四
水を汲んで来ると云って柚葉は家を出て行った。
梔乃はその間に帰ってしまおうかとも考えたが、なんとなくこの親子のことが気になったのでもう少しだけ居座ることにした。
柚葉の出て行った戸口の向こうからは湿った空気が入ってくる。
どんよりとした重い雲が幾重にも重なり、天は暗澹たる様子だが、対照的に、近頃の人々の様子は明るい。
雨が降れば、土地は潤う。
恵雨に対する感謝を伝える祭事やらなにやらが國のあちこちで執り行われ、今頃、役人や司祭たちはきりきり舞いしていることだろう。
そういう意味では里長の子である琉霞も例外ではないらしく、ここ数日は梔乃への訪問も数が減った。
対して真白の訪問が増えたのは、彼女が女の身であることから、政や祭祀への深い介入が許されていないことに起因している。要するに構ってもらえなくて暇なのだ。
梔乃は横になって寝ている男を憮然と眺めた。
果たして、この男は働いているのだろうか。
一見して、とても余裕のあるような家には見えない。未婚の娘に生計を任せ、自身は昼から泥酔して良い御身分である。
睥睨していた梔乃の視線の先で、男が身じろぎした。と、思うと「ゔぅう」と熊のような唸り声を上げて起き出した。
上体を起こして瞬きをした男は、数秒ぼんやりと虚空を見つめた後、梔乃に気が付いてぎょっと目を向いた。
「おんやぁ!? どこのおちびさんかねぇ?」
立て続けにおちび扱いされ、梔乃の機嫌は急降下する。
「柚葉はどこかいな」
「水を汲みに行った。多分、そこの井戸まで」
「ああん? みずぅ? ……ああ、水な、水」
まだ酔っているらしい。酔っ払い相手にどこまで話が通じるかは微妙なところだったが、梔乃はことの経緯を端的に――それはそれは端的に説明した。
「いやあ、えらい迷惑かけたなぁ。お嬢さん。情けないとこ見られてしまったわ」
顔を赤らめながら人好きする笑みを浮かべた男を、空々しく見下しながら梔乃は問う。
「あなた、仕事は?」
「んん? 仕事? ああ、それなら表通りに薬屋があるだろう? あれは俺の店だ」
(薬屋――)
色茶小路の目抜き通りにある薬屋は二軒だ。梔乃は実はその両者の主人と面識があるが、このような男は見たことがない。
「ねえ、それってどの店のこと」
「ああ? そりゃおまえさん――」云いかけて男は傍と口を噤んだ。
「…………?」
急に押し黙った男を梔乃は不審げに見やる。
数秒の沈黙ののち、顔からすっかり赤味の引いた男は、先ほどとは打って変わって神妙な面持ちで云った。
「……ああ、そうだ。店は捨てて来たんだった。それで、あいつ連れてここに――」
口元に手を当て、なにやらぶつぶつと呟きだす男の姿が、とても正気には見えず、梔乃は思わず男の傍で顔を覗き込んだ。
「ねえ、ちょっと、大丈夫」
「んン? ああ、大丈夫さ、なんともないとも。しかし、そうかぁ。また柚葉に厄介かけてしまったな。お嬢さん、柚葉を見たかい? 別嬪だったろう。俺なんかには勿体ないくらい出来た娘でなぁ」
そのよく出来た娘を嫁にもやらずに、ずっと自分の面倒を見続けさせていることについてはどうなんだ、という思いを梔乃は暗に込めて刺すような視線を送ったが、残念ながら男がそれに気が付くことは無い。
男は自身を青葉と名乗った。
亡くなった妻との間に出来た一人娘の柚葉を溺愛して、子供の頃から男手一つで大切に育てて来たのだという。
「柚葉はなぁ、こんな小さい頃から別嬪で可愛くてなあ。俺は昔から子供と酒を飲むのが夢だったんだぁ」
聞いてもないことを勝手にべらべらと話し出す青葉に、梔乃の姿は最早見えていないようだった。
既視感のあるこの感覚。
人の話を訊かない人間は、梔乃の近場にも二人ほど思い当たる。
「母親が生まれてすぐ死んじまったからな。女の子を一人で育てるのには苦労したもんよ。それでもしっかりした子だったから、立派に育って、無事に嫁いでったときには、寂しかったけど、やっぱり安心してな」
ぽつぽつと、戸口の外で雨が降り出した。
鈍色の空を渡っていた風が、一層強く鳴り、戸口から部屋にまで吹き付けてくる。
刹那、風に流された髪が梔乃の視界を覆い隠したが、すぐに元通りになった。
一瞬ぶりに捉えた男の顔は、相も変わらず幸せそうに微笑んでいる。
――肌が粟立ったのは、きっと、風のせいではない。
「………嫁いだ? じゃあなんであなたの娘は今、この家にいるの」
幾ばくかの緊張を持って梔乃は問いかける。
「――ええ? そりゃぁ、おまえ………あれ………あぁ? んン………なんだったかなぁ」
額に手を添え、男は呻きだす。
「柚葉は母親に縫物を習ったって云っていたけど、生まれてからすぐ死んだ母親にどうやって習うの」
「――んんンーーぁあ…………そんなこと、そんなことはぁーーーゔぅーー、ああぁ」
壊れたからくりのように意味のない言葉を繰り返してから、ついに青葉は頭を抱えてその場に蹲ってしまった。
「ちょっと、大丈夫。ねえどうしたの」
流石にただ事ではないと感じ取った梔乃は、男の傍に膝をついて顔色を伺う。
先ほどまで赤みが差していた顔は既に青白い。脂汗が次から次へと額を伝い、瞳孔は開きっぱなしであった。
次第に、男の呻きはヒュウヒュウと喘鳴に変わり始める。
――まずい、このままでは息が上がる。
「ねえ、落ち着いて。聞こえてる? ゆっくり息を吸って――吐いて。そう。その調子。今度はもっと長く吸って――長く吐いて……」
背中に手を当てて、耳元で梔乃が云うと、思いのほか簡単に青葉の呼吸は落ち着いていった。
「父さん!? どうしたんだい!?」
大きな声が飛んできたと思ったら、戸口から柚葉が慌てて入って来た。
「息が上がりかけたの。大丈夫。もう落ち着いてる」
「あぁ、そうか……。それなら良かった」
明らかにほっとした様子で、柚葉は青葉の額に手を当てた。顔色を見るように近づけると、愛おし気に目を細める。
その表情は、親子というよりは、まるで。
反射的に顔を背けた梔乃は、すっと立ち上がって、今度こそ、この家を後にしようと柚葉たちに背を向ける。その時、壁際に聳立する棚に肩をぶつけた。弾みで一番上の段の行李が、棚からはみ出し、音を立てて床に落ちる。行李の蓋は床についた際に外れ、中から畳紙に包まれた赤い布が顔を出した。
「っあ」と声を上げて手を伸ばした柚葉を制すように、梔乃は素早く反物を手に取って、畳紙開いた。
行李に入っていたのは、鮮やかな緋色の着物だった。
一階の町娘が身にまとうには余りにも不釣り合いな上等品である。
恐らく、最上級の絹織物だ。地の色である派手な赤に負けぬように、緻密な唐獅子
《からじし》と椿の刺繍が金糸で施されており、見るものの目を否応に釘付けにしてしまうほど、見事な品であった。
とても、柚葉たちのような庶民に手の届くものではない。
「ねえ、これ、なに」
「ああ、それはちょっと貰いものでね」
「嘘。誰がこんな豪奢なものあげるの」
「いやぁ、ね。ちょっと預かってるっていうか」
しどろもどろの言い訳をする柚葉に、梔乃は炯々《けいけい》とした目を向けた。
「あなた、頬腫れてるのは只の出来物じゃないでしょう」
「ええ?」
「首の後ろ、楊梅がなってるんじゃない」
その言葉に、柚葉は今度こそ顔色を無くした。
「………見えちまったか」
「カマかけてみただけ。……でもずっと思ってた。髪を上げた方が白い首が見えて綺麗だろうなって。その蓮っ葉な口調も、郭言葉の名残だと思えば、しっくり来た」
―――ねえ、あなた、女郎だったでしょう。
梔乃がそう云うと、女は観念したように薄く笑った。




