三
「それで、お前はなにが知りたいんだ」
麗夜の言葉で琉霞は我に返る。
「ええと、兄上は鎮守の森にある小さな神社はご存知ですか」
咄嗟とは云え、どう考えてもご存知に決まっていることを、まるで馬鹿にするように尋ねてしまった己の失言に気が付いたが、麗夜は気を悪くした様子もなく「羽雅神社か」と答えた。
こういうところはさすが長兄である。
竣夜だったら額に青筋を立てていたところだ。
「そうです。僕が調べてたのは、その羽雅神社に祀られている羽雅児神という神でして」
「羽雅児神………」
呟きながら、麗夜は顎に手を当てて考え込む仕草をした。
「これがどの資料を見ても、羽雅児神に関する記録がないのです。分かったこと云えば、二百年ほど前に、鎮守の森周辺に羽雅村と呼ばれる村があったことと、その村で、人身御供を捧げる風習があったことくらいです」
云ってから、琉霞は少し首を傾げて
「羽雅児神は、贄を食らう神だったのでしょうか」
すると麗夜も眉を寄せた。
「どうだろうな。そもそも羽雅児神は――こう云っては罰当たりかもしれないが――この地域に司る、由緒ある土地神たちとは全く毛色が違う。土着の信仰を調べたところで、その真偽が確かか調べるのは難しい。だが―――」
「だが?」
珍しく言い淀んだ兄を、琉霞は不思議な顔で見つめた。
「あくまで、これも真偽の怪しい噂に過ぎないが………一説では、祟り神ではないかと」
「祟り神!? どうしたってそんなもの祀るんですか!」
素っ頓狂な声を上げた琉霞を、窘めるように麗夜は云った。
「だからこそ、祀るんだろう。厄災を呼び寄せる祟り神は、丁重に祀って鎮めなければならない」
「ああ、そういう………」
「まあ、これも古い云い伝えの類に過ぎん。あまり真に受けるな」
云ってから麗夜は「それにしても」と付け足す。
「なんで急にそんなものに興味を持ったんだ?」
「ええ? それは、ですね………えーーっと」
目を泳がせてもごもごと容量を得ないことを云っている琉霞を、しばらく面白げに観察してから、麗夜はにやりと口端を上げた。
「鎮守の森の、『くちなしの乙女』だったか」
「な、なんでそれを」
「真白に質したら、あっさり吐いたぞ」
「あああぁ姉上ぇーー……」
がっくりと項垂れた琉霞に、麗夜は「なんだ、知られたくなかったのか」と問う。
「ああ、いえいえ。特別隠していたわけではないんですが……なんというか、あんまり大事にしたくなかったというか」
ほら、竣夜兄上とかに知られたら、また小言を貰いそうですし。
ひょっとしたら、小言じゃ済まないかもしれないし。
――だって、あの人めんどくさいし。
なんてことを口走った末弟に麗夜は、「まあ、そうか」と頷いてみせた。
「麗夜兄上は、その」
「なんだ。別に咎めたりしないぞ」
そう云うと、琉霞は安堵したように表情を緩めた。
「俺は、お前がちょこまかと動き回っているのを見るのが楽しいからな」
「あぁ……ええ、ええ。あなたは………そうでしょうとも」
麗夜はそういう人だ。
多分、琉霞のことをちょっと玩具みたいに思っている。
あるいは犬猫か……下手したら虫かもしれない。
「以前に真白を呪いから救った娘だとか。……しかしお前、さすがに巫女に手を出すのはちょっとどうかと思うぞ」
やや咎める口調になった麗夜を見て、琉霞は煩わしそうに柳眉を寄せた。
真白からこの兄に伝わった話に、いくらか齟齬があるのは明白だった。
「梔乃は巫女ではないですし、僕と梔乃は兄上が思っているような仲ではな
いですよ」
「ほう。梔乃というのか、その娘は」
「…………」
「俺も今度、会いに行こうかな」
「…………」
「冗談だ。冗談だからその……その顔をやめろ」
琉霞は自分がどんな表情をしているのか分からなかったが、どうやら麗夜を困らせる程のものだったらしい。
麗夜は散らばった冊子のいくつかをまた棚に戻してから琉霞に向き直った。
「とにかく、こんなもの見ていても時の無駄だぞ。俺もそれとなく調べておいてやるから」
「えっ、本当ですか」
ぱっと上がった琉霞の顔には、分かりやすく喜色が浮かんでいる。
「ああ」と短く答えて身を翻したら、すぐに後ろから琉霞の明るい声が飛んできた。
「ありがとうございます兄上! 今日ほど兄上が頼もしいと思ったことはありません!」
その瞬間、ひたりと立ち止まった兄の背に、琉霞は首を傾げる。
「………お前、そういうとこあるぞ」
そう一言云ってから、麗夜は今度こそ書庫を出て行った。
無邪気な子犬のようでいて、本能的な警戒を怠らぬ猫のようなところもある。
麗夜は麗夜なりに琉霞を気にかけているのだが、そのあたり、返ってねじ曲がって伝わっているようだった。
菖蒲の咲き乱れる庭園を歩きながら、麗夜は末弟のことを考え、苦い思いになる。
――実のところ、麗夜は琉霞のことを扱いかねていた。
あれは、他の兄弟たちとは明確に気色が違う。
下の弟二人も、決して琉霞を疎んでいるわけではないのだが、やはり思うところがあるようで、どうにももどかしい態度を取り続けている。
竣夜なんてその筆頭で、根っこの厄介な性格も相まって、雁字搦めになってしまっていた。
三男の燈夜も、竣夜ほどではないが、やはり琉霞に対する感情を持て余している風に見て取れる。
琉霞は自分の感情には鈍いが、こと他者を見極めるときに関しては、獣並みの鋭利な勘を発揮するところがある。兄たちのそうした心理を、琉霞は本能的に見抜いているのだろう。
だから、物心ついたときには琉霞は既に、兄たちと距離を測っていた。
しかしその分、まったく屈託なく接してくる真白には、過剰に懐いた。
箱入りの真白は、世間知らずのお嬢様で、些か育ちが良すぎる。
男兄弟で唯一の娘であるので、父は真白にかなり甘かった。
育ちが良い、ということは必ずしも良い事ばかりではない。真白はあまりにも人を疑うことを知らなすぎる。しかしながら、あれはあれで麗夜や琉霞に負けず劣らずのふてぶてしさがあったりするので、案外、世の中を上手くわたっていきそうな気がしていた。
水連のように淡く、透けるような美しい紫の髪。宝玉のごとく輝く同色の瞳。
男にしておくのが惜しいほどに整った肌。
琉霞は、誰しもの目を惹く神秘的な容姿を持って生まれてきた。
琉霞と同じ特徴を持った人間は、自分たち兄弟の中には一人としていない。
当然だ。
琉霞は、兄弟の中で唯一、父の本当の子ではない。




