六
凹凸の激しい岩道は、がくがくした稜線を描いて村へと向かって行く。
丈夫な雪駄を履いていて良かったと熾は思った。
暗い場所に目が慣れ始めたとはいえ、断崖に近い峠を夜に歩くのはやはり危険だ。
はやいところここを抜けてしまは無くては。
自然に歩みは早くなった。
出来るだけ急いで。でも焦らずに。
ふと、なにかの気配を感じて熾は立ち止まった。
横を見ると、熾のいる道なりから大きく逸れた斜面の下――青い葉のしげる欅の前に、何かいる。
(なに? なんだ?)
目を凝らしてよく見ると、それは子供のようだった。
稚い、五歳くらいの男の子に見える。煤けたような藍鼠の四つ身を着ていた。
迷子の子なのだろうか。
怪我をしているのか、頭を抱えてうずくまっており、先ほどから微動だにしていない。
――この斜面から転がり落ちたのだろうか。
(いけない)
頭を打っていたら大変だ。
「ねえ、きみ!」
熾は半身で斜面を滑るように下った。思ったよりも傾斜がきつく、危うく自分が転がりそうになる。
「っとと………」
なんとか踏ん張って転倒を堪えた。安心して息をついたのもつかの間、子供の傍に駆け寄ろうとして、熾は素っ頓狂な声をあげた。
「っえ?」
居ないのだ。
先ほどまで木に寄り掛かるようにして蹲っていた男の子が、どこにもいない。
熾は泡を食って、木の傍に駆け寄った。
子供が座っていたとみられる場所には、人の居た痕跡はまったくなく、土にも乱れは見えない。
代わりに、欅の根元にはぽっかりと大きなうろが空いていた。
それこそ、さきほどの男の子がすっぽりと入りそうな大きさの空洞だ。
果て、こんなのさっきはあっただろうか。
子供の影に隠れて見えなかったのかもしれない。
「んんん? 一体なにが起こってるんだ……?」
狐につままれたような、奇妙な気分になる。
熾は体をかがめてうろの中を覗き込んだ。
暗い穴の中には、角のとれたやたらまるまるとした石と、やや角ばった円柱のような形をした石が無造作に転がっている。
「なんだ、これ」
手を伸ばして丸石のほうを手に取った。
目を眇めてよく見ると、丸石の表面には細い筋のようなものが入っている。
恐らく、自然に出来た物ではない。意図してつけられたものだろう。
ひっくり返して逆の角度から眺めると、ようやくその意匠の意図に合点がいった。
「ああ」
どうやら顔になっているらしい。不格好だが、目と眉、鼻に口が描かれているのだと分かった。
なにかにぶつけたのか、頭頂部が少しだけ欠けている。
「じゃあ、こういうことか」
熾は再びうろの中に手を伸ばした。中にある円柱の石を立て、その上に丸石をのせる。
円柱は体に、丸石は頭に。そうやって見立てると、うろの中の空間が途端に神聖なものに思えた。
「お地蔵さんだったんだ」
あるいは、小さな御神体かもしれない。
うろの中に、なにか小さな獣が入り込んで、倒してしまったのだろう。
どうしてこんな人目につかない場所にあるのか、熾は不思議に思った。
自分が気が付かなかったら、ずっとこのまま放置されていたかもしれない。
(なんだか、寂しそう)
それに、頭が欠けてしまっているのが、とても可哀想に思えた。
「………あ」
熾は頭陀袋の中をがさごそと漁り、中から小さな包みを取り出した。
中に入っているのは軟膏だ。久太が作ったもので、打ち身なんかに良く効くので、熾はこれを四六時中持ち歩いていた。
決して、自分がよく転ぶから持ち歩いているわけでは無い。
断じて、そんなことは無い。
熾は軟膏を指でひとすくいして、丸石の頭頂部にそっと塗りつけた。
それから包みを袋に戻し、昼に残しておいたおにぎりをひとつ、地蔵の前に置いた。
うろの前から半歩下がって、手を合わせる。
(僕の道中を見守っていてください)
頭の中でそう祈ると、一度深く頭を下げてから、熾はもと来た斜面を駆け上がる。
案の定、転んだ。
行く道はどんどん暗くなっていき、もうほとんど日が暮れてしまっている。
だからといって慌てて走ったりすると、崖から落ちてしまうかもしれないので、危ない。
先ほど、狼の遠吠えのようなものを聞いた気がした。
狼なんて、最悪だ。あれは群れをつくる獣だから、鉢合わせたりでもしたら最後である。
流石に心細くなってきた。
一度落ち込んだ気分は、なかなか上がって来ないというのが人間で、ましてや子供、ましてや夜道に一人という状況で、元気を出すというのは至難だった。
(そうだ、なにか楽しいことを考えよう)
宿についたら、美味しいものを食べよう。出来れば、温かい汁物なんかがいい。
熾は川魚が好物なので、そう、例えば鮎の塩焼きなんかは最高だ。
塩は多めで、表面がパリッとしていて、身はふかふかして脂が乗っていて……今の時期はちょうど旬の走りなので、さぞ美味に違いない。
と思っていたら、ぐう、とお腹が鳴った。
「ああ駄目だ。考えたらお腹がすいてきた」
恰好つけておにぎりを置いてきたことを、ちょっと後悔した。
これじゃあ駄目だと首を振り、もっと別のことを思い浮かべる。
そういえば、このまえ熾たちの住んでいる楝の村で縁日があった。
本当のところは、梅雨の時期に行われる恵雨に対する祭祀が里の中心部で行われ、その一環で里のあちこちでちょっとした縁日が催されていたらしい。
最も大切な儀式は、一目につかないところで関係者のみで行われていたということだったが、詳しいことは良く知らない。
しかし、久太とともに縁日に繰り出していた熾は、何やら賑わっている人の輪の中心に、見知った人物を見つけた。
さらさらとした翡翠の涼し気な単衣を纏った、霞色の綺麗な少年。
以前世話になった、琉霞だった。
里長の子として、祭祀の視察にでも来ていたのだろうか。
琉霞の隣には、背の高いきりりとした青年がいて、村奉行の役人と小難しそうな話をしている。
琉霞自体は気安い少年であったが、こうして見るとやはり遠い人だ。
ぼんやりと眺めていると、琉霞のほうが熾に気が付いた。




