十
「っあ」
焦りのせいか、熾は木の根に蹴つまづいた。
体の均衡を崩して、上体が宙に放り出される。
転ぶ、と思ったその時、なにか温かいものが腕に触れた。
驚くほど強い力で腕を引かれ、転びかけた上体が持ち上がる。
そのまま熾は何者かにぐいぐい腕を引っ張られ、引きずられるようにして走り出した。
熾の腕を引いているのは、小さな子供だった。
しかも、その子供には見覚えがある。
夕方、峠の入口で見かけた、藍鼠の四つ身を着た男の子。
その子が熾の腕を引いて、恐ろしいほどの速さで森を駆け抜けていく。
熾はさきほどの恐怖も忘れて、呆けた気分で男の子を凝視していた。
ただ真っすぐに走っているのに、全く木にぶつからないのが不思議だった。
と思ったら、木々が自分たちを避けているのだ。
そんなことはあり得ないと思いつつも、しかしそうとしか思えなかった。
周囲の木々が皆、仰け反るようにして熾たちに道を開けている。かと思うと、次の瞬間にはまたもとに戻り、後続の男の道を阻んでいた。
まるで、森が自分達の味方をしているようだった。
というよりも、目の前の男の子の味方をしているのだろう。
最初に見た時から、なんだか不思議な雰囲気を纏った少年だった。
どこか幽く、しかし悪いものは全く感じない。
何故か初めて会ったような気がしないし、懐かしいような気さえする。
掴まれている腕がじんわりと温かく、そこから体中に熱が戻ってくるようだった。
森の景色は飛ぶように過ぎて行って、いつの間にか男の悍ましい声も聞こえなくなった。
すると、不意に前を走っていた男の子が立ち止まり、ぱっと熾の腕を離した。
男の子が振り返る。その時、熾は初めて男の子の顔を見た。
どこにでもいるような、平凡な顔をしていた。
どこかで会ったような、そんな顔をしているようにも思えた。
「ねえ君はなに? さっきのあれはなに?」
熾が問いかけると、男の子はにこりと笑った。
そして突然、熾の頬にぱちんと手をあてた。
「っえ」
驚いて固まる熾を気に留めず、男の子はその後も額や腕、太ももや膝なんかにぺちぺちと手を当てていく。
そして最後にへその下にもぺしりと手を当てると、満足したように離れた。
「えっと………?」
なにをされたか分からない熾が目を白黒させていると、目の前の男の子はもう一度にこりと笑った。
そして、次の瞬間には霞のように消えてしまった。
「え………」
突然居なくなった男の子の姿に驚いていると、眩しい光が視界に入り目を細める。
どうやら、朝になったようだ。
そして、熾は正面を見つめて「ああ!」と声を上げた。
民家がいくつも立ち並んでいて、まだ早朝で少ないが人通りも見られる。
いつの間にか、花緑の村に着いていたようだった。




