九
ふっと意識が浮上する感覚があった。
目を開けると、見慣れた低い天井を認識する。四肢が妙に気だるくて、身じろぎするのも億劫だった。柔らかいものが背中にあたっていて、己が布団の上に寝かされていることに気が付く。
まだ、意識がぼんやりしていた。
今日は何月何日の朝だろう。時刻は? そうだ、仕事に行かなければ。 葵は――
「葵っ?」
「わ!」
布団から勢いよく上体を持ち上げた加代は、しかしすぐに頭に強い痛みを覚えてうずくまった。
飛び起きた加代に驚いて肩をびくりと揺らした琉霞は「あーー駄目ですよそんな動いたら」と加代を布団に押し戻す。
既に目を回していた加代は、云われるままに大人しく布団に寝そべった。ずきんずきんと頭に疼痛が響く。呻きながらも、徐々に意識が覚醒していくのを感じた。
そうだ。確か葵が妙な唸り声をあげて、それで――
葵が花瓶を指して急に『落ちろ!』と叫んだ。
すると、嘘みたいなことが起こったのだ。
なにもないのに突然花瓶がグラグラと不自然に揺れて―――本当に床に落ちて割れた。
「加代さん、驚いて卒倒しちゃったんですよ」
柔らかい声に顔を上げた。
家の壁の隙間から、強く西日が差している、いつの間にか夕方になっていたようだ。
「過労に貧血、それから精神的に追い詰められてたのがさっきのアレで一気に弾けたんだろうな」
水の入った湯飲みを差し出して、加代の横に久太が座った。
「――あぁ、さっきより随分ましな顔色になったな。だがしばらく仕事はやめておけ
よ。落ち着くまでは家で養生したほうがいい。明日にでも薬を持ってきてやるから」
「あの、葵は」
「葵くんなら、外でお話してますよ」
「え」
状況を飲み込めない加代に、琉霞は落ち着かせるように柔和ば笑顔を向けた。
「加代さんが倒れたあとすぐに梔乃が戻ってきて、葵くん二人で話したいって云って連れだして行きました。……あぁ、大丈夫ですよ。葵くんの様子はもう落ち着いていますし、本当にすぐそこでお喋りしているだけですから」
加代は少しほっとしたように表情をやわらげた。その顔は、確かに先ほどに比べたらずっとましだが、まだ血の気が足りない。やはり相当気を張っていたのだろう。
「そう、ですか……あの、葵は……さっきのアレは一体………花瓶が落ちて来たのは、あの子がやったんですか? それとも」
「落ち着いて、加代さん。ちゃんと説明しますから。まずは、ほら水を飲んでください」
云われて、加代は久太から受け取った水を口に含んだ。刹那、その冷たさに驚いて目を見開いたが、しかし寸分と云わぬうちにすぐに口に馴染む。湧き水の清明な香りが心地よく口内を潤し、自分の喉が酷く乾いていたことに気が付いた。
一息ついて落ち着いたころに、葵と梔乃が家に入って来た。
「葵…………大丈夫なの」
加代は仰臥した状態で葵に心配そうな目を向けた。すると葵の方は少し戸惑うような顔をしてから――なにか云いたげに梔乃のほうを仰ぎ見た。
「葵?」
加代が怪訝な様子で云う。
「………約束守ってくれる?」
葵の言葉に、梔乃は小さく頷く。それから膝を折って、視線を葵に合わせてから
「ちゃんとお話しできたらね」
と諭すように云った。
その言葉に何度も頷いてから、葵は加代の方へ歩み寄る。枕元に膝を付いて、「母さん、大丈夫?」と問うた。
「ええ、大丈夫よ」
加代は弱弱しくも懸命に頷く。
「母さん、あのね」
「うん?」
「いっぱい困らせてごめんね」
「………うん? どうしたの……?」
葵の言葉の意味が、加代には判らなかった。それを察したのか、葵も困ったように視線を彷徨わせて言葉を探している。
「母さんがいなくて、寂しかったから。だからその……怒ったり泣いたりしたの。変なことたくさんして困らせて………ごめんなさい」
葵は既に涙声だった。大きな瞳にいっぱいの水を溜めて―――懸命にこらえようと目を見開いてみせるも、それは叶わずに決壊する。大きな瞳がぽたぽたと溢れ、葵の頬を濡らした。
加代はそれを見て狼狽えたように目をしばたかせる。「どうしたの、どうしたの葵?」と問いかけるも、葵は泣くのに精一杯でうまく話が出来ないようだった。
それを見て、琉霞はちらりと梔乃の方へ視線をやった。梔乃はなにか云いたげな琉霞の顔を見止めてから――ほんの小さく息をついた。
「ぶつぶつ独り言を云っていたのも、癇癪を起こすようになったのも、全部その子のお芝居だったってこと」
「…………芝居?」
訝し気に呟いてから、加代はえづく葵の頬へ手を当てた。
「どういうことですか?」
と首を傾げたのは琉霞だ。
「その子が癇癪を起すようになったのは、あなたの旦那さんが亡くなってからでしょう。それ以前はあなたが傍に居たから、突然泣き出したり。怒り出したりなんて妙な様子はなかった――違う?」
「……ええ、そうです………けど」
加代はここ半年のことを思い出しながら、曖昧に頷いた。
夫が生きていた頃は、もとより心配性な加代は葵に付きっ切りで世話をしていた。夫が亡くなってからはそうもいかず、葵の為に昼夜を問わず働くようになったので、家を空けることが多くなり、葵の傍にいる時間は極端に減ってしまった。
「そういうことか………ようは母親に構って欲しかっただけなんだな。様子のおかしいフリをして、あるいは何かに憑りつかれたように見せかけて、気を引きたかったんだ。父親を突然亡くして、母も傍にいないことが増えて……寂しかったんだろ」
腕を組んでそう云った久太に、琉霞は未だ納得のいかないような顔をした。
「独り言を云う子供なんてわんさといるぜ。家に一人でいる時間が長いから、空想するようになったんだろう。頭の中に架空のともだちを作り出して、べらべら喋るんだ。………あぁ、心配すんな。別にこれは病気じゃねえ。むしろ喜ばしいことだぞ。独り言を云う子供は言語発達が速い。頭をひたすらに回転させて、会話文を自分で作るんだ。………こりゃ将来有望だな。歴史に名を残した文豪たちも、みんな独り言が多かったらしいぜ」
得意げに笑いながら久太が云うと、琉霞も「なるほど……」と頷いた。
「気を引こうとしておかしくなったふりをしたり………独り言を話したり……葵くんてすっごく賢い子なのでは」
「お前よりは」
「一言余計です」
琉霞はにやりと下種な笑みを浮かべた久太を睨み返した。
一連のやりとりを聞いていた加代は、おずおずと葵を見返して、「………そうなの葵?」と小さく問うた。
葵は先ほどより落ち着いた様子で、けれど未だに頬に雫を流しながら、頷いた。
しかし、加代にはまだ腑に落ちない点がある。
「でも、待ってください。じゃあさっきのは? 花瓶が落ちたのは一体なんですか」
癇癪も独り言も先ほどの言い分で納得できる。だが、指さした花瓶が落ちるに至る外的要因は見られなかった。だとしたら、それこそ尋常ではない、この世ならざるものの力が働いて――




