十一
鎮守の森の木々が、風に揺れてさわさわと音を立てている。
いっそ忌々しいくらいに健やかな陽光が、緑陰の間に差し込んでいた。
緑萌ゆる季節。
精霊たちは春が好きだ。森も人の世も活気づいて、獣たちも長い眠りから目を覚ます。
「――風光る」
差し込む光を手で遮ってそう呟いた梔乃に、隣にいた少年がぴくりと肩を揺らした。
「なんて云いました?」
「なにも」
「いえ、何か云いましたよね。絶対」
しつこいくらいに詰め寄ってくる琉霞に、梔乃は呆れた顔でしっしっと手を振る。
「もう帰れば」
「ええー酷い。せっかくお掃除の手伝いしてるのに」
真白の一件があって以来、ここのところ琉霞は毎日梔乃のもとに来ていた。掃除を手伝うと云ったり、お礼に菓子やらなにやら沢山手に持って。
しかし琉霞は騒がしい上に、一方的にしゃべくり倒すばかりであまり掃除の役に立たない。
「あ、そうだ。もうすぐ来るころだと思うんですよ」
「なにが」
云いさした梔乃は、入り口から人の気配を感じて振り返る。そこには真白が立っていた。
「梔乃! ああやっと会えた。こことっても素敵なところねえ。森の奥にこんなところがあるなんて」
穏やかに微笑む真白の肌艶は、以前あったときよりも格段に良くなっている。
「もう出歩いて平気なの」
「ええ、もうすっかり。お医者さまにもお墨付きもらったわ」
そう云って嬉しそうに微笑む真白に、梔乃の頬もつられて緩んだ。
「本当にあなたのおかげよ。どうもありがとう」
「いいよ。もうお礼なら琉霞からしつこいくらい貰った」
苦笑する梔乃に、真白は「そういえば」と思い出したように云った。
「あの狐。消えちゃったのね。私、あの子にもお礼を云いたかったのだけど」
ことの始終は琉霞から聞いた。最後の桜は、狐が見せてくれた幻だったのだろう。
呪われていたとはいえ、狐の子に罪はない。むしろ、苦しみながら息絶えた狐を、真白は哀れに思っていた。
「なんだか切ないわね……」
寂し気に云った真白の横で、梔乃が口を開く。
「じゃあ云えば」
「え?」
「お礼。直接云えばいいよ」
「?」
首を傾げた姉弟を横目に、梔乃は虚空に向かって手を伸ばした。
「夜食」
そう小さく呟く。
すると、遠くのほうから「キュオーン」という甲高い遠吠えが聞こえた。
声のした方に目を向けると、森の向こう、土の上を弾むように駆けてくる一匹の狐。
「あれ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは琉霞だ。真白も同じように驚いて、手を口元に当てている。
狐は一直線に走ってきて、真白のもとへ向かった。
そのまま軽々と真白の肩に飛び乗って、すりすりと頬ずりをする。
「あらまあ」
「消えてないじゃないですか」
あんぐりと口を開けた琉霞が云う。
梔乃は罰が悪そうに自身の髪を触った。
「禊が終わったら、精霊に近い存在になったみたい」
「死んだ狐は精霊になるんですか」
「狐はいくつもの魂を持つっていうものねぇ」
そう云う真白の顔は嬉しそうだ。
微笑んで頭をなでてやると、ぐるぐると狐が気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「夜食っていうのは、名前かしら」
「そう」
最初にあった時に、夜を食んだように真っ黒だったから、梔乃がそう名付けた。
「ありがとう。今までで見た中で、一番綺麗な桜だったわ」
云われた意味が判っているのか、夜食が真白の周りを嬉しそうにくるくると跳ねる。
ひとしきりそうした後、今度は梔乃の胸に飛び込んできた。
「っだ」
勢いに負けてよろめく梔乃。その様子を見た真白が「あらあら」と笑った。
「今は梔乃が好きなのね。私、振られちゃったみたい」
「惚れっぽい子なんでしょうね」
胡乱な顔で琉霞が云う。
満足そうに梔乃の腕に収まった夜食は、そのまま勝手に寝息を立て始めた。
琉霞が不意になにかを思い出したように「そういえば」と口を開く。
「この子を殺した犯人についてですが」
「ああそれ」と梔乃が目を伏せる。「多分、あれも幽鬼だと思う。夜食と同じで、穢れをためた魂が呪いを振りまいてる」
「ああいうのは、結構いるんですか」
「居るね。ああいうのを祓うのが私の仕事だから」
「不浄を取り除いて、還るべき場所へ還す?」
「そう」
「一人で」
「まあね」
さらりと答える梔乃。そこにはなんのこだわりも見られない。
「だから、梔子の花なんですね」
ふと、力を抜いたように琉霞が云った。
なにかと死と関連づけられる花だ。
『死人に口無し』そんな言葉がある。物言わぬ死者になら、どんな罪を着せたとしてもばれることは無い、という酷い言葉だ。
しかし、もう一つ、こんな言葉もある。
『死人に朽ち無し』
たとえその身が朽ちようと、死者の想いも、記憶も、永遠に朽ちることは無い。
梔乃の抱える思いはきっと後者だ。儚くなった者たちも、決して見捨てはしまいと。
思いも記憶もどこまでも連れて行こうとしている。
琉霞は、今一度、目に映る景色を見回した。
こんな広い森に独りで。たった独りで、それでも凛然と咲いていた小さな花。
琉霞が見つけた、美しい花だ。
「梔乃、貴女はずっと一人でここに――」