかったはずの虫刺されも、無くなっていた。
確かにあったへその下の虫刺されも、綺麗さっぱり消えている。
なんだか、長い夢を見ていたような気分だった。
「それからは人が通らなくなったせいか、狼なんかが住み着いたりしてね。だからあんた、本当についてたんだよ。あの峠道はいわくつきだし、とにかく危ないから」
「はぁ」
実際に身に起きたことでもあるのに、どうにも現実味がわかないように思えた。
腹が膨れて眠気が襲ってきたからかもしれない。
「児玉さまじゃあ」
不意にどこからからか、しゃがれた声が飛んできた。
熾のはす向かいに座っている老爺だった。
白い髭を蓄えた口をもぞもぞと動かして、老爺は湯飲みを抱えたまま話し出す。
「児玉さまのご加護じゃあ」
「児玉さま?」
「あれ、おじいさん。なんか知ってるのかい」
熾と女将が問う。
「児玉さまは、ここいらの祖神さまじゃ。お小さい子供の姿をしておられる。昔から、ここらで事故が無かったのも、悪いものが憑かなかったのも、ぜんぶ児玉さまがこの土地を守っていてくれたからじゃ。それが、最近の者は児玉さまへの感謝の念を忘れ、拝ることがなくなったばかりに、児玉さまの加護がなくなってしもうた」
ふうんと相槌をうってから、女将は面白そうに口角を上げた。
「じゃあ、その児玉さまがこの子を護ってくれたっていうのかい?」
「そうじゃ。他に考えられん」
云ってから、老爺は熾のほうをじっと見据えた。
「あんたさん、なんか児玉さまに気に入られることでもしたんかね」
「えぇ? 特に……」
云いかけて、熾はふっと口を噤んだ。
峠の入口で見つけた小さな石のお地蔵さん。
(あれってもしかして――――)
優し気な誰かの笑顔が、頭をよぎった気がした。




