資格
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朝食の支度を任せている瑛士くんと結乃さんがキッチンへと姿を消し、自由行動となった。話したり、休んだりと。それぞれ行動する皆を背に、私は真っ先に居間から去った人物を追いかける。
「莉世、ちょっといいかしら」
「……女猫か。なんじゃ?」
いつもと違う低い声。振り返る表情は落ち着いたもので、警戒をしているようにも思えるそれは一寸も動かずに私を見据える。
「どうするつもりなの? 瑛士くんとの関係」
私にとって、これは大問題だ。瑛士くんを護衛する立場である莉世と瑛士くんの間に溝ができてしまうとこれから支障をきたす可能性が高い。
と、それは表向きの心配なのだが、本音は莉世の心境を察してのものだ。
「どうするつもりとは?」
「惚けないで」
「……煩い女猫じゃな」
莉世は私の言いたいことを既に理解している。だから莉世は向き直り、私に正対した。
「話さなければ護衛ができないわけではあるまい。私達の目的はあくまで瑛士の護衛じゃ。私情を挟むつもりはないし、そうすることもない」
「――ッ」
違う。それは本心であっても、違う。分かっているのに、どうしてこのじゃじゃ馬は隠そうとするのか。
「それでいいのね」
「それでいいのじゃ」
違う。よくなんかない。心の奥底から「嫌だ」と思っているはずなのに、何故。
「なんで……なんでッ!!」
言おうとすれば声にしにくいものだった。莉世のことを話すには私はそれを知らなすぎる。知らないけれど、触れていいことではない。
だからこそ、声にならない。
「元より儂に瑛士を愛する資格など無かったのじゃ」
私は知っている。莉世がどれだけ瑛士くんを愛しているのか。
莉世は無邪気で愚直だ。だから私は愛を行動で伝える莉世を羨み、妬んだ。私にはできない、と。
それは心の奥底から愛しているからこその行動だ。瑛士くんと一緒にいる時の莉世は一番輝いていた。女の私でも、癪だけれど可愛いと思った。
だからこそ。
「どうして、そんなことが言えるのよ」
なんで、そんなことを言えるのか分からなかった。
資格なんてどうでもいいじゃない。愛したものを愛し続けることの何が悪いのよ。
「どうしても何も、事実じゃ。資格など、無い」
莉世の形容し難い表情を見て、そう思っているのが分かった。
本当に、この子はそう思っている。本当に、自分には好きな人を好きと言う資格が無いと思っている。
私はその様子にある感情を抱いていた。それは抱き続けてきた羨望でも嫉妬でもなく、溢れそうになる鬱憤。
「瑛士くんは優しいわ。あなたが瑛士くんにしたことは彼にとっては重要じゃなくて、あなたのことを心配しているはずよ」
「うむ、瑛士は優しい。話しかければ、いつも通りの日常に戻れるのだろうな」
莉世はちゃんと分かっている。瑛士くんが優しいこと、声をかければ受けれいてもらえること、いつも通りの日常に戻れること。
それでも行動に移さない柔弱な姿に鬱憤が爆発しそうだった。ドロドロと溢れ出し、怒気に身を任せてしまいたくなる。今にでもこのじゃじゃ馬の首根っこを掴んで、その悟ったような表情を引っ叩いてやりたい。
「それでも、儂には資格が無い」
ついに頭の中で何かが切れるような音がした。
気づけば衝動に駆られて体が動き、綺麗な彩りをしている着物の胸倉を掴み、壁へと小さい体を押し付けていた。
「何がッ、資格が無い、よ! そんな理由で諦めるほどのものだったの!? 今までのあなたはそんなのを蹴散らしてやりたいようにしてたじゃない!!」
鬱憤が爆発した。今まで私が憧れていた姿を間違いだとでも言うかのような発言に、冷静さを失った。
莉世はされるがままだった。胸倉を掴む私の手を解こうともせず、力いっぱい壁に押し付けているにも関わらず抵抗しようとしない。視線すら逸らし、俯くその姿がさらに私を激情させる。
「資格が無いって気取ってれば瑛士くんに気にかけてもらえるとでも思った!? 過去のことをずっと気にしてそんな姿見せるくらいなら――」
ダメだ、と思った。本能的にそれ以上は言うべきではない、と。理性はそれを言う必要はないだろう、と分かっている。
それでも、私は禁句を口にする。
「――そんな過去、捨てちゃえばいいじゃない!!」
一瞬だった。
朱色の鋭い瞳が揺れるように動き、胸倉を掴んでいた腕を掴まれる。解かれたと思えば胸倉を掴まれて位置を交代するように、ドンッと大きい音を立てて壁に押し付けられていた。
まず苦しいと思った。胸倉を捕まれ、壁に押し付けられるだけでこんなのにも息が詰まるなんて。その次に、発してしまった言葉の罪の重さを知った。
「お主には分からない」
落ち着いた声だった。
「儂の気持ちなど、分からない」
その中に、怒りが込められていた。
「愛する人を、知らずの間に苦しめてしまう気持ちが分かるか」
その中に、悲しみが込められていた。
「愛する人が、それを知って苦しんでしまう儂の気持ちが分かるか」
どうしようもなく虚ろで、震えた声だった。救いようのない声だった。まるで死者のように生気の無く、生者とは思えない声だった。
「それがどうしようもないものだと知り、ただ自己嫌悪に陥る儂の気持ちが、お主に分かるか」
分からない。いいや、分かるはずがない。そんな矛盾に矛盾を重ねたような心を、理解できるはずがない。
私は他人だ。別の心を持ち、違う人生を生き、同じ位置に立っている。
それでも、それがどれだけ空虚なのか。知らなくても、それだけが広がっているのは分かった。
「瑛士は優しい。何度その優しさに救われたことか。何度、その優しさに漬け込みたくなったことか。それでも、できないのじゃ」
いつもの威圧感のある瞳の面影はない。朱色の瞳が、溜まった涙でぐらぐらと揺らいでいる。
「漬け込めば、儂はきっと救われてしまう」
私には到底理解のできない話だ。だって、私は栖城莉世ではないから。
「儂に、資格は無いのじゃ」
息苦しさが無くなる。力が次第に弱まり、掴み上げられていた胸倉が離された。つま先立ちになっていた足がぴったりと廊下につく。
廊下の先へと歩を進める後ろ姿。それはまるで何事も無かったかのように落ち着きを取り戻している。
「私、知らないから。私と瑛士くんがどうなっても、いいってことよね」
その後ろ姿に吐き捨てるように言う。
莉世は葛藤した末にその決断をしたのだろう。でも、私はそれに納得できない。理論的に導き出された正解だとしても、納得できない。
そんな声を無視するように莉世の姿は見えなくなった。
それからというもの、私の時間はいつもより遅く流れていった。




