一
小満の頃。
いくらか肌寒さを感じる朝のことだ。
父の使いっぱしりとして奉行所へ書簡を持っていった帰り道、琉霞は「あれ」と見慣れない光景に足を止めた。色茶小路の大通りに接している大きな商店。一際立派な間口のその店に、『円天堂』という暖簾がかかっている。たった今、その店に入っていった妙齢の女性に、琉霞は見覚えがあった。
『円天堂』の若旦那の妻である、美空という女だ。まだ二十歳半ばくらいの歳で、既に大店の若旦那の妻としての貫禄や落ち着きのあるしっかりした女性。『円天堂』の若夫婦は、琉霞も昔から馴染みがあり、特に亡き母や姉はここの小間物を好んでいたため、家族ぐるみで懇意にしていた。
美空が『円天堂』に入って行ったこと事態は、おかしくもなんともない。奇妙に思ったのは、美空に腕を引かれ、半ば引きずられるような形で歩いていった少女の方だった。
ちらりと見えただけだが、歳は十歳くらいだろうか。熾よりも少し幼いくらいのはずだ。あどけない顔立ちに、人形のようにのっぺりとした白面。まったく感情を宿していない虚無の表情が嫌に頭に残る。着ていたのは浅葱の上等な着物であったが、どうもあの少女には似合っていないように思えた。
『円天堂』の若夫婦は仲が非常に良かったが、子供が一向に出来ないことを嘆いていた。美空の方は石女扱いされ、しばらく親戚筋からの風当たりが強かったという。
「あれ、琉霞さま?」
急に声をかけられ、琉霞は急速に思考の沼から浮上した。見ると、目の前に快活そうな若い男が立っている。『円天堂』の若旦那であり、美空の夫の勝治であった。
「こんにちは。勝治さん」
「いやぁ、いつも御贔屓にありがとうございます。………ああ、ひょっとして、今の見ましたか?」
今の、というのは先ほど目の前を横切った美空と少女のことだろう。琉霞が「あの子は?」と訊くと、勝治は少し罰が悪そうに笑った。
「裏に住んでた、うちの大家の娘さんなんですよ。涼平さん…その大家さんのことなんですけど、その方がつい先日、亡くなりましてね。どうやら他に身よりも無いらしく、このままじゃあどっかに身売りされちまうってことで、哀れでね。取り合えずしばらくうちで預かることに」
「はぁ…」
「うちはまだ子供がいないんでね。家内のほうはすっかりその気になっちまって。すみちゃんはうちの子として育てる! ってやる気満々なんですよ」
「すみちゃん、というのですかあの子」
「ええ。涼平さんから直接名前をきいたことは無かったけど……帯の裏に名前が書いてありまして。…というか、俺たちも涼平さんに子供が居たなんて、亡くなるまで知りませんでしたから」
琉霞は訝し気に柳眉を寄せた。
「それは、どういう……?」
「涼平さんとは、数年前からちょっと疎遠だったというか。あまり人と関わらなくなってしまってて。昔はあんなんじゃなかったんですけどねえ。奥さん……清海さんが亡くなったあたりから、涼平さんは少しずつおかしくなってしまって。明るくて快活な人柄だったのが一変して、偏屈で引きこもりがちの人になってしまったんですよ。その頃から俺たちともあまり顔を合わせなくなったんです。ずっと家の中に一人で閉じこもっていて…。それでこの間、家賃を持っていったらぽっくり死んじまっててね。家の奥に小さい女の子が一人居たんです。あんまり妙な話でしょう」
「奥さんが居た頃は尋常な様子だったのでしょう? その頃にもすみちゃんの存在は周りに隠していたんですか」
「ええ、恐らく。少なくとも俺たちは知りませんでした。だから、まあ本当のところ、俺たちもあの子は涼平さんの実子では無いのだろうと思ってるんですよ。奥さん亡くなって寂しかったからどこぞで拾ってきた子なんじゃないかって。既に五十超えていい歳だったし、周りに言い出し辛かったのかもしれません」
「ああ…」
どこぞで拾ってきた子供、というぞんざいな云い方に少々思うところが無いわけでは無かったが、それ以上に疑問が琉霞の頭を掠めた。
「その、涼平さんがおかしくなってしまう前は、随分親しかったのですか?」
「ええ。もともと凄く気前の良い方だったんですよ。この場所は昔、涼平さんの質屋でしてね。引退すると同時に、親父……大旦那に場所を貸し出すようになったんです。そうして大旦那がここに新たに『円天堂』を開いたわけですが、最初の頃は経営難が続きましてね。もう首が回らん状態だったんですよ。そういう時には、涼平さんが家賃云々を融通してくれてたんです。今ではこうして贔屓にしてくれるお客さんがいらっしゃるお陰で、ちゃんと店として成り立ってますけど、軌道に乗りきらない時期は、涼平さんの人柄に助けられたものです。かくいう俺も、子供のころから散々可愛がってもらいましたから。拾い子でも隠し子でも、涼平さんの子なら見捨てるわけにはいきません」
「なるほど」
琉霞が頷く。しかし、勝治は少しだけ困ったように笑った。
「………そうやって、意気込んで引き取ったはいいんですけどね。子育てなんて初めてなもんで、どうも上手くいかないことばかりです」
琉霞は苦笑した。
「お父上が亡くなってまだ間もないのでしょう。気が沈んでいるのですよ」
琉霞は己の母が亡くなったときのことを思い出していた。あの頃、琉霞も随分沈んだものだ。
「ええ、それは勿論そうでしょう。ですが、その………なんだか、そういうの抜きにしても様子が妙な気がして」
「妙?」
「あの子、全く喋らないんですよ。うちに来てから一度も。家内も俺も、その他の者たちも皆、すみちゃんの声を聞いたものは一人として居ないんです。それに、一日中ぼうっとしていて……なんというか、自分から何一つ行動しないんです。手を引かれなければ歩かないし、食事も家内が食べさせなければ食べない。あとはただ、虚空を見つめてずっとぼうっとしているだけ……こんなこと云ってはいけないのでしょうが、正直少し気味が悪いくらいでして」
「それは……確かに妙ですね」
母が亡くなったとき、琉霞も食事が喉を通らない時期が続いた。言葉を話すのが億劫で、しばらく部屋に引きこもって、人と会うことを避けていた。
しかし話を聞く限り、すみちゃんの場合は、自分とは違うように思う。悲しみ暮れていつも通りの日常が送れないのではなく、ただひたすらに無気力であるような……。
その時だ。『円天堂』の店の奥から、「若旦那―!」という声が聞こえた。ぱっと振り返った勝治は、店の方に一歩踏み出してから、思い出したように琉霞の方へ向き直り「すみません、琉霞さま。失礼します。どうぞ、さっき云ったことは忘れてもらって結構ですので!」と云うと、踵を返してそそくさと店の奥に姿を消した。
慌ただしい若旦那を見送った琉霞は、奇妙な思いで先ほど見た少女の姿を思い出していた。
真っ黒い瞳と白い顔が、誰かによく似ているような―――――
「あ」
ふらふらと流されるままに歩いていた足を止めて、琉霞は目的地に向かって急速発進を始めた。




