九
この世で最も嫌な臭いが鼻をついて、久太は顔を盛大にしかめた。
ただ焦げ臭いだけではない。これは、人の肉の焼ける匂いだ。
人が死んだらしい。二人。親子だったとか、愛人同士だったとか。
別に、そんなことはどうでも良かったが、久太には一つ、どうしても許せないことがあった。
この近所の人間が話している噂を訊いた。下世話な風聞と一蹴するのは簡単だが、この話には一定の信憑性があると久太は踏んでいる。
――ただ、一つの点を除いて。
焼け崩れた長屋は、全壊しているが、これはなにも火事だけのせいでこうなったわけではない。火消屋たちが、隣の家に燃え移らないように壊していったのだ。先二つの家もとばっちりを食らって無惨に破壊されていた。
なんとも陰気な光景である。曇天のもと、真っ黒くこげた家だったものの残骸が、悄然と頽れている。雨に打たれたせいで、梁や壁は更に濃く、黒く、重く、湿っていた。
水と、焦げた臭いと、腐臭が混じり合って、吐き気がする。
ふと、傍に誰かが寄って来る気配がした。
野次馬とは明らかに違う、静謐な空気を纏った誰かが、いる。
振り返ると、そこには意外な人物が立っていた。
「梔乃?」
梔乃は、平時通り無機質な、ともすれば冷たいとも云える表情で久太の後ろに立っていた。
しかし、その頬はいつも以上に白く、血の気が引いている。黒曜石のような黒い瞳が、愕然と揺れているのを、久太は見逃さなかった。
「……死んだの」
この少女にしては珍しい、明からさまに弱ったかすれ声だった。
「死んだ」端的に応えてから、久太は梔乃に質す。
「知り合いか」
この問いに返事は無かった。
だから、久太は自ら口を開いた。
「女の方はまだいい。他に道は無かっただろうからな」
「………どういう意味」
「朽葉から逃げてきた女郎なら、昌艶楼の遊女だろう。あの遊郭の運営には、里長も一枚噛んでるはずだ。……昌艶楼の足抜けは問答無用で切腹の決まりになってる」
「まさか」
梔乃は小さく息を呑んだ。
「今頃、郭者たちが血眼になって探してるだろうよ。隣里に逃げたくらいじゃ簡単に捕まるさ」
吐き捨てるようにそう云った久太は、どこか自棄になっているように見えた。
梔乃は昨日、柚葉としたやりとりを思い出す。
琉霞から得た情報で、柚葉が嘘をついていたことは、確信していた。
女郎の身請けには、想像を遥かに超える額の大金が必要で、そんな大金を借金するのは不可能だろう。金勘定に厳しい遊郭の世界で、返済の見込みのない人間に借金をさせてまで妓を売り出す利点はない。
足逃げだったのだ。柚葉は、命からがらこの照柿の里まで逃げてきた。
その日初めて出会った、娘を失って悲観していた哀れな男に絆されて、勢いでここまで逃げてきてしまったのだ。
この近所の住民は、柚葉が女郎であったことに、薄々気が付いていたようだった。
自害を選んだというのなら、やはり逃げ切れないと悟ったからだろうか。
気丈に振舞って見せていたが、ずっと己の人生を嘆いていたのだろうか。
「ここで、死んだっていう男………青葉さんはな、俺の兄弟子なんだ」
久太の言葉に、梔乃は驚いて目を瞬かせた。
「………兄弟子?」
「いや、兄弟子っていうのは違うか……。でも、俺が子供の頃に一緒に白露のとこで修行してた。青葉さんは殿茶の隣村……木蘭の薬師だったけど、白露はそっちの知識にも明るかったから、一時的に学びに来てたんだよ」
梔乃は、先日の白露と久太の一件を思い出した。
白露は久太の師匠で、櫨の里一の名医だった老爺だ。傲慢な権力者の謀略によりその命を落としてしまったが、生前は稀にも見ないほどに良くできた人格者だった。
「白露が死んだ後、俺は逃げるように村を飛び出したから、青葉さんがその後どうなったかは知らなかった。でも最近になって俺、探してたんだ。あの頃散々世話になったし、多分心配かけてただろうから……」
「…………」
「木蘭に往診に行ったときに、青葉さんが二月ちょっと前に失踪した話を聞いた。嫁ぎ先で柚葉さん……青葉さんの娘さんがな、大水で流されて亡くなったっていう訃報が届いて、ふさぎ込んでいた時期らしい。知人の誰かが、気晴らしにって青葉さんを朽葉の遊里に連れて行って、そこから行方が知れなくなったんだと」
梔乃は、久太の独白に黙って耳を傾けていた。久太の声からは、寂寥と、自嘲と、怒気がひしひしと伝わってくる。
――これは、何に対する怒りだろうか。
「それで、今朝ここに往診に来てみたら、青葉っていう男の家が燃えたって騒いでるだろ。まさかとは思ったが……でも、見て確信したよ」




