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アルファベット短編集

学生Gの末路

作者: 猿戸柳

 六月の終わり、Gはふと思い立って普段あまり使わない(かばん)の中身を確認していた。単位取得の為のレポートに行き詰まったのがきっかけである。高校時代もそうだが、どうも彼は試験前に注意力が散漫になり、別の所に目がいってしまう性分(しょうぶん)らしい。漁っていると色々な物が出てきた。コンビニのレシート、お菓子の残り、鼻をかんで捨て忘れたティッシュ。どうして日本はこうも外にゴミ箱が無いのだろうとGは思う。捨てる場所がもっと多ければ私の鞄の中も幾分か清潔に保てるはずなのに。Gの意見には賛成だが、彼は進捗(しんちょく)が滞っている論文のイライラを、日出づる国の数少ないゴミ箱にぶつけているのである。確かにGは決して怠惰(たいだ)な性格ではない。講義にはちゃんと出席しているし、今まで落とした科目もほとんどない。洗っていない食器達が無尽蔵に積み重なる事も無いのだ。(むし)ろ興味がある事柄に関しては几帳面な方である。彼は小学生の頃、朝顔の観察日記や、セミが羽化するまでの記録をつけたりするのが好きだった。今も手帳には自身の予定がきっちりと書かれている。

 そんな彼が鞄の底から飲みかけの五百ミリリットルのペットボトルを一本発見した。皆さんも一度はこのような経験があるのではないだろうか。私はある。つい先程も、いつ口をつけたか分からないペットボトルを見つけ、中身を流しに捨てた所だ。話を戻すがGは専らミネラルウォーターを買っている。理由としては飲み物の中では一番安価だし、何より飲み合わせや食い合わせを気にする必要が無い。おにぎり、サンドイッチ、胃腸薬、全てに対応出来る万能飲料だ。彼もまた中身の水を捨てようと思い立ち上がったが、ペットボトルの下の方に沈んでいる奇妙な物体に気づいた。底に沈殿しているそれはさながら塩の粒の様で、ゆらゆらと光を屈折させ陽炎(かげろう)(ごと)き振る舞いをしている。試しに少し振ってみた。溶ける訳でもなく、上の方へ少し舞った後また底へゆっくり戻って行った。口内には無数の雑菌がいると言われている。もしかしたらその菌のどれかが水を腐らせただけかも知れない。しかしGは好奇心をくすぐられたのか、手帳に 

 

 六月二十八日 飲みかけのペットボトルに沈殿した透明な何かを発見。これから観察して行きたいと思う。塩か砂糖に見えたが少し振ってみても溶けない。


と綴った。これは絶好の暇つぶしである。例え変化が無かったとしてもこうやって何かを見て書き留めるのが楽しい。分厚い書物の考察をまとめたり、ある問いに対して自身の考えを述べたりするよりずっと面白い。彼はレポートや講義の合間にこの謎の物体の観察を始めた。


 六月二十九日 変化無し。六月三十日 変化無し。


まあ当然と言えば当然だろう。G自身もさほど期待はしていなかった。もう少し経過を観察してみて何も起こらなかったらとっとと捨ててしまおうと考えていた。しかし翌日の朝、変化が訪れる。

 Gはいつもの様にペットボトルを見てみる。いつも通り底に沈殿物が溜まっている。しかし良く目を凝らすと今まではただそこに(とど)まっていただけの粒がわらわらと下の方で(うごめ)いていた。さらによく見ると、どうやら孵化(ふか)したらしく、動いている粒には黒い目の様な点も確認出来る。Gは嬉々としてその様子を手帳に記した。


 七月一日 あの沈殿物に変化があった。(なか)ば諦めていただけに驚いている。あれは生き物だ。目の様な物がついていて、今ペットボトルの下の方をフヨフヨ漂っている。一番底には卵の殻が堆積(たいせき)しているようだ。


彼はこういう楽しみを人に言わない癖がある。自分でこっそりやるのが好きなタチなのだ。男子小学生が大人達には内緒で秘密基地をこしらえたり、カマキリの卵鞘(らんしょう)を人知れず机の中にしまっておくのと同じ気持ちである。前述の朝顔やセミの観察日記も、先生に提出するまでは断固として誰にも見せなかった。隠し事が出来るとわくわくするものである。

「これは凄いな。まさかあれが卵だったとは、観察しがいがあるぞ」

いつも黙々と作業をするタイプのGにとってこの独り言は珍しい。よほど嬉しかったのだろう。彼の日記は続く。

 

 七月二日 やはり動いている。見間違いではなかった。エサの心配をしていたが、どうやら卵の殻を食べているらしい。おそらくアルテミアみたいな生物だろう。今度きなこか金魚のエサでも買ってこようか。ただアルテミアが自分の卵の殻を食っているのは見た事が無い。第一これは淡水だ。


 七月三日 以前見たときよりほんの少し大きくなっている。目は二つついている。足はたくさんある様で、体は細長い。そしてその足を使って器用に水中を移動している。エサをやってみたが食わない。砂糖の入っていないきな粉も、すり潰した金魚のエサも食べない。これは少々困った。底に残った殻もほとんど無くなっている。このまま死なせるのは惜しい、何とかならないか。しかしこの生物が何なのか全く見当がつかない。


アルテミアとはシーモンキーとも呼ばれている小型の甲殻類で、よく子供の自由研究で使われる事もあるのではないだろうか。私も小学生の頃この極小のエビを育ててみたいと親に相談したが、どうせあんたは途中で放り出すからダメだと突っぱねられた記憶がある。当時は甚だ遺憾であったが、今思うと彼らの言い分は正しかった。きっとGはアルテミアをきちんと育て上げたのだろう。果たして彼がレポートや試験の準備をしているのかは少し心配だが、こういう息抜きも必要に違いない。ずっと同じ事をやっていても息が詰まるだけだ。

 Gの様々な試みも虚しく、この奇怪な生き物達は彼らの卵の殻以外なにも食わず徐々に動きも鈍くなり、Gの目から見てもこの有機体が明らかに弱っているのが分かった。そして彼は何を思ったか、さっき切った自分の爪をペットボトルの口から入れたのだ。一か八かの選択だったのだろう、やけくそかもしれない。しかしどうだろうか、彼らがわらわらと表面張力で水面にとどまるGの爪へ集まり始めたのである。

「おお食っている、俺の爪を食ってるぞ。お前らはこんな物を食べるのか、変な奴らだな」

そう言うと今度は髪の毛をプツンと一本抜き、またペットボトルの中に入れる。また寄ってくる。水は今まで入れたエサで大分汚くなっていたがそれは関係ないらしい。もともとずっと放置していた水でも生きていたのだから平気なのだろう。それにしても人間の髪や爪を食べるなんて少し不気味だ。まるで黒板を引っ掻いた時に出る音のような不快さである。しかしGにとってそんな事は無かった。それどころかこの小さな生命体達が活気を取り戻したのに満足感すら覚えていた。


 七月四日 弱っていた彼らが遂にエサを口にした。食ったのは爪や髪の毛である。その後興味本位で耳くそや鼻くそも入れてみたら食べていた。面白い生物だ。しかしこの生き物に名前が無いのは不便だな。爪を最初に食ったからツメクイとでも呼ぼう。ともあれこれでツメクイが死ぬ心配はしなくて良さそうだ。下手に水を換えたりせず、このままエサをやり続けて観察していきたい。


 Gは毎日爪や髪をやり続けた。体も徐々に大きくなり約三センチメートルにまで成長した。このツメクイは食ってるエサも気味悪いがその見た目も気色悪い。簡単に形容すると水中を泳ぐ半透明のムカデである。目はつり上がっていて(くれない)一色。スズメバチの様な触覚と、見るからに強靭そうで左右に開く(あご)を有している。さらにエビの背わたの様な黒い筋が一本、体の真ん中を通っているのだ。明らかに異様な外見である。そしてこのツメクイはさらに物騒な行動をとる。

 いつも通りにGがエサをやろうとすると、少し彼らの数が減っているように見えた。気のせいかと思い中を見てみる。するとどうだろう、ツメクイ達が自らの顎を使い仲間同士で食い合っているのである。共食いだ。お互いを食いちぎり、その長い体をうねうねと身もだえさせている。勝者達は数多くある足を器用に使ってちぎれた死体を持ち、鋭い顎でむしゃむしゃと食らっている。戦いに敗れたいくつもの死骸が無惨にも水中を漂っていた。普通ここまで来たら生理的嫌悪感から、ペットボトルごとそのままゴミ箱へ捨てるだろう。しかしGは違った、これまでと同様に淡々と日記をつけたのだ。


 七月八日 ツメクイ達が共食いをしていた。きっと一番強い個体を決めるのだろう、興味深い。あいつら同士で食い合っているのだからエサをやる必要はしばらく無いはずだ。体もどんどん大きくなっていく。一匹だけになったらもう一度エサをあげてみよう。


日が経つにつれ、最初は何十匹も居たツメクイ達が一匹、また一匹と仲間に食われて姿を消した。Gがエサを与えなかったのも原因の一つだろう。

 そしてついに最後の一匹が残り、濁った水の中に死骸は見当たらなくなった。大きさは三十センチメートル位だろうか、もうペットボトルの中が窮屈そうで、円を描きながら上ったり下がったりを繰り返している。まるで動く螺旋(らせん)階段のようだ。ここまでツメクイが大きくなって気づいた事がある。半透明の頭の中に、小さな脳が収まっているのだ。ピンク色をしていてまるで人間のそれである。そしてその脳から、例の黒い筋が尻尾の先まで伸びているのだ。頭より数センチ下には心臓の様な物がぴくぴく動いている。はたしてこの生き物は一体何なのだ、虫なのかエビなのか全く分からぬ。Gはこのグロテスクな生物を恍惚(こうこつ)とした表情でしばらく眺めていた。誰にも言わず、自分だけで育て上げた達成感がそうさせたのだろう。このツメクイは僕の物だ、とでも言いたげである。そして彼は手帳を取り出し一心不乱にツメクイをスケッチし始めた。目を見開き、カリカリと何かに取り憑かれたかの様に鉛筆をはしらせる姿は狂気そのものだった。描き終えると、

「よし。出来たぞ、これは凄い。本当に凄い。こんなの初めてだ、素晴らしい。そうだ、とっておいた爪を食わせてやろう。ちょっと待ってろよ」

と言って引き出しに閉まってあったビニール袋をもって来て、中に入っている爪を取り出した。そしてペットボトルの(ふた)を開けて中を覗き込んだ瞬間、ツメクイが勢い良く飛び出しGの鼻の中へ侵入した。どうやら体表が粘液で覆われていたらしくするりと入り込み、鼻腔を数多(あまた)の足が駆け抜ける。それからはあっという間だった。うなじ側の咽頭(いんとう)を内側から食い破ってから脊椎の中にはいり、首の内部にビッタリと張り付いてさらに脊髄神経を食いちぎって、ツメクイ自身の神経と繋げた。ツメクイはGの体を乗っ取ってしまったのだ。Gの意識だけは正常に働いているが体を動かせない、想像を絶する恐怖である。しかし本当の惨劇はこれからだった。Gの体はキッチンから包丁を取り出し、外へ向かった。そして彼、いや、()()()はそこら中の人達を手当たり次第に襲ったのである。

 その後のニュースで、Gは刃物で多数の通行人を強襲した後、自らの首を切って自殺したと報じられた。彼の自宅で濁った水の入ったペットボトルとツメクイの観察日記が発見され、Gは心神喪失状態だったと判断された。しかし自殺した直後のGの首から血に染まった半透明のムカデの様な何かが、ぼとりと側溝に落ちたのを見た人が居たとか居なかったとか……

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― 新着の感想 ―
[良い点] 得体の知れない怪生物がペットボトルの中で成長を続ける様子が、観察日誌という形でリアルに描かれていると感じました。 淡々と怪生物を観察するG君、マッドサイエンティストの素質がありそうですね。…
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