紙葉、一葉『隣国の彼岸花』(4)
メメントがリコリスと出会ってから数日経ったある日のこと。
リコリスの家、もといラボで慎ましくも慌ただしくボヤ騒ぎがあった。原因は実験中の手違いによるものだった。すぐさま鎮火されたのはよかったものの、形容し難いほど散らかってる部屋のせいで火が大きくなるところだったとメメントから手痛い指摘を受けて大掃除を急遽敢行。てんやわんやとする清掃活動の中で、物で溢れかえる部屋からいろんな物が掘り返されることとなった。
そんな最中、メメントは一冊の本を部屋の隅で見つけた。
メメントは本に興味を抱くような人種ではなかった。恐らくどんなに面白いと言われる最高の娯楽小説であろうと、どんな人が読んでも感動すると言われる最高の詩集であってもメメントはあまり気に留める事はないだろう。
だがどうしてかその本には興味を持ったのだ。
「これは何?」
メメントはそう言ってその本をリコリスに見せ、続けざまに言葉を重ねる。
「この本はどこにも文字がない。なぜ?」
メメントの言うように、その本には文字が一切書かれておらず、本の中どころか表紙や背表紙にまで文字はない。本であるならば少なくとも文字の一つくらいどこかにあってもおかしくはないのだが、それが一切見受けられない不思議でいて異質な本だ。
余程気になるのか、メメントの尋ね方は淡々としているものの、かなり食い気味の気を感じさせる。
ここ数日でメメントは甘味以外に興味を持つことが中々《なかなか》ないということをなんとなく感じとっていたリコリス。
メメントが珍しくも本に目を向けたらしいことを喜び、満面の笑顔を見せた。
「あーそれは『白紙の本』って言って。白紙であること自体を楽しんだりするものなんだよ!」
「白紙を、楽しむ?」
「そうそう。白紙のページを見てると心が落ち着いたりして楽しいって言う人も世の中にはいたりするんだよ。私なんかはその白紙のページを見てるといろんな発想が思いつくことが結構あったりするよ。何か作るのに行き詰まった時に、この白紙のページを見ると、そのページにスラスラと文字が浮かび上がって見えるの。自分がどう作りたいのかっていう設計図やメモ書きみたいなものが頭の中で見えるんだよ」
「……?」
やはり理解し難いとメメントは梟のように首を傾けた。
それを見て困ったなとリコリスは頬を掻く。
「あー、だからほら。よく絵を描く人とかで、真っ白なキャンバスに下書きなんか描くことないって人がたまにいるでしょ? あれって真っ白いキャンバスを見た時に、自分の完成した絵が見えるんだってね。だからそのイメージに沿って描けばいいから下書きはいらないんだってさ。自分で言うのも変だけど、私もその部類なのかなって思ってるよ」
白紙を見ると設計図や完成形が頭の中で自然とイメージできて、その明瞭なビジョンをもとに作品を作り上げていく。だからその白紙のページに何か書き込むことなく、作品が出来上がっていく。
リコリス的にはそう言うものらしい。
「ならこれも、そう?」
そう言ってメメントは懐から似たような本を取り出し、リコリスに渡した。
どれどれと試しにリコリスが本を開いてみると、どのページにも文字はなく、確かにそれは『白紙の本』だ。
「これってメメントの?」
「そう。少し前にもらった。プレゼントにと」
メメントがそう言うと、リコリスは顔を綻ばせて手を叩いた。
「そう! なら有効活用しなくっちゃ! さっき例に出したこと以外にも『白紙の本』は色んなことに使えるんだよ! 例えばだけど、気まぐれで詩を書いてみてもいいし、日記にしてみてもいいし、書きたいことをなんでも書けばいいんだよ。なんなら、何も書かないでそのまま大事に取っておいてもいいと思うよ?」
リコリスはそう提案してメメントに『白紙の本』を返した。
だがやはり、いまいちメメントにはぱっとしないことらしく、その趣旨を理解しきれていない様子が見受けられた。
そこで一つ、リコリスはとっかかりになるよう助言を挟んだ。
「メメントはその白紙を見て何か思い浮かぶものとかないの?」
メメントは自分のように真っ白なページをじっと見る。
少なくともなんらかは見えるのではないかとリコリスは期待の言葉を寄せるが、はっきり言ってメメントにはそれが見えるとは思えなかった。
して案の定、暫し思ってみるもメメントには特に見えるものがこれといってなく、なんとかならないものかと少々考えあぐねることとなった。
そして数分。
メメントは重かった口を唐突に開いた。
「……ない」
「え?」
「何もない。やっぱり何も見えなかった」
やはり無表情であったが、心なしかその顔は申し訳なさを思わせるように暗かった。
「まぁでも。何か見えるって人がいるなら、逆に見えないって人もいるだろうし、気にする事はないんじゃないかと思うよ? メメントは間違ってないよ」
事実そうであるのは確かなことで、リコリスの言い分はめっぽう正しい。人というものは十人十色であり、その意見というものもまた然りである。だからメメントの意見は幾多もある意見の中の尊重されるべきその一つであり、そう思うことは全く持って間違ってはいないし、それを非難される謂れは当然ない。
リコリスは気にすることはないよと言ってメメントの肩を優しく叩き、そして今度はメメントが答えやすいよう質問の趣旨を変えた。
「それじゃあ、その本を送ってくれた人って誰なの?」
「アリス。私の……、多分恩師、と言うものだと思う。今はもういない」
「そっか……。それじゃあそのアリスっていう人はメメントにこの本をあげたのはなんでだと思う? 少なくとも私には意味があると思うよ」
そうリコリスが言い切る理由は確かにあった。
なんせその本は手作りだった。
手作りと言っても職人の手によるものではない。
素人の手によって作られたものだ。
だがしかし、その本の作りは丁寧でいて優しく、メメントに対するとても深い愛情を感じられるものだった。
それも全ては物づくりを生業としているリコリスだからこそ分かったことだ。
メメントにはリコリスの問いかけの答えになるものに思い当たるものがあったのか、懐を弄る。
「生きて……、生きて欲しいって書いてあった」
そう言うとメメントは懐から一封のダイヤモンド貼りの封筒を取り出した。そして何を思うのか静かに視線をその封筒に落とす。
どうやらメメントの恩師であるというアリスからの手紙のようだ。
手紙を包む封筒を見れば、それは品を感じさせるもので、メメントの恩師らしきアリスと呼ばれる人は相当気品のある高貴な人なんだろうとリコリスは思做す。
しかしながら、その品ある様子の封筒には似合わず古くなった血らしきものが付着していた。それを見て直感的にその手紙について深く触れない方がいいことが偲ばれ、メメントを慮ったリコリスは野暮なことは何も表白することなくただ優しく微笑む。
「ならメメントは生きて何をしたい? アリスさんは、メメント自身がしたいように人生を生きて欲しくってそんな言葉を遺したんだと思う。自分自身がしたいことを決めて、それをちゃんとして、満足して、よかったって思えて、それで初めて『生きてる』って言えるんじゃないかなって私は思うよ」
その言葉にはっとしたメメントは、再三の沈黙に徹する。
だが此度の沈黙は、メメントがリコリスの問いの真意を理解できなくて困り果てるが故の沈黙ではなく、恩師が遺した言葉を深く思量し、自分なりの答えを必死に絞り出そうと踠いてのものだった。
「少し考える。待ってて」
無感情でいて何事にも淡白だと思われたメメントが、初めてリコリスにその自我らしいものを見せた。
その健気でいて純朴な幼い自我に賛同したリコリスは、
「うん、分かった!」
と応え、メメントがちゃんとした答えを出せるまで暫し楽しみに待つことにした。