二
これは弥彦と梔乃しか知らないことだが、鎮守の森の奥――梔乃の家よりももう少し森に入った場所にはちょっとした薬草園がある。
ほんとうは、園と呼べるほど大したものではないのだが、他に呼称もないので梔乃と弥彦はそう呼んでいた。
栽培しているのは、あまり目にかからないような珍しい薬草や、扱いの難しい毒草がほとんどだ。
梔乃はとくべつ草木に詳しいわけでは無かったが、不思議なことにこの森では通常なら育成困難な植物も最低限の世話をするだけで難なく育った。
収穫したそれらを手に持って、月に一度村の薬問屋に売りにいっている。無論、収入はそれだけなので微々たるものだが、『自分一人』が食べていくだけなら十分だった。
そうしていつものように薬を売って来た帰り道、梔乃は一人で小道を歩いていた。
季節は次期に梅雨を迎え、鮮やかに咲きだした四葩が視界を染める。不思議なもので、この花は種は同じでも、根付く場所によって、青や桃、水色などに色を変えるのだ。
道の端では藍紫色の花菖蒲が咲き乱れていて、視線を少し上げれば、白亜の木槿が木々を彩る。
―――梔子も、もう咲き始めるころだろう。
そんなことを思いながら茫洋と歩いていたとき、それは突然視界に飛び込んできた。
最初に捉えたのは、紅い、目が覚めるような紅い布だった。
次いでそれが若い娘の纏った着物であることを知る。
白い百合を散らした瀟洒な小紋に、よく映える深緑の帯。長く背中まで降ろされた艶やかな黒い髪。
小づくりの上品な顔に、目鼻立ちのくっきりとした美しい娘だった。
(今、どこから)
歩いていた梔乃は、前から来る娘に気が付かなかった。
いくらぼうっと歩いていたとはいえ、すぐ傍まで歩いてきていた人の気配に気が付かなかった己にやや驚く。
足早に梔乃の前を横切った娘の帯は、なにやら赤黒く変色しているように見えた。
(流血してるの?)
思わず引きとめようと手を伸ばし――触れる寸前で瘴気のような禍々しい気配を感じて、梔乃は手をひっこめた。
―――似ている。夜食にかかっていた呪詛の気配に、酷似している。
刹那、捉えた鳶色の瞳に、なにかを懇願するような淡い光を見る。
しかし次の瞬間には梔乃に背を向け、娘はなにごともなかったかのように足早に通り過ぎていく。
遠ざかる娘の背を追う梔乃に、迷いはなかった。
カランと軽やかな音を鳴らし、石段を登る。
既に娘の姿は視界から切れ、先へ消えてしまった。
娘のほうも梔乃と似たような下駄を履いていたと思ったが、同じように石段を叩く音は全く聞こえなかった。
奥まった道は傾斜が多く、このあたりはちょうど大通りの裏に位置する。灌木の向こうに透けて見える裏長屋の屋根。更にその向こうからそれとなく喧騒の気配がする。
十段ほどの階を登り切った折、軽く息をついて顔を上げた時、妙齢の女の声が聞こえて来た。
「父さん。あとちょっとだからほら、頑張って!」
見ると、開けた緑地の中央に先ほど見た紅い着物の娘が居た。
娘は地面に尻餅をついた中年の男に寄り添い、肩を持ってなにやら必死な様子で声をかけている。
「ほら、家はもうすぐそこだよ。もう! だらしないったら……」
呆れたように首を落とし、娘はもう一度男の肩に腕を回し直した――と思ったら、ふと顔を上げて梔乃のほうを見る。
あっさりと目が合った。
鳶色の瞳。小づくりの整った顔立ち。冴えた紅の着物に白百合の紋様。
間違いない。つい先ほど紫陽花の道ですれ違った娘だ。
しかし、なんだろう。先ほど見たときと印象が違う。
禍々しい瘴気などは微塵も感じないし、腹部から流血している様子もない。
見間違いだろうか。それとも、全くの別人か?
梔乃は改めて娘の姿をまじまじと観察した。
間違いなく、先ほど見た娘だ。容姿も、身に着けている着物も同じものに見える。
顔もさっきみた者とまったく同じ顔で――――否、少し違和感があった。
(――頬が)
左頬から額にかけて不自然に皮膚が膨らんでいる。よく見ると、髪で隠れた首元にも、似たような腫れが見えた。
(あれは――)
「おや? あんた、みない顔だね? 迷っちまったのかい」
娘は大きな瞳をさらに丸くしてそう云った。
大人しそうな顔をして意外にもはすっぱな口調だったが、悍婦というよりも婀娜っぽさを感じる。
「ちょうどいいや。あんた、悪いけどちょっと手を貸してくんないかい? なあに、すぐそこの家までだよ。迷子ならあたしがそのあと家まで送ってってあげるから」




