二
小鳥の囀る朝。
ただでさえ光の入りずらい森の中は、曇天の下ではいっそう薄暗い。
近頃はだいぶ暑くなってきたのだが、鎮守の森は相変わらず肌寒く、静謐な空気を保っていた。
梅雨入りしてから早くも半月ほど経っているが、明ける気配はまだない。
羽雅神社の簡素な拝殿に、御神酒と神饌を備えてから、梔乃
《しの》は背後に突然現れた気配に振り返った。
「おはよ、梔乃。いつもはやいね」
藍色の長い髪を揺らしながら現れた弥彦は、そのままゆったりと歩いて梔乃の横を通り、神棚を覗き込んで「おお」と感嘆した。
「水桃蜜だ。瓜以外の水菓子なんて久しぶりだね」
云いながら、不躾にも神棚に置かれた桃に手を伸ばし、そのまま噛り付いたが、梔乃はそれを静観するばかりで咎めようとしなかった。
やや酸味の強い水桃蜜は、甘い蜜に漬けて食べるのが良いとされているが、弥彦は構わず「うん、美味しい」と満足そうに頷いている。
「琉霞が昨日持ってきた」
梔乃が云うと、弥彦はその耽美な面差しを上げて苦笑した。
「甲斐甲斐しいね。あの子、お前に惚れてんじゃないの」
すると、梔乃は胡乱な顔になる。
「……どちらかといえば、子犬に懐かれた、みたいな」
「……ああ、うん。そうね。そんな感じだ」
琉霞の周囲の人間の間では、琉霞は犬っぽいという感覚が定着しつつあった。
「それで、近頃お前が考えこんでるのはなに?」
うすら笑いを浮かべる弥彦に、分かってるくせに、と思いつつ梔乃は口を開く。
「この辺りで、瘴気を振りまいてる『なにか』がうろついてる」
短くそう云うと、弥彦は「みたいだね」と相槌を打ってからまた桃を食んだ。
「夜食にかけられていた呪詛は、この前の柚葉に残っていた瘴気の気配と同じものだった」
つまり、夜食を殺した死霊と柚葉を殺した死霊は同一であるということだ。
青葉の娘である柚葉は、三月ほど前に大水で死んだとのことだったが、それは誤情報か、詳細が判らないためそういうことになっているのだろう。柚葉の霊は腹から血を流し、瘴気をまとっていた。直接的な死因が大水でないことは確かである。
夢で柚葉に出会ったとき、覚醒の際に梔乃自身も大水に呑まれたので、あれは柚葉の死に際の情景を表したものだと思っていた。しかし今思えば、事前に『柚葉は大水で亡くなった』という情報が梔乃の頭の中にあったので、刷り込み的に現れた情景だろう。
夢というのは本来、人の願望や思想の無意識的な発露であり、夢を見る本人の考えに深く基づいている。梔乃は体質上、死霊などの夢の干渉を受けやすいのだが、それでも自分の無意識下の思想が現れてしまうときがある。
「それから、葵の家にいた子供の霊も。本来は大した力のない霊なのに、現世に干渉することが出来たの。……ああ。今思えば、白露のときもそう。記憶が意思をもったことなんて、今までなかったのに……」
琉霞は白露の件を『奇跡』と呼んだが、残念ながらそんな曖昧なものではないだろう。
「強い力を持つ『なにか』に誘発されて、一時的に力が増長したってことだ」
「蟄虫啓戸頃(三月五日から九日あたり)に夜食が里家――琉霞の家に迷い込んで殺されて、そこを端緒に木蘭で柚葉が殺害。これは恐らく卯月の上旬だとして……白露の件は卯月の下旬、
虹始現頃。葵の家に行ったのが小満の頃だったから、皐月の半ば。青葉の件は半月前の水無月半ば」
梔乃はここ数カ月の怪異を振り返ってそう話した。
勿論、それ以前にも幾度も怪異には出会ってきているが、これらの事件には、同じ瘴気を感じたという共通点がある。
「強い力を持った『なにか』が、呪いを振りまいてこの周辺をうろついている。そういうことでしょう」
梔乃に射抜くような眼差しを向けられ、弥彦は肩をすくめた。
「数年、あるいは数十年に一度こんな年がある。東領の一部の地域……というか、この羽雅神社周辺の里では、死霊の力が不自然に強くなったり、呪詛を受ける人が続出したり。ひどい年はとんでもない厄災が訪れたりして、昔はこのあたりの地域は『呪われた地』なんて云われてたこともあったんだ。まあでもここ数十年はそんな物騒なことも起きずに、割りに平和だったものだから、そんな古い云い伝えも廃れていったみたいだけど。今の人たちはそんなことみんな知らないんじゃない?」
おどけたように云う弥彦に、梔乃は眉根を寄せた。
「数年か数十年に一度って随分まばらだね。なにか規則性はないの」
「それは……」
弥彦が云いかけたその時だ。
周辺にいた鳥たちが一斉に羽音を鳴らして飛んでいった。静寂の森にばたばとと騒々しい足音が響く。
不躾なまでのその気配に、弥彦も梔乃も誰が向かってきたかすぐに察した。
「しぃーーのぉーー!!」




