三
木々が林立する林の間を進む。
湿った土の匂いと、苔むしたような青い匂いが琉霞の鼻先を掠めた。
緑陰の下から仰ぎ見ると、途方もなく背の高い檜が天へ向かって一直線に伸びている。
早緑の葉の間から漏れ出る陽の光は、この林の生命そのものを象徴しているように思えた。
村の北外れにあるという鎮守の森は、入って最初の方こそ喬木が鬱蒼と生い茂る森、といった感じであったが、歩みを進めるうちに、まるで神苑のような雰囲気へと様変わりしていった。
風の音、葉擦れの音、鳥の声。それから、琉霞が落ち葉を踏む音だけが木霊している。
その、不思議な力を持つという女の話を真に受けたわけでは無い。あくまで期待はしていない。ただ、このまま団子だけ買って帰るくらいなら、姉のために何かをしているという実感が欲しかった。
しばらく歩いていくと、急に開けた空間に出る。
最奥には湖が見えた。森の中心に鎮座したこの湖が、羽雅湖だろう。名前は知っていたが、実際に見るのは初めてだった。
湖の手前には、小さい丹塗りの神明鳥居が立っており、きちんと牛蒡注連の注連縄も掛かっている。
鳥居の奥にはこれまた小さな社が立っていた。
大きな神社の末社にもたないようなくたびれた姿をしている。恐らくこれは拝殿だろう。
羽雅神社は神殿を持たない神社だと聞いている。
この神社が祀っているのは、羽雅児神という神で、この羽雅児神が住むのは目の前の湖であるとされているからだ。
鳥居の手前で琉霞は足を止めた。
羽雅湖の瑠璃のような碧色は、空のそれよりもずっと深い。痛いほどに陽の光を反射して、湖面が白く輝いている。その湖をぐるりと檜の緑が囲い、辺りにはどこまでも清明な空気が漂っていた。
いやに神々しい場所だ。森と湖と社。
お前のような小僧が来る場所では無いと、云われているような気さえしてくる。
羽雅という名前はそもそも、かつての場所にあった集落のことを指していた。
羽雅神社も随分古い時代からここにあったそうだが、今ではもう廃れて、参拝に訪れるものなどほとんど居ないそうだ。
琉霞は鼻白んで湖へと顔を向けた。
湖や山に神が住むという話は珍しくはない。しかし、この羽雅児神に関しては、なにかいわくありげな逸話があったような気がする。
その時だ。
カサリ、と葉を踏んだような音がして琉霞は振り返った。
見ると、視線の少し先、木漏れ日の下に少女が立っている。
その少女が、大きな瞳をさらに見開いて、呆けたように琉霞を凝視していた。
固まったまま動かない少女の姿を見て、琉霞はある可能性に行きついた。
(………………あれ、これはもしかして)
惚れられてしまったかもしれない。
琉霞は己の美しさを重々に承知していた。故に、自分の容姿が他者から見て魅力的であることも、ときにそれが女子の思慕を集めてしまうことも知っている。
なんと罪深いことだろうか。己の見目が良すぎるせいで、涙を流す者がまた一人増えてしまう。
だがそれも仕方がないのだ。どれほど相手が琉霞に焦がれようと、琉霞にその気はないのだから、誠意を持ってお断りするのが、もてる男の務めである。
「失礼ですが」
「誰。なにしに来たの」
琉霞の出鼻を挫いたその声は、全く抑揚のない平淡なものであった。
言葉を遮られ、一瞬むっとした琉霞だったが、そこはぐっと抑える。
胡乱気な目で改めて目の前の少女を見やった。
透き通るような白皙の容貌。甍のように艶やかな濡羽色の髪は、顎のあたりで綺麗に切り揃えてあり、吸い込まれそうな漆黒の瞳が、じっと琉霞を見つめている。
少女の顔立ちは人形のように整っていて愛らしかった。
この場に居るということは、この少女が例の不思議な力を持つ女に違いない。
だが、あれ?
(なんて云ってましたっけ)
確か、口がなんとかという話だったはずだ。口がどうにかしていて、それでおどろおどろしいような通り名がついていて………あ、そうだ。
琉霞はびしっと少女に向かって指を指した。
「あなたですね! 口裂け女は!」
「違う」
胡乱な眼差しをした少女にばっさりと切り捨てられ、琉霞は狼狽える。
(え、あれ。間違えました。口裂けは違う。あれ、なんでしたっけ?)
琉霞は改めて、目の前の少女を見つめた。不躾な視線が不快なのか、娘の目が細まる。
背丈は町の娘たちに比べると低く、小柄な印象だが、顔立ちから察するに同い年くらいだろうか。
可愛らしい容貌とは裏腹に、真冬の冴えた風のような雰囲気を纏っている。
人形のようなおかっぱ頭には白い花を模した組紐の髪飾りが付いていた。
(ん?)
その、娘の身に着けている黄色の着物と、髪飾りを交互に見比べる。
(そうか。そういうことでしたか)
琉霞はようやく合点がいったように声を上げた。
「口無し、では無くて、梔子のことですね。梔子の乙女とは貴方のことでしょう?」
少しの沈黙の後、娘は頷いた。
それを見た琉霞は、途端に権高い声を上げる。
「貴女に頼みたいことがあります」
娘は沈黙したままだ。琉霞は気にせずに続ける。
「僕の姉上が、不治の病に罹りました。貴女には姉上の病気を治してもらいたい」
娘は嘆息した。
「病なら医師に行ってくれる」
「どんな高名な医師に診てもらっても、みんなお手上げだと云うのです。貴女は不思議な力で重病の患者を助けたと聞きました。一度、うちの屋敷に来て、是非姉のことも診て頂きたい」
「…………」
「勿論、無事姉上が治ったあかつきには、謝礼を払いましょう。」
「いいよ。お金は要らない。すぐに行こう」
「必要なら金子はいくらでも………え? いいんですか?」
「治るかどうかの保証は出来ないけど」ぽかんと口を開けたまま固まった琉霞の前に娘が歩み寄ってくる。「それが病じゃないのなら、助けられるかもしれない」
娘の言葉の意図するところが判らず、琉霞は小首を傾げた。
「よく分かりませんが、来てくれるのですね。なら、すぐ行きましょう。案内します」
そう云って歩き出した琉霞の後ろ、少女は一度だけ湖の方を向いて呟いた。
「………行ってくるね