一
机の上に並べられた色とりどりの書物を眺めて、梔乃は首を傾げた。
「草紙?」
「そう、昔私が読んでたものがほとんどねぇ。……これなんか子供でも読みやすいと思うの。これは隣の里で人気の絵師の挿絵が入っていて……これはちょっと難しいかしら?」
次々に書物を手に取ってあれこれと意見を述べる真白は、いつも朗らかな印象の彼女には珍しく、疲れているように見えた。
聞くに、知り合いの夫婦が近頃養子を迎えたとかで、その子が極度の人見知りであるらしかった。そこで真白は自分が話し相手になろうと意気込んで、自身が昔読んでいた草紙などを持って、その夫婦の、ひいてはその子供のもとを訪れたのだという。
だが、結果は芳しくなかったようで、真白曰く
「これだけいろんな読み物を持って行っても全然興味もってくれなくて………というか、私に興味がないのかしら。何を話しかけても、一言も喋ってくれないの」
どうやら子供に無視されたのが相当堪えたらしかった。
なるほど確かに真白は人当りも良く、誰しもが話しかけやすい柔らかな雰囲気を纏っている。
彼女の人柄なら、子供にもさぞ好かれるだろう。というより、子供にそっけない態度をとられたことのない真白だからこそ、ここまで落ち込んでいるのかもしれない。
そして、どうやら真白はその傷心のままに梔乃の家にやってきたようだった。
力なく肩を落とした真白を見て、梔乃は微妙な気分になる。
――もしかして、自分に慰めてもらおうと思っているのだろうか。
死霊がらみの怪異ならまだしも、ただの悩み相談などを受けつけた覚えはない。
だからといって冷たく突き放すほど梔乃も冷血漢ではない。
「………まだ字が読めないんじゃないの」
かろうじて出た言葉がそれだ。
普段、琉霞といると慰めるよりも窘める方が多いので、こういうときに上手い言葉が出てこなかった。
「そうなのかしらねぇ……大店の養子になるくらいの子だから、ある程度読み書きも出来るものかと思ったのだけど………あぁでも女の子だからあんまり関係ないのかしら」
大きな商家ならわざわざ養子を迎えずとも、丁稚奉公の子供を沢山抱えている。だが、件の夫婦の迎えた子供は娘であった。跡取りはおろか、店子として迎え入れたわけではあるまい。
それに、ちらりと訊いた話によると、養子に迎え入れられた少女には、少々込み入った事情があるらしかった。
少女の抱えた背景も顧みると、あまり急いで教育をさせる必要もないのかもしれない。
すると、思案する真白に梔乃が「読み物が駄目なら、もっとお菓子とか玩具とか……そういうのでもいいんじゃない」と云った。
どうやら、梔乃なりに真白のことを慮って助言してくれているらしい。
ぶっきらぼうな口調はいつものことだが、初めに会ったときよりも随分親し気な言葉を交わせるようになった。暇がある度にしょっちゅう押しかけて来た甲斐はあったようだ。
近頃は琉霞のほうが梔乃にべったりなので、真白はそれが微笑ましくも少々複雑であった。
弟を友人にとられたのが寂しいのか、友人が弟にとられたのが寂しいのか、煩悶は絶えない。
そんな真白に不思議そうな顔をしていた梔乃だが、机の上に手を置いた拍子に謝って一冊の本を床に落としてしまった。
「あ、ごめん」
それでも特に慌てた様子は見せず、涼し気な動作で落ちた冊子を拾い上げる。
手に持った書物は、他のものよりも目立つ桜色の和綴じ本で、重厚な筆致で『白蘭抄』と書いてあった。
「なに、これ」
「ああそれ、間違えて持ってきちゃったのよ。すみちゃんにその物語はまだ早いわ」
すみちゃん、というのがどうやら件の養子の名らしいが、果て、どこかで聞いたことがあったような。
――ああ、そういえばこの前琉霞がなにか云っていたような。
あのお喋り小僧の口からひょいひょい出てくる話のほとんどは、町の流行りや噂話、近頃自身の身に起こったちょっとした出来事などが主で、それらのほとんどは梔乃にとってどうでもいい――というより、関係の無い遠い話なので、適当に聞き流していることも多い。
琉霞はそれを知っていてなお勝手に喋り続けるので、梔乃ももう好きにさせていた。
こういうところは弥彦によく似ている。
勿論、褒めてない。
「恋物語なの。このあたりの娘たちの間で流行っているのよ」
「そう」
興味無さげな梔乃の返事に、真白は苦笑する。
「普通の町娘の白蘭が、高官の若くて見目麗しい男に恋をして……まあ、ひたすらその男性に振り回されるっていう話なんだけど」
「………そう、そういうのが流行りなの」
「うーん、こういうのはとっつきやすさが大事だから……あんまり教養が必要な話だと娯楽にもならないでしょう?」
それはそうだろう、と梔乃も内心で首肯した。
堅苦しいばかりの教本など、知識人や男たちの嗜みとして読まれることがほとんどで、若い娘の興味は引くまい。
もっとも、それらの書物は女が手に取ることすら良くないとされているのだが。
「まあでも、全く教訓がないわけでもないのよ。恋に振り回されて、周囲が見えなくなる白蘭の姿は、物語のなかでも少なからず滑稽に描かれているの。……そもそもこれ、あんまり幸せな話じゃないのよねぇ。だから、こういうのが流行ったのは意外だったのだけれど」
世知辛い世を生きる中で、せめて物語の中でだけでも幸せな話が見たいと願うのは、正しい人の性だと真白は思う。しかし、心中ものはいつの時代も人気を博すものなので、必ずしも悲劇は忌避されるとは限らないようだ。
梔乃の手に収まった『白蘭抄』を一瞥してから、真白はいつになく年長者らしい声色で云った。
「要するに、『恋は盲目』ってことなんでしょうね」




