片瀬栞という人間
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時刻は二時十三分。私は二階に上がって突き当りにある樹脂シートで仕上げられたシンプルな扉の前に立っていた。
部屋の入口となっているその扉は開き戸の内開き仕様。銀色に輝く鉄製のレバーハンドルを握り、私は息を吐く。
息を吐く理由は心を落ち着かせる為。ドクン、ドクンと脈打つ心臓は自分自身でも感じられるほどに速く脈打っている。
私、片瀬栞は焦燥感に駆られていた。
「……ふぅ」
これといって焦っているわけではない。何かに物理的、精神的に追い詰められてるわけでもなければ他に何か私に影響を与えるようなものがあるわけでもない。正直なことを言ってしまえば犯さなくてもいいリスクを犯す快楽主義者のような心持ちなのだ。
といってもこれは二度目。一度目はちゃんとした理由があったからそこまで緊張せずに達成できたものの、今回は違う。私がそうしたいから、という自己中心的な理由以外にちゃんとしたものなどない。
もしそれが暴かれてしまったら私のプライドは引き裂かれ、羞恥に晒されながら過ごさなければならなくなってしまう。
それでも、私はそのリスクを犯して扉の前にいる。
「困ったものね、本当に」
この欲望はもう何年前から抑えてきたものだろうか?確か、この欲望を抱くようになったそもそもの原因は今から十五年後に起こるあの事件。それから大体八年ぐらいしてから欲望として現れたのだから、七年程度か。
よく抑えてきたものだと褒めたくなる。まぁ、時々解消していたから完全に抑えきれていたわけではないのだけど。
「…………よし」
言い訳は考えてある。もし起きてしまったのなら、冷静を保ちさえすれば騙せるだろう。
私は決意を固めて、鉄製のレバーハンドルを握り右回しする。キィィと音の鳴り、唾を飲みながらも部屋へと足を進みいれた。
殺風景な物の数々。必要最低限の家具に彩りさえ白と茶色という単調な色しかない部屋。趣味という趣味も見当たらず、強いてあげるとすればベッドの手前にある本棚は勉学の参考書や小説などの文芸創作物で埋まっている。
歩を進めた先には部屋の三割を占めているであろう長方形の寝具。隣には小さな棚にデジタル式の時計が置かれていて、その手前には私が一度目に訪れた形跡でもある椅子が置かれていた。
寝具から聞こえる寝息。膨らみのある布団の先から少しだけ見える髪の毛。心臓が大きく脈打ち、それを無視して椅子へと腰をかける。
そこには私達の護衛対象である八雨瑛士くんが眠っていた。
十八歳という年齢に見合う顔立ち。茶色の髪は目にかからない程度まで伸びていて外側に跳ね上がる癖っ毛。寝ているからなのか、普段より癖が酷く感じるがそれもまた愛らしい。今は閉じられているがくりくりとした瞳に落ち着いたクールな表情はきっと女子全般に人気のあるはずだ。きっと彼の性格上、あまり友好的ではない性格だろうから声をかける女子も少ないだろう、というよりそうであって欲しい。こちらに向ける普段と違って無防備な顔は私を誘っているのかと思ってしまうほどに魅力的で、少しだけ開いた口も曝け出された首筋も私から見てしまえば淫らな欲を促進する薬のようなものだ。
「…………はぁぁぁ」
正直に言おう。私は八雨瑛士をこよなく愛している。
クールな顔も、落ち着いた声も、少し筋肉質な体も、男を感じさせる匂いも、彼が手にとったものでさえ、私は全てを愛している。
よくこの愛情を七年程度も隠し通せたものだと自分を褒めてやりたい。
「はぁ……はぁ……」
息が荒くなっているのに気付いて、呼吸を整える。あまり音を立てるのは宜しくない。
一度目、私がここを訪れた時は看病という目的があったからこそ疑問に思われなかったのだから。あの時、瑛士くんは私自身に驚いても私の行動には驚かなかった。
しかし今回は状況が違う。看病をする必要などないし、護衛とはいえ別にすぐ近くで見張る必要もないのだ。寧ろ壁に囲まれていて外を把握できない部屋なのに傍で見張るというのは愚策でしかない。
そういうわけで音を立てるのは宜しくない。ましてや瑛士くんに触れるなどという行動なんて以ての外だ。
「……ッ」
視線を唇に移す。
私は今日、あの唇を挟むように自身の唇を押し付けて舐めたのだ。
唇を噛み締め、しかし結果的に巻き込んでしまったことに罪悪感を感じていたあの表情。悔しくて悔しくて、後悔してももう遅いということを実感しながらも自分を責めていたという事実。
今まで冷酷で大人びた八雨瑛士さんを見てきた私にとって、年齢相応の幼さを感じさせる表情は私の色欲を抑えている錠を壊すには十分すぎた。
それ故の行動だったのだが、家に戻ってから瑛士くんの反応は相変わらずのものだった。瑛士くんの猜疑心の薄さが、私がここに訪れようと決心してしまった原因でもある。
「ふぅ……ダメよ、私」
これ以上を求めるのはダメ。瑛士くんに嫌われてしまえば私は生きる意味を無くすようなもの。この行動がバレてしまえば多少なりとも瑛士くんには嫌悪感を抱かれるだろう。
それだけは、絶対に嫌。
しかし、まるでそれを否定するかのように瑛士くんが布団から腕を曝け出した。
「すぅ……ん、あ……」
目を覚ましたわけではなく、ただの寝癖のようだ。内心ホッとしながらも曝け出した腕に視線が向かってしまう。
あぁ、触れたい。そう思い、体がビクンと痙攣するかのように震えた。私の心も体も、その曝け出された腕に触れることを望んでいる。
私の気を知らずに誘惑してくる――誘惑するつもりはないのだろうけど――瑛士くんはなんて酷いのかしら。そんなことされたら――触れるしかないじゃない。
私は手を伸ばす。心臓が扉の前に立っていた時とは比べ物にならないほどに脈拍が速くなる。
後少しで触れてしまう私の手、指先。バレてしまえば彼に不審の念を感じさせる目で見られてしまうかもしれない。バレなければ、私はじっくりと性欲を刺激するそれを堪能できるかもしれない。
どちらも、最高。しかし前者はオーガズムを迎える女性の瞬間的な快楽だ。それは良くない。そう理解しているにも関わらず、伸ばした指先は瑛士くんの手首に触れていた。
「――――ッ」
触れてしまった。瑛士くんの腕に。無防備に寝ている、私にとっての愛そのものに。
心と体が満たされているのが分かる。それは安心的な意味ではなく、緊張感やリスクを感じつつも達成感に溢れるような感覚だ。
「……ぁ」
しかしそれは長く続かなかった。私の指先が触れたことによってこそばゆい感覚に襲われたのだろう、瑛士くんは顔を小さく歪めながら寝返りを打ち、腕を布団の中へとしまった。
小さく残念な意を持つ吐息が漏れてしまう。しかしこれで良かったのかもしれない。あれ以上瑛士くんに触れ続けてしまったら私の性欲は溢れ出て瑛士くんに手を出してしまうかもしれないから。
口惜しさを感じつつも、私は手を引く。
「焦らないの、私。まだチャンスはあるんだから」
小さく言い聞かせるように呟く。
そう、瑛士くんに触れるチャンスはまだある。部屋は異なれど同じ建物で眠り、食事や会話をしながらも仲を進展させていくのだから。
そう言い聞かせ行動を制御しながら、私は時織との監視の交代までただ瑛士くんの顔を眺め続けた。