一つ目の影
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視界が霞む。脳にしっかりと酸素が届いていないのか、頭が働かない。あまりの激痛に指一本でさえ動かすことができず、まるで全身を鎖で縛りつけられているかのような感覚。
霞む視界でどうにか状況を確認しようと、眼球を動かして視線を動かす。
どうやら俺はどこかに寝転がっているようだ。頬を擦り付けるようにしているようで、小粒が敷かれているのかあまり心地のよいものではない。
この臭いは、土や砂に近い。いや、まさにそれだ。砂であれば小粒の感触があるのは納得できる。そうすると、俺は外の地面に寝転がっていることになる。
ふと、気づくとぼやけた視界に深緑色の布が映った。眼球を動かすだけではそれの正体は確認できず、風に揺れながら俺を見下げるようにある。
その布が風による揺れとは異なって不自然に動いたと思えば、布の一部から青い光が漏れ出した。円形で、よく分からない筋が多くある光。
あれ、俺はこの光を――見たことがある?
そう思ったと同時に、記憶が鮮烈に蘇る。
「う、わぁぁぁぁッ!」
飛び上がるように起き上がる。感じたのは鋭い痛みでも爆発音でもなく、青い光とは一転して昼白色の光。下半身が妙に温かく、見てみるといつも就寝の際に世話になっている我が家の布団。真っ直ぐ先にあるのは参考書や小説が綺麗に並べられた本棚。
いつも見ている光景。つまり、ここは我が家のベッドだ。
「俺、は……」
記憶を巡る。轟音と頭痛を感じ、公園に寄れば正体不明の人間に襲われた。あと数秒遅ければ殺されていたところに現れた白銀の鎧に赤い宝石の埋め込まれた剣を持つ人間。そして、残りの三つの影。
「あれは、一体――」
そこでようやく、ベッドの隣に佇む何かに気づいた。
「んぁッ!?」
自分自身でも変だと思う声をあげ、その佇む人間から距離を取ろうとする。
「う、ぐっ!?」
しかし公園で襲われ、爆風で飛ばされた時に打ち付けられた痛みが体を縛り、布団から出ることさえ叶わなかった。
「体が癒えていないのだから、まだ寝ていなさい」
透き通る綺麗な声。あまりに美しいその声に唾を飲み、呆然としていると布団の隣に佇んでいた女性は俺の体を敷布団へと押し、掛布団を肩まで被せた。
流れるような艶のある黒髪に宙を舞う汚れを知らない雪のように透き通る白肌。気品を感じさせる長い睫毛に撫でるような目つきにも関わらず、左目にある泣きぼくろは可愛らしさを演出している。ルージュを引いていない唇のはずなのに視線がそちらへと移ってしまうほど魅力的だ。
まるで美しいという形容詞を体現したような女性。何故俺はこんな女性に看病されているのだろう? そもそも、彼女は誰だ?
「私は片瀬栞。詳しいことは後で説明するのだけど、とりあえずあなたの味方よ」
疑問に思っていたことが顔に出ていたのか、片瀬栞と名乗るその女性は俺の聞きたかったことを答えてくれた。
味方かどうかはともかく、敵ではないことは分かった。敵ならば看病するはずもないし、ここは確かに俺の自宅だ。何故住所を知っているのか分からないが、ここまで運んでくれたのも彼女のはずだろう。
そこで、俺は疑問を抱いた。
「俺を助けてくれたのは鎧を身に纏っていたはず、なんだけど…それもあんたなのか?」
そう、俺が意識を失う前に見たのは銀色の、中世ヨーロッパを感じさせる鎧を身に纏う人間の後ろ姿だ。
ただ、どちらかといえば華奢な体型をしているこの女性があの如何にも重量感のある鎧を身に纏い、赤色の宝石が特徴的な剣を振り翳す姿が思い浮かばない。むしろ、鎧に着られてしまうようなものだと思うのだが。
「それは私じゃないわ。あの時、あなたを助けたのは四人いるの」
「……あ」
そこで思い出す。大々的に視界に映ったのは銀色の鎧だったが、その後にも三つの影が現れたことを。ということは、彼女はその影のうちの一人ということになる。
となると俺はまだ三人の救ってくれた恩人に顔を合わせてないということだ。
「残りの三人は後で紹介するつもりよ。聞きたいことは山ほどあるのでしょうけど、今はあなたの治療に専念するわ」
なんというか、話してて分かったことがある。
この女性は驚くほど知性に富んでいる。俺が考えていることや聞きたいことは全て予想できる範囲内にはあるのだろうが、それでもここまで先回りして返答できるものではない。
一体、何者なんだ?
「なぁ、あんたは――」
「あんた、なんてやめて頂戴。私は片瀬栞よ」
「じゃあ……片瀬は――」
「栞、よ」
何故苗字で呼ぶのを弾圧されるんだ?ほぼ初対面のはずなのに名前で呼ぶ方が違和感があるだろう。
「……」
しかし指摘されてからもう一度苗字で呼ぼうとは思わない。まぁ、弾圧されているからだ。
「今日はもう眠りなさいな。聞きたいことは明日から受け付けるわ」
そういうと栞は俺から視線を外し、清らかさを感じさせる所作で立ち上がって部屋の出口へと歩いていく。
パチッという電気のスイッチが押される音と共に白昼色の光は消えて、扉を開けた栞の顔が廊下から差す光に照らされている。栞は一度俺を確認するかのように振り向いた。
「それじゃあ、おやすみなさい。《《瑛士くん》》」
閉められる音と同時に完全に光源が消えた。
「……だから、なんで俺の名前を」
考えても仕方のないことだと俺はため息を吐いて目を瞑る。
無駄なことを考えて時間を浪費するより、まだ痛みの残る体を少しでも回復させる為に休養の時間に回す方が得策だろう。
それに、栞を含めた他の三人も明日には顔を合わせるのだろうから。