十一
「薬持ってくるからな。それまで大人しく寝てろよ」
「お大事にしてください、加代さん。葵くんもまた!」
「その、お礼はまた後日させて頂きますから」
「いらん、いらん」
「お気持ちだけで十分ですよー」
努めて呑気にそう返した二人は、ひらひらと手を振りながら家を出ていく。
最後に残った梔乃が、二人に続いてその場をあとにしようとしたその時、後ろからくいっと着物の裾を引かれた。
振り返ると、葵が戸惑ったような顔でこちらを見上げている。
「…………いなくなっちゃったの?」
その言葉の差す意味を正しく理解した梔乃は、小さな頭に手を置いて告げる。
「たくさん、遊んで満足したみたい。………仲良くしてくれてありがとうって……あなたに」
すると、葵はどこか寂しそうに、けれど安心したように微笑んだ。
いつの間にか中天は朱く、焼けたような雲が漫然と浮かんでいる。
刹那的に降った雨のせいで、濡れた草土の匂いが強く薫った。
丘の上に向かって真っすぐ伸びる細い道に、三つの人影が長く伸びる。その影の上を、颯爽と黒猫が横切った。
連れだって帰路についた三人は、行きとは違って横並びに歩いている。
日が暮れるのも随分遅くなったな、と西日を手で遮りながら歩く琉霞の横で、不意に久太が立ち止まった。
「………どうしました?」
何か忘れ物でもしたのだろうか。
怪訝に思った琉霞を見もせずに、その向こうにいる梔乃のほうを久太はじっと見据えた。
「で、結局のところ『なに』がいたんだ?」
のんびりとした口調であったが、鋭い三白眼は刺すように少女を射抜いている。
対して、梔乃のほうは相変わらず無機質な表情を浮かべているだけだ。
互いに見合う梔乃と久太を見て、琉霞はひどくつまらない気持ちになった。
どうも、近頃こんなことが多いと思う。煙に巻かれる、とでも云うのだろうか。自分だけが置いてけぼりを食らったような感覚がするのだ。
――そう思うと、途端にむかむかしてきた。
自分の知らないところで勝手に話が進められようとしているこの現状に、だ。
琉霞はわざと大袈裟な動作で、久太と梔乃の間に割って入った。
「水を差して悪いですが――」
嘘である。まったく悪いと思っていない。
「――僕にも判るように説明してくれます?」
そんな琉霞の胸中を知ってか知らずか、久太は軽く溜息をついてから
「あの時花瓶が割れたのは、地震のせいじゃない。そもそも地震なんて起きてなかったんだ――つまり、あれは梔乃のはったり。実際はあの場に『なにか』が居た………そうだろ?」
「はぁ? あなただって云ってたじゃないですか。揺れたような気がする――とかなんとか」
「俺は梔乃のはったりに乗っかっただけだ。揺れなんて微塵も感じてない。……嘘をついて理由は、加代さんをあれ以上動揺させないためだろ? あんだけ参ってる人に、『息子さんに幽霊が憑りついています』とは云えないからな」
察しの悪い子供に云いきかせるように、久太は琉霞を見下げた。
「え、じゃあ本当に葵くんは憑りつかれてたんですか? 花瓶が割れたのはその霊の仕業?」
瞠目した琉霞に、梔乃は恬淡と口を開いた。
「子供の……ちょうどあの子と同じ年ごろの子が一人」
「うっそぉ……」
あんぐりと口を開けて固まった琉霞の横で、久太も多少の動揺を見せた。
「最初から居たのか? 俺たちが家に入ったときから?」
「いや………最初は姿は見えなかった。気配は感じていたけど。力の弱い死霊はあまりはっきりと見えないこともあるから………それにあの子は……葵は私を警戒していたみたいだし」
子供は『そういう』勘が鋭い。中でも葵はとりわけ聡い部類のようで、梔乃のことも一目見て『そういう』人間だと気が付いた。
だから梔乃は、あえてその場から離れたのだ。葵は死霊の子を仲間だと感じていたようで、梔乃に祓われてしまうのではないかと恐れていた。ならば、自分がその場を離れれば、死霊が姿を見せるのではないか、あるいは何かしらの現象を起こすのではないか、と梔乃は考えた。
卒倒した加代を見て、梔乃は葵と話をしようと外に連れ出した。そして『死霊の子を祓わないと約束するから、お母さんに正直なことを話して』と云ったのだ。勿論、死霊の話は伏せた上で。
梔乃の言葉に、琉霞はそう云えば、と思い出す。最初にあった時、葵はやけに梔乃のほうを気にしていたように思う。
「葵くんは、その霊の子をともだちだと思っていたんでしょうね。ずっと家にひとりだったから、幽霊でもなんでも、遊び相手ができたことが嬉しかったんですね」
ぶつぶつ独り言を云っていたというのは、その霊と会話をしていたからだろう。
「………七つまでは神のうち、っていうけど、実際子供は彼岸と繋がりやすい。葵に憑いていた子供の死霊も、幼い頃に親と離されたみたいで………同じ境遇の葵に引かれていったんだと思う」
寂しかったのは、死霊も同様だったのだろう。寂しくて寂しくて、遊び相手を探して彷徨っていた。
以前琉霞には、この世に蟠りを残した霊は生前に縁のあった場所に縛られる、と云ったが、今回の場合は例外だ。
葵に憑いていたのは浮遊霊。行き場をもとめて探し続ける、悲しい性をもった死霊であった。
すると、合点がいったように久太が唸った。
「あるほどなぁ。おかしいと思ったんだよなあ。親の気を引こうにも、やり方があんまり乱暴っていうか――葵は本来、素直で大人しい性格みたいだし、あそこまで加代さんを困らせるやり方を選ぶとは思えないしな。その死霊の子に唆されていたってことか」
――それについては、どうだろうと梔乃は思う。
無論、死霊は葵を通して現世に干渉し、遊んでいただけなのだろう。しかし、葵は死霊の胸の内に秘めた寂しさに共鳴していたのではないだろうか。親に構ってもらえない寂しさを知っている葵だからこそ、ほんのひとときでも、『親』というものに触れる機会を死霊にあたえていたのではないだろうか。
結局、件の霊は梔乃が何もしなくても勝手に消えてしまった。最後に少しだけ姿を見せた霊は、やはり力が弱いせいかうっすらとしていて、それでもやはりいたずら好きのやんちゃな子供のような顔をしていた。
ひどく満足気に『楽しかった』と笑っていた。そして遊び疲れた子供のように、眠るように幽世へ渡った。きっと今頃、本当の親と再会していることだろう。
「でも、すっかり騙されましたよ。悪いものは憑いてないとか云うから、てっきり本当にすべてが偶然……なんでしたっけ、荒れた庭? かと」
「枯れ尾花な」
久太が小突いたのを一瞥してから、「別にそれは嘘じゃない」と云ったのは梔乃だ。
「え?」
「悪いものは憑いていないって云ったの。もとよりあれは力の弱い霊――特になにもしなくてもそんなに強く現世には干渉してこれいない――」
そこまで云って、梔乃ははたりと口を噤んだ。
そうだ、そう思ったから、危険は無いと判断してあのとき席を外した。
じゃあ一体どうして? どうやってあの霊は花瓶を落としたのだろう。
今更ながら、突然そんな疑問にたどり着く。
現世のものに触れられるほどの力があるようには見えなかった。無邪気な子供のいたずら程度の感情しか感じられず、そこに禍々しい怨念や悪意のようなものは無かったはずだ。
「梔乃? どうしました、梔乃?」
琉霞の声に、梔乃はむりやり思考の渦から引き揚げられた。
「いや……なんでもない」
かぶりを振った梔乃に、「そうですか?」と琉霞が不思議そうに首を傾げた。
再び歩き始めた三人を、ゆるやかな向かい風が迎える。
茜差す空を、真っ黒い烏の群れが薙いでいった。




