十四
泣き叫ぶ久太の隣に、不意に誰かが立った。
横を向くと、そこにはおかっぱ頭の小柄な少女が立っている。
白皙の面に、濡れたような瞳。黄色い小袖を纏った少女は、昨日琉霞とともに現れた、確か、そう、梔乃と云う娘。
梔乃は、何も云わずに白露の墓の前にしゃがみ込んだ。木版の上あたりに軽く手をかざすと、薄っすらと微笑む。
「ちゃんと、向こうに渡ったみたいだね」
「………?」
「幽世に渡った人を、こっちに無理やり連れてくることは難しいけど…………ここに残った思念――生前の御霊の記憶を呼び起こすことは出来る」
梔乃の云っている意味を、久太は理解できなかった。
しかし、梔乃はしゃがみ込んだまま、祈るように両手を握りしめ、小さな声で何事かを呟いた。
すると、おもむろに、少女の周りを無数の小さな光が包み始める。それは淡く、昼の陽光の下では霞むほどに弱い光の粒であったが、不思議な存在感を放っていた。
蛍のようにも見えるが、時間帯を考えればそれはない。
「なんだ? あれ」
怪訝に目を眇めた久太の呟きに応えたのは、琉霞だった。
「恐らく、精霊かと」
「精霊?」
万物に宿るという自然の精。
あるいは魂。あるいは気。あるいは神とも称される神秘的な存在。
「精霊って、あんな姿をしてるのか」
「さぁ、それはそれぞれでしょうが……。梔乃は精霊とお話できるみたいです。ああして精霊の力を借りて、白露さんの記憶を呼び起こそうとしている」
「白露の記憶を………?」
「僕としては、魂呼ばいというものも見てみたかったんですけどねぇ。それは彼女の信条に反するようで」
隣で琉霞がぶつぶつと云っているが、既に久太の耳には全く入って来なかった。じっと梔乃の方を見つめ、その一挙一動に神経を集中させている。
死者の記憶を呼び起こすなどという真似が本当に出来るのか。
そんな疑問は少なからず久太の頭にもあった。しかし、初めて見たときから、この少女にはなにらや不思議なものを感じていたのだ。
少女の瞳。強い意思を宿した黒曜の深淵に、底知れない虚ろがあった。
常人には知りえない虚無。まるで、冥界に半身を浸かっているような――久太たちの届かない世界を見ているような――。
その、刹那。
梔乃の周囲を取り囲んでいた精霊たちが、一か所に収束する。次の瞬間、眩いほどの輝きを放って、その光は霧消した。次いで、発光した場所から今度は白い靄が浮かび上がる。
白い紗を無数に重ねたような狭霧の間から、それは姿を現した。
大柄な体躯。歳を重ねても衰えを知らぬ背は、びしっと天へ向かって伸びている。幾つもの皺を刻み、白い髭を伸ばした顔。目元の皮膚は垂みきっているも、重そうな瞼から僅かに覗く瞳には、矍鑠とした光が宿っている。
懐かしい、その細面は
「白露……」
それは、白露だった。
あの日。死んだ日のまんま何も変わっていない。
悠然とした大樹のような姿で。
「じじぃ。俺だ、久太だ」
久太は白露に向かって天を伸ばす。その着物を掴んだように思えたが、ふわりと風に当たるような感覚がしただけで、手は空を掻いた。
その様子を見た梔乃は、祈るように両手を握りしめたまま柳眉を寄せる。
「云ったでしょう。これはこの人の生前の記憶を、精霊たちの力で顕現しただけ。実体をもたないから、触れもしないし、言葉を交わすことも出来ない。…記憶に意思はない。この人があなたを認識することもない」
「……そんな」
歯噛みした久太は、縋るように白露に目をむける。しかし、当の白露は――否、白露の虚像は、ぼんやりと虚空を見つめるばかりで久太の方を見ることは無かった。
「……あいつには、悪いことをした」
不意に、目の前の白露がそう呟いた。自嘲するような、どこか露悪的な声色で。
「あいつにも、村の人たちにも悪いことをしてしまった。わしの勝手な思いのせいで、双方、自分を責めるに違いない。本当に済まないことをした。……だがな、どうか許して欲しい。わしには他に方法が無かったんだ」
項垂れる老人を、久太は茫然として見ていた。
――これが、白露の記憶か。
だとすれば、これは白露が死にゆく直前の記憶だ。
久太はこんなに弱った白露を、生前一度も見たことがない。
文言と、悔恨を滲ませたような声で悟る。
――これは、白露の懺悔だ。
「わしはなぁ、この村が好きだった。村人が病で苦しむ姿は哀れだ。助けたいと思っていた。自分に出来ることはなんでもしたいと、本気で思っていたんだ。だが、なぁ。それがそもそもの自惚れだったんだろうな。わしに出来ることなんて、ほんの少ししもない。皆、救えんかった。皆、わしの手から零れ落ちて行って……」
「そんなことないです!」
叫んだのは熾だった。久太が驚いて振り返ると、身を乗り出した熾が息巻いて声を上げる。
「白露さまに救われた人はたくさんいます! 僕だって、僕の両親だって! 村の人皆、白露さまに助けられました!」
「ほんとになぁ、悪いことをしてしまった」
しかし、白露に熾の声はまるで届いていない。
ますます沈んでいく声色に、熾は悔し気に拳を握りしめた。
その様子を見ていた梔乃の瞳が揺れる。
――余計なことをしてしまったかもしれない。
生前の白露の記憶から、彼の思いを直接聞くことが、久太たちにとっての慰みになるだろうと思っていた。しかし、結果は、ただいたずらに彼らの悔恨の感情を煽るばかりで、ほんの慰撫にもなっていない。
(……もう、辞めようか)
顕現を解いて、元に戻そうか。そう思った時だった。
「久太はなぁ」と、白露が云いだしたのは。
「あいつはなぁ、拾ったときはドブネズミみたいでなあ。小生意気でちびで、どうしようもない子供だったがな。それでも可愛かったよ。一番可愛かったし、一番大切だった。村の人たちも大事だったが、家族はあいつだけだった」
はっとして、久太が顔を上げる。
どうして。そんなこと、生きているうちに一度も云っていなかったのに。
「老い先短い身で、我が子と呼ぶのは憚られた。近いうちに置いていくことになるのに、そんな無責任に親を名乗るような真似は出来ん。それでもずっと思っていたよ。愛していたんだ。ずっと、ずっと」
そう云って眉尻を下げた老人の目は、慈愛に満ちていた。久太は止まりかけていた涙が再び頬を流れていくのを感じた。
「なんで……そんなこと今になってから云うんだよ。死んじまった後に……」
本当はずっと不安だったのだ。家族と思っているのは、自分だけかもしれないと。白露は、久太のことを子供とは思っていないのではないかと。
心のどこかでは、疎ましく思っていたのではないかと。
「俺は! あんたに、ずっと謝りたくて。拾ってもらって、ここまで育ててもらって、でも俺は何も返せてない。ありがとうも云え無かった。毎日口ごたえばっかりで、なんにも出来なくて……」
久太の声は白露には届かない。それでも久太は云わずにはいられなかった。




