六
柚葉たちのもとを後にし、鎮守の森に帰宅した頃には、既に昼時を過ぎていた。
戸口を開くなり目に入って来た奇妙な光景に、梔乃は少々面食う。
両手で湯飲みを抱えたまま、不貞腐れた様子で長椅子に腰かけているのは琉霞だ。見慣れない襟巻のようなものを巻いている…………と思ったが、よく見たら夜食である。
反対側には、いつも通り飄々とした調子で裁縫をしている弥彦がいた。
「ああ、梔乃、おかえりー。髪濡れてるけど、降られたの?」
「…………お帰りなさい」
弥彦がひらひらと手を振って迎えると、琉霞は罰が悪そうに夜食に顔を埋める。二人の態度は対照的であった。
(……これは弥彦に遊ばれたな)
どういう訳か琉霞は弥彦が気に入らないようで、度々けんか――口げんかだが――を売るような真似をしては返り討ちにされている。
見た目は同年代だが、すぐに感情的になる琉霞と、達観というよりもはや老獪の域に達している弥彦とでは話にならない。獅子と子猫のようなものである。
学習をしらない琉霞は、今日も今日とて弥彦に言い負かされたのだろう。それでもめげないところは流石というべきか。
「琉霞、来てたの」
「ええ、父の手伝いがひと段落したので……あとは兄たちに任せました」
「そう」
ふと思い立って、梔乃は自身の髪を拭いていた手を止める。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
云ってから、琉霞は茶を口に含んだ。
「遊郭に行ったことある?」
含んだばかりの茶を全部噴き出した。
「っごほっ。っげほ! がはっ!」
噴き出した拍子に茶が変なところに入ったようで、苦し気に咳き込む。
咽る琉霞を、「ちょっともぉ、汚いなー」と弥彦が詰った。いつもなら睨みつけるところだが、今はそれどころではない。
着物の袖で口を拭い、琉霞は混乱したままに梔乃を見上げる。
「………今、なんと?」
「だから、遊郭に行ったことある?」
「っゆ、ゆぅかく……?」
「そう。花街とか……遊女のいるとこ」
「も、もう結構です。分かりましたから」
分かったが、判らない。なぜそんなことを訊かれるのか、琉霞には皆目見当もつかない。
梔乃のいつも通り無機質な表情からは、彼女の思考はまったく読み取れなかった。
「なんで、そんなこと訊くんですか?」
「……別に、ちょっと気になっただけ」
どうやらこれ以上話す気はないらしい。ただ、珍しく言い淀んだ梔乃の様子から、なにかしらの事情を抱えていることは琉霞にも察せられた。
「……遊郭に行ったことはありませんよ。そもそも、照柿に遊郭はありませんからね」
「……そう」
「え、なんでちょっと残念そうなんですか」
心外である。なにが心外なのかは、琉霞にも分からなかったが。
「遊郭のことが知りたかったんですか」
琉霞が問うと、梔乃は頷いて
「遊女の見受け額って、どれくらいするの」
どうやら本題はこれらしい。
先ほどの言葉に深い意味はないようで安心した。……なんで安心したのかは、ちょっと琉霞には分からなかったが。
「……うーん。見受け代といっても一概にいくらとは云えないですねぇ。
まず、女郎には階級があります。最も位の低い切見世で働いている遊女は、はした金程度で客をとりますが、大きな見世の、最高級の太夫や花魁ともなると一緒にお茶を飲むだけでも金一両とられます」
「………そんなに?」
金がかかるということは、なんとなく知識として知っていたが、想定をはるかに超える額に絶句する。
比較的高給取りである職人ですら、一年の収入は銀二貫にも満たない。
目を見張る梔乃を尻目に、琉霞は淡々と話を続ける。
「それで、まぁ……見世の大きさにもよりますが……下位のほうの女郎でも落籍するには四十から六十両ほどはしたかと……。太夫や花魁は桁外れですね。まず一千両は下りません」
今度は梔乃は顔をしかめた。
一千両などと、あまりに現実味のない金額である。そんな大金があれば、一生豪遊して……左団扇で暮らしていける。
「そもそも、なんでそんなに高いわけ?」
ここで口を挟んだのは弥彦だ。先ほどから一心不乱に縫物をしていたが、どうやら話はずっと聞いていたらしい。
「郭にいる女郎の多くは、身よりがなかったり、借金のかたに売られてきた女性ばかりです。売られたときの身代金はそのまま彼女たちの借金になります。彼女たちを郭から出したいなら、代わりにこの莫大な借金を返済するほかありません。売れっ妓を失うのは見世としても痛手でしょうから、その分値段も高くなるのでしょうね」
多少、吹っ掛けている部分もあるだろう。
「はぁ~なるほどねぇ。じゃあそれ以外で遊女が郭から出る方法はないの?」
すると琉霞は少し考えこむような顔をした。
「……あるには、あります。一般的に遊女の年季は十年といわれています。どんなに美貌の遊女でも歳をとれば人気は衰えますからね。年季があければ彼女たちは見世を出ることができます」
ただ、年季が明けた後、幸福な余生を送ったという女性の事例はほとんどない。多くが梅毒や堕胎、精神的な病に蝕まれて夭逝していく。
「んー? 待って。じゃあ、年季が明ける前に借金を返せば見世を出れるんじゃない?」
呑気な声で弥彦が云うと、琉霞はいっそう沈痛な面持ちになった。
「……理屈の上ではそうですが。実際はそう甘くありません。女郎の借金には高い利息が付きます。これのせいで、借金は返済どころか増すばかりです。加えて、彼女たちは日々の食事や、自身を飾る豪奢な着物、装飾品など身の回りのものは全て自分の稼ぎで賄う必要があります。なので、年季前に借金を返すことはできない仕組みになってるんです」
「……へぇ、良く出来た仕組みだね」
「ええ、本当に」
皮肉を込めた弥彦の言葉に琉霞が頷く。
「じゃあ、落籍してもらう以外で外に出る方法はないのか」
弥彦が呟くと、しばし家の中に沈黙が訪れた。
すると、それまで黙然としていた梔乃が、ぼそりと呟く。
―――逃げるなら。
短い言葉だったが、同じことを考えていたのか、琉霞はすぐに頷いた。
「足抜け、ですね。可能性として全く無いというわけではありません。ですが、これは最終手段でしょう。失敗したときの代償が大きすぎる」
「代償?」
「郭のしきたりでは、足抜けは企てただけで重罪です。密告などで楼主にばれたら最後、見せしめに折檻……これは私刑ですね。運よく見世から逃げ出すことが出来ても、追手がかかりますから、十中八九連れ戻されます。無論、その場合も折檻。さらに年季も伸びます」
だから、足抜けを企てる女はそんなに多くない。
上手くいかないことが分かっているからだ。
折檻の内容も暴力など、ほとんど拷問のような凄惨なものが多く、苦痛に耐えかねて命を落としてしまう遊女も少なくなかった。
再び部屋に沈黙が落ちる。
琉霞は落ち着かない様子で梔乃のほうへちらりと視線をやったが、梔乃は難しい顔でなにかを考え込んでいた。




