十三
たっぷり数秒、時間をとってから久太は間の抜けた声を上げた。
「あの日、僕はあの役人の男に脅迫される白露さまの姿を見ていました。僕の他にも見ていた者たちはいます。皆すぐに白露さまに云いました。自分たちが白露さまの無実を証明するので、安心なさってください、と」
しかし、白露は頷かなかったのだ。それどころか、頼むから来ないで欲しいとまで云った。
それを聞いた熾は、茫然として問うた。なんでそんなことを云うのかと。
白露のためなら、村中の者が喜んで集まるだろう。たとえどれ程の権力を持った者が立ちはだかろうと、この村に白露を裏切る者などいない。
当人に来るなと云われても、行こうとする者すらいたのだ。
しかし、白露の口からその理由を聞いた時、息まいていた誰もが言葉を失った。
「白露さまは、人に見えない場所であの男に脅されていました。十日後に白露さまを擁護する人間が現れたとき、久太さまを殺すと云われていたのです。だから、白露さまは村人に来るなと云いました。全ては久太さまを守るために」
「俺を…………? いや、意味が判らない。じゃあ初めから俺に罪を着せれば良かったじゃねえか。なんでわざわざそんな回りくどいことを」
男が何故久太に目を付けたのかは判らないが、それなら初めから久太に罪をでっちあげれば良かったはずだ。それに、もし久太を弑そうと画策しているならば、やはり久太の罪を里長の前で証明する必要が出てくる。
「あくまで、その男の目的は復讐だった、ということです」
玲瓏な声が響いた。見ると、琉霞がぞっとするほど冷たい表情で虚空を見ている。
「どういう意味だよ」
「恥をかかされ、矜持を傷つけられた腹いせに、白露さんに冤罪を着せたのでしょう? だから、男は白露さんに復讐したかったんですよ。白露さんにとって最も屈辱的で惨忍な方法で」
云ってから、少し溜息をついて琉霞は続ける。
「いいですか? 考えてみてください。ただ白露さんを亡き者にしたいだけなら、もっと簡単な方法がいくらでもあったんですよ。川につき落として事故に見せかけたり、闇討ちして通り魔の性にしたり。誰かに罪を着せることなんて容易です。ましてやああいう無駄に権力だけ持った傲慢な男。そういうのは得意でしょう。でも、男はそうしなかった。民衆の前に引きずり出して、あくまで表向きは公平な裁断を下したように見せて、処罰したかった。………要は演出です。村の人間に裏切られ、哀れに死んだ老人の姿を公に晒して笑いたかった。……胸糞悪い話ですが、権力者の中には割りに居るんですよ。こういう奴」
最後のほうは自嘲するような言い方だった。琉霞の立場からだと容易に想像出来てしまうのだ。この役人の思惑が。
「………っなんだよ、それ」
何かを堪えるように肩を震わせている久太を見ながら、琉霞は続けた。
「小賢しい男だったのでしょうね。生半可な脅しでは白露さんがビクともしないことを判っていた。だから、白露さんにとって一番大切なものを人質に取ったんです」
すると今度は熾が口を開いた。
「そう、です。久太さんが人質に取られてることを聞かされてもなお、擁護に参加しようとした者もいました。中には武器をとって戦おうとしたものや、遠くに二人を逃がそうとしたものもいました。でも、その全てを白露さまは丁寧に断りました。僕たちのような者に、膝をついて頭を下げられました。ご自分がなくなった後、久太さまをどうぞよろしく頼むと。………………そこまでされたら、もう誰も何も云えませんでした」
だが、久太は白露が死んでその日のうちに行方をくらませてしまった。
熾は、あの日のことを今でも鮮明に思い出すことが出来る。
曇天の下、焼き崩れる家の前に、まだ十二の少年だった久太が立っていた。
泣くことも出来ず、虚ろな瞳で立っている久太は、あまりに痛々しく、幼かった熾の胸はひどく痛んだ。
そのときのことを忘れられず、熾は村の人にも内緒で久太のことを探し続けていたのだ。そして噂を聞きつけて、二年前、照柿の里に久太がいることを突き止めた。しかし、その時は声をかける勇気が出なかった。あの日のことを久太は思い出したくないだろう。
自分達のことを恨み続けているだろう。もし、久太がもう過去と決別し、前を向いて生きているのなら、この事実はさらに久太を苦しめるだけだ。墓場まで持っていこうと考えていた。それでも毎年、白露の命日が近づくにつれて心が揺れた。やはり真実を告げるべきだろうかと迷い、久太に会いに楝へと足を運んだ。そして偶然、琉霞達に出会って、久太はまだあの日に囚われたままだという事を知った。
それならばと思い、今日ここで全てを話す決心をしたのだ。
「僕たちは白露さまを見捨てるなんて恩知らずな真似をしたくありませんでした。でも、白露さまにあそこまでされたら……もう、もう駄目でした。だって、知っていましたから。白露さまが一番大切にしていたものを。自分の命と引き換えにしても、守りたかったものを」
その時、ふと久太の脳裏によぎったのは、昔白露によく云っていた軽口だった。
『いい加減、大損するぞ』
身を削るような真似ばかりして、いつか痛い目を見るだろう。そういう懸念を含めた言葉でもあった。老体に鞭を打つ白露の身を案じて云った言葉でもあった。
(――それ、みたことか)
いつか自分が云った通りになったではないか、クソじじいめ。
自分を顧みないで人のことばっかり構うから、死んでしまったのだ。
「ほんと、莫迦だ………」
絞り出したような声は震えていた。ぽつぽつと、瞳から涙がこぼれる。
やるせなさと情けなさと苦しみと悲しみと怒りとがごちゃごちゃに喉元に迫ってきて、瞳から滂沱となって溢れていく。
今更、悔やんだところで白露はもういないのだ。死んでしまったのだ。
もう、会えない。死に別れたあの日でさえ、くだらない云い合いしか出来なかった。感謝も謝罪も伝えられていない。何一つ、何一つとして久太は白露に返せていないのに。
「なんで死んじまったんだよぉ、じじぃ………!」
呻吟が虚空に突き刺さる。感情の制御の効かない、子供のような声だった。
久太の時は、あの日から止まっていた。五年前のあの日、白露を失ったあの日からずっと。
心すら、錆びついて、動かなかったから。
たった今、何かが壊れて。その勢いのまま、心ごと崩壊してしまいそうだった。
実親の顔は、もうほとんど思い出せない。別に恨んだことなどないが、久太は親の愛というものを知らずに育った。ほとんど破落戸のような生き方をしていた久太の、枯れきった器に愛情を注いでくれたのは、白露だった。厳しいばかりで
口うるさい老人であったが、瞳の奥には誰よりも深い仁を宿していることに、久太は気が付いていた。幼い久太にとって、白露は師であり、父であった。少なくとも、久太はそう思っていた。照れくさいのもあり、白露にそう伝えたことは一度もない。白露の方も、久太のことを我が子と云ったことなど、一度も無かった。
それでも、久太にとって白露は唯一の家族だったのだ。




